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『「部落民」とは何か』

藤田敬一 【編】 阿吽社 1998年9月30日 2000円+税

 

(Lovely Babyface)

 つつ、 ついに出た。 なんなんだこれは。 普段、 完読することはめったにない私も一気に読めてしまうほどだ。 ただ、 単に読みやすいというだけではなく、語られることばに溶け込んで、 フムフムと相づちを打ちながら聞き入っているような、 そんな居場所を与えてくれる。

 本書は、 「部落民」とは誰かを予測して書き並べていたり、 某有名「部落民」をリストアップしているものではないことは見当がつくだろう。 これは、 1997年9月13日(土)〜14日(日)に行われた第14回部落問題全国交流会でのシンポジウムをまとめたものである。 住田一郎さん、 畑中敏之さん、 原口孝博さん、 山城弘敬さんをパネリストに迎え、 なぜいまこのような自明の「ブラク・ミン」を挙げ、 論陣を張っているのだろうか。 それは、 自称「部落民」にせよ、他称「部落民」にせよ、誰にせよ、一読をすすめるしかほかない。

 ここでは、 筆者が「部落民」であるという前提でパネリストの問題提起を紹介することにしたい。

 なお、 「被差別部落住民」、 「被差別部落出身者」、 「「同和」地区住民」、 「ムラびと」などを表す言葉を「部落民」に統一することにした。

 

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 「部落民」であること。 または、「部落民」でないこと。 わたし(あなた)は、 「部落民」である。 わたし(あなた)は、 「部落民」ではない。 編者の藤田敬一さんは、 部落差別の鍵を「差別する側」と「差別される側」の両側から超えて、 人と人との関係性からひもとこうとしている。 「これまでの部落解放運動や「同和」行政、 「同和」教育、 啓発の場において、 「部落」、 「部落民」、 「部落差別」を十分な議論をしてこなかったのではないか。 対話が途切れ、 関係がねじれ、 ゆがんでいるという事実を見つめること」を強く語りかける。 いまここの問題、 われわれとは誰なのか、 誰を含めるのか、 含めないのか、 つまり、 「私は何者か」が問われている。 そこで、 畑中さんの〈ひとくくり〉と〈ひとりひとり〉という提起が成り立つ。

 

◇◆◇

 畑中さんは、 アイデンティティを帰属意識と訳してしまうことを疑問視し、 「自分は何者か」をはかるものさしは、 全くの個人でなくてはならないという。 また、 「部落民」を説明するとき、 その根拠を起源に求めることを否定し、 定義不能だという。 歴史の系譜的連続性や不連続性を問題にしているのではない。 確かに、 ある程度の先祖まで溯ることができても限界があるし、 三代前のことなどほぼ無関心だ。 起源論で「部落民」や部落差別をすべて語り尽くせるのなら、 これまでの部落解放運動、 「同和」教育、 解放教育、 啓発活動、 ましてや全国水平社の歴史やその汗と涙は水の泡になってしまう。

 評者はこれまで、 自分を語ることは、 「部落民」である自分を語ることであり、「江戸時代に『えた・ひにん』っていう…」という風に表現するのが当然のことであった。

 畑中さんが、 『「部落史」の終わり』(かもがわ出版 1995年)を提唱したのは、 「部落民」とは誰のことなのか」を問うてのゆえんであるという(「身分・身元・アイデンティティ−「部落民」とは誰のことなのか」 『こぺる』 49号、 1997年 4月)。 論軸は、 「部落民」による「自分は何者か」という自己認識のあり方を問題にしている。 同時に、 畑中さんは、 これまでおそらく言われることのなかった、集団的アイデンティティと個人的アイデンティティの分別を提起しているのではないだろうか。 「集団への帰属意識がひとくくりの人間認識として、一人ひとりの自己認識を阻害する可能性がある」というのだ。 集団の責任と個人の責任をおろそかにしてしまうことを否定しているように見受けられる。 評者は、 この自己認識を、 責任能力によみなおしてみることで、さまざまなことが見えてくることに気がついた。 一つの例は、 文字やことばを操ることに欠けることや自己表現できないでいることに気づいた評者が、 それを「部落」の責任にしてきたことである。 これは、 完全に「甘え」である。 しかし、 住田さんは次のようにいう。

 

◇◆◇

 「部落差別を受け続けることからくる傷痕、 内面的弱さといった文化的土壌があるのにそれをわからない」と。 このお言葉を聞けば無神論者の評者も、 住田さんが神様のように思え、 内心ホッとする。 「部落民」であることの弱さなのか、 個人の弱さなのか、 ともかくもこれを被差別である自らが背負うべきであるという。 ひとくくりにして、 認めることを前提にした住田さんの提起は、 カムアウト(部落を名乗ること)を通じて、 「差別する側」と「差別される側」の二分された関係の修復をしようと試みている。 一つの条件は、 「部落民」である自らを認識する(客観的に自覚認識する)過程を通じて乗り越える主体にまで高めていかなければならないという。 そうなんです、 問題は。 「部落民」が通過儀礼のごとく行なうカムアウトは(部落民宣言)は、 特に「同和」教育や解放教育のなかで、 積極的に取り組まれてきた。 教室でクラスメイトにカムアウトすることが、 それが「部落民」であるという自己認識と取って代わった。 しかし、 カムアウトをすれば、 相手の反応は、 「そんなん関係ないやん」で途切れてしまう。 そして、 ここまででカムアウトの役目は果たされたのです。 住田さんはそれから「何が関係ないねん。 話してくれたらいい」と。 相手の反応や疑問に受け答えを期待するのである。

 住田さんの〈名乗る〉という作業を〈遂行表現〉とイメージすれば、わかってもらえやすいかもしれない。 「部落民」が一歩出ることによって、 その場限りで途切れがちな対話をつなごうとするのだ。 そうなると、 名乗りというのも一種の自己表現ではないかと思う。 カムアウトが自分を表現するための手段でなく、 目的でしかなかった評者にとっては、 考えさせられるところが多くある。

 そこで、 「名乗る名乗らないの問題ではなく、 部落民であることから無縁の生き方があるのではないか、 (できることは)自分で自分が何者であるかを知る力をつけてやる、 そこまでだ」と畑中さんがいう。 んんー。 「部落民」とはいっても個々によって、「部落民」であることの気づき方、 関わり方、 学び方が異なる。 その「違い」のある「部落民」を敢えてはかるならば、 住田さんのいうところの〈被差別の内面的弱さ〉の結果としての何ものかでしかないと思う。 結局、 「部落民」であることのこだわりから生まれる熱意や格闘のもと、 「部落民」として「みんな一緒(ひとくくり)」にするときもあれば、はみ出すときもある、 そんなめもりのないものさしのようなものだ。 その境界を主体的に揺れ動きながら普遍化して、 さまざまな自分の位置や捉え方ができ、 世界観も位置によって見え方、 見方が異なる。 そこで、 一括りにしてきたものが何なのか、 誰がそうさせてきたのかという浴口勝也さんの意見がある。 一括りの縛りから一人ひとりへどうやって飛び出したらいいのかという原口さんの問い、 「個と共同体」があてはまる。

 

◇◆◇

 原口さんは、 住田さんの自分を客観視するときの視点に注目し、 「内面的弱さのマイナスを克服することでやっていけるのか」、 「自分を相対化して見ることのできる自分は、 「部落民」であるとか、 そうでないとかではない」と。 「部落民」であるとかないとかに囚われるのは、 〈共同幻想〉だというのだ。 評者がこの概念を初めて知ったとき、 ハタハタと崩れ落ちるように楽になった一方、 「部落差別問題はもう解決したのか」と率直に感じた。 そもそも、 存在するはずもないところにさせられているという意味では、 「部落民」というのはいないし、 共同幻想であるという見解は3人とも意見が一致している。 近代の「部落民」をルーツや起源説に求めるのは、ナンセンスであるということも同様である。 ここから違うところは、 住田さんは、 「差別の現実がある限り実態であるという捉え方をする」ということだ(「差別は幻想か」 『こぺる』 62号、 1998年 5月)。 畑中さんは、 「部落民」、 部落史を名づける前に、 個々の人たち、 地域、 歴史があった。 部落の理由を「かわた〜」でいうのは説明になっていないので、 そういう意味では幻想だという。 現実に存在していることを出発点にしているので、 そこからは、 住田さんと合致するようだ。

 原口さんの論軸は、 どうやら、 「観念は実態の反映である」 「低位な実態があるから差別意識がある」といった〈実体反映論〉の土台であるマルクス主義からの脱却である。 もう、 このへんになってくるとなんだか小難しい話に思えてしまう。 実に苦手分野だ。 原口さんは、 血縁、 カースト制を部落差別の最も部落差別的なところと捉え、 それを個々人が、 あるいは「部落民」が受け継がなければならないことを問う。 つまりは、 「部落民」であるという意識も、「部落民」でないという意識も、部落差別は共同幻想であると考える。 「部落民」であるという枠組みをズラし、 自分を客観視するときの位置を問題にしている。 このような考えは、 「部落民」の誰かが差別を体験するとみんなが差別されたことになるという考えは、 成り立たないことにもなってしまう。 差別事象がなくても被差別の体験を共有し合ったものだが、 このような認識方法論は〈差別への怒り〉のかけらもないのではないかと敏感になってしまう。 〈共同幻想論〉は、 いまにはじまった議論ではないが、 部落差別を〈共同幻想論〉という考えを用いることによって、 認識を与える〈権力〉を生み出すような部落解消論や部落責任論でもないところから探りたいと思う。

 

◇◆◇

 山城さんは、 むしろそういった囚われや歴史認識のために「部落民」としてひとくくりにしてしまうことで、 「部落民」であるという自己認識によって歪められている関係を問題にし、 部落差別問題という括り方に疑いをほのめかす。

 例えば、 自身の体験から、 差別されている実感はなかったが、 自分は、 部落民であるという意識はもっていた。 つまり、 自分が差別される存在であることを知っていたというのだ。 被差別体験がないのに被差別意識が表れるのは、 山城さんに限らず、 かつての評者同様、 いまの子どもたちにも多少関係するところはまだ残っていると思う。 低学力や中退率の問題も部落に限らず起こっている問題であるというのだ。 例えば、 低学力傾向は公営住宅にもみられるらしい。

 また、 穢れと部落差別に関わる屠場についても、 日本固有の歴史や文化だけの問題ではなく、 シカゴでは「黒人」がそれを担っているといった、 世界にもある共通の問題という(「自らの部落民意識と向き合う」 『同和はこわい考』通信 101号、 1995年12月)。 それに対して原口さんからは「世界人権論」では部落差別はなくならない」と意見がある。 藤田さんが、 「部落民」である、 「部落民」でないという意識を成り立たせているものを考える必要性を提言している。 このような山城さんの見解は、 極論、 差別を受けないために「部落民意識を捨てよう」、 「差別は気の持ちよう」に行きついてしまわないか。 それでは、 差別への怒りがなくても差別問題は解決してしまう。 しかし、 山城さんは、 「いまなお深刻な差別問題」として語られる部落差別問題を疑い続ける態度を崩さない。

 また、 住田さんのいうカムアウトに限らないが、 部落を名乗ったあと、 部落民であることが有利になり、 そのあとどうするのかといった提起もある。 名乗ることで「部落民」が有利になるという話に、 少し評者の意見がある。 「名乗り」の中身にもよるが、 名乗ることで有利になるのではなく、 それ以前にマイナスのイメージの名づけや位置づけ、 しるしづけのような烙印を貼られることの問題だと私は思う。 存在するはずもないところで名乗り、 無意識のうちに実体化されることは、 有利なのではなくむしろ、 存在させられたという意味でそれも権力関係にはめ込まれたことになるのではないか。 名乗ることが権力になるのは、 個々においても集団においても〈違い〉という名の下で、 その〈違い〉に権力利用や、差異化、 非対称的なものがあるからなのではないか。 部落差別問題はやはり近代の部落差別問題から/として考えたい。

 

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 比較差別論の立場から柴谷篤弘さんの部落差別問題の解決に関連するおもしろい発言がある。 差別をめぐる言説は76年以降社会構築主義になっている。 言説というフーコー以来の考えを使うと部落差別の問題もうまくいくのではないかと。 柴谷さんは差別する側のアイデンティティを〈存在証明〉と解釈している。 差別する側は、 無意識に自分の〈存在証明〉を求めるために差別をしてしまう。 だから、 差別する側のアイデンティティとされる側のアイデンティティができる。 性的少数者である彼/彼女/人たちが、 四六時中差別されているという感覚にあることを例に、 差別される側のアイデンティティを〈当事者性〉と理解しようとする。 少数者が社会に受け入れられるともはや、少数者でなく、 〈当事者性〉はなくなり、 差別する側の〈当事者性〉は、 はじめから最後までシンメトリー(対称性)ではないという。 つまり、 少数者から逆転するというのだ。 セクソロジー(性科学)におけるホモセクシャルの生成に関連して言えば、 正当でないもの、異質なものが先にでき烙印(=ラベル、レッテル)を貼られる。 そして、 それを名づける/意味づける。 すると中心の残ったものが正当化され、 それらのマークをされない人はなじんでいるため表現する必要がないといったところか。

 一方、 「部落民」にとっての他者との〈違い〉は何であろうか。 一般に、 部落に住んでいるかどうか、 (主体的に自己を通して自覚していることが前提の)「部落民」であるかどうかくらいと思う。 「部落民」それ自体が多様であるが、 実体化している意味では同性愛者も「部落民」も〈存在にされてしまった〉問題である。 〈違い〉が〈違い〉として認められるなら、 敢えて表明する必要はないのだ。 おっと、 ここは、 比較研究の書面ではないので避けておきたいが もっと何か重要なキーがあるようだ。

 

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 書評だかエッセイだか、 書くにあたって思うのは、 「部落民」を抱え込むことをなぜ、 マイナス評価しているのだろうかということだ。 評者自身、 〈部落民の誇り〉という確たるものは持ち得ていないが、 出発点のラインは踏み込んだつもりである。 それは、 部落民である自分を引き受けるということである。 そのなかで、 個人であっていいことと集団であっていいことの分別に気がついたからであろう。 また、 これまでの他者を通してではなく、 自己を発見することによってうまれる自己認識が芽生えたことにもある。

 「部落民」とは何か、 自分は何者か。 まだまだこれからである。

 

  書評へのアドバイスをいただいた廣岡浄進さんに心よりお礼を申し上げます。


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