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私と部落問題<前編>

大阪大学 人間科学部 比較教育文化学 3回生 

濱元 伸彦

 私が大阪大学の部落解放研究会の活動に参加し始めたのは1998年の10月のことである。当時私は(この文章を書いている現在もそうであるが)別の体育会系の部活に所属しているほか、ボランティア活動にも参加しており、新たに何か活動をはじめるにはそれほど時間的な余裕をもっていたわけではなかった。しかし、解放研のメンパーの広岡さんから電話で誘いを受けたとき、ほとんど二つ返事で活動への参加を希望した。そのときの私を強く突き動かし、決断に踏み切らせたのは部落間額に対する心の中の二つの衝動であった。ひとつは部落間題というさまさまな矛盾に満ちたあまりにも大きな問題をもっとよく知ってみたいという知的衝動、そして部落解放という大きな自的のために何か自分なりにできることをしたいという活動への衝動であった。

 私はムラの出身ではない。部落問題に目を向けるようになったのもごく最近のことだ。だから部落問題についての知識もなければ、部落出身者がどのような立場にいてどのような気持ちでいるのかもわからない(どれだけ知識を積んだところで出身者の立場に成り代わって同じ気持ちをあじわうことはできないだろうが)。しかしそのような自分だからこそできることもあると私は信じている。また、そのような部落出身者として育ってこなかった自分だからこそ見ることのできる側面もあると信じている。

 私の自宅は南大阪のI市である。大阪の中では泉州とよばれている地域である。私の住んでいる町の隣には同和地区がある。国道沿いに大きな解放会館とそして並んだ集合団地。現在では近代的な体育施設が建設されている。それらの施設や集合住宅の存在は昔から知っていたが、そこが同和地区と指定されている地域であることを知ったのは私が高校の終わり頃か大学生に入ってからではないであろうか。いや、私がその地区をその意味をはっきりと認織して同和地区であると考えるようになったのはやはり大学の2年生になってからの話である。かといって、その町のどこからどこまでが同和地区と指定されていて、さらにそこに住む友人の誰が出身者であるかなどといったことは全く知らないし、今でも知る必要もないことであろう。つまるところ、私は自分が住んでいる市の中の問題としても部落問題については全くといっていいほど知識がなかった。またそのような知識を身につけようとも思わなかった。在日韓国・朝鮮人の問題に関していえば3ヶ月前に民受連の文君にあうまではほとんど何も知らなかった。

 なぜ今まで私はそのような差別や人権の問題に関してほとんど知識も関心も持とうとしなかったのであろうか。そしてなぜ急にそういった問題に足を踏み入れる気になったのか。それらの問いに対する簡潔な答えを今、私は手元にもっていない。私は自分が部落問題に対してどのように関わってきたか、を通して全く主観的にその問いに対する答えを練り上げてみようと思う。以下に記述するのは、部落問題という窓を通して見た私のヒストリーである。


 私は多分部落問題に関して大学に入るまで一度も学校の中で教育を受けたことがないのではないかと思う。小学校では「にんげん」という同和教育用の副読本が配布され、部落問題に関する物語やドキュメントも入っていたはずだが、授業では紹介していなかった。中学校、高校は私立の進学校であり、道徳の時間そのものがまるで時間割になかった。教師たちの中で同和教育の担当という役割はあったかもしれないのだが、この学校の中では特に重要な職務ではなかったに違いない。(大学受験の勉強に集中するために生徒会や学祭さえもない中学校、高校に同和教育の入り込む隙間などあるはずがない)つまり私は少なくとも大学に入るまでは同和教育と名のつく教育は一切受けてこなかったのである。

 しかしまるっきり何も教わらなかったかと言うと、そうでもない。私が高校2年の時学校に内緒で市の郵便局に年賀状配達のパイトをしたことがあるのだが、そのはじめの研修の時間に約15分ほど同和問題に関するセミナーがあったことを覚えている。内容についてはある程度記憶している。本来自分が配達したり仕分けしている郵便物についてはバイトも含めて職員はその内容を見ることを禁止されている。しかし、もし偶然に郵便物中に「これは」と言うような差別的内容が書かれているものを発見した場合には、これを担当の者にもっていく義務があるというのである。その郵便物がそのあとどう処理されるのかはわからない。その研修を受けている時の私の気持ちとしてば、研修自体が非常に長ったらしいものでありかなりいらいらしていたので、とにかく早く終わってほしかった。そのような差別内容の郵便物が送られてきたからといってそんなに当人が傷つくとは思わなかったし、仕分けをする職員の目につく葉書でそれを送るような人間もまずいないだろうと考えていた。また、自分の短いパイト中にそのような郵便物を偶然目にするようなこともないたろうと考えていた。そして実際にそのような事件は起こらなかった。


 何はともあれ、もう一度自分の小学校時代から自分の部落問題とのつながりを洗い直してみたい.先に述ぺたとおり私の小学校の学区には同和地区が含まれている。しかし、小学校では部落問題を扱った授業は一切行われなかった。地区の子どもともつながりをもっていたし、何人か親しい友達もいた。

 小学校の高学年ともなると、学年の一人一人が大体どの町に住んでいるかは知っていた。学区の中の同和地区に関しては町全体が地区指定されているわけではない。ある町の一部分がそのように指定されていた。ゆえに、その友達が大体どの町に住んでいるかは知っていたが、今振り返っても誰が地区の子どもであったのか全くわからない。(というよりも、そもそも「同和地区」や「部落」という言葉さえ知らなかったのである。)

 しかし、クラスの何人かが私も知る「解放会館」というところで放課後にも勉強をしているということについては少しだけ耳にはさんたことがある。放課後自分たちが遊んでいる時間にみんなで勉強しているなんて大変だなあと思ったし、また学校が終わった後にまた子どもの勉強をみなければいけない先生も大変だなあと思った。

 地区の子どもとのつきあいについて少し話そう。先も言ったとおり私は当時は誰が地区の子どもであったのかは知らなかったし、知る必要もなかった。今考えると地区の子どもであったのか、もう少し大きな地域としてのその「町」の子どもであったのかはわからないが、その子ども達はよく集団で行動していた。性格は明るい者ばかりであったが、言動がいつも粗かったように思える。私は小学校時代何度か彼らに集団で軽い暴行を受けた記憶がある。これば大人になってから母親に聞いたことであるが当時の私が母親に「あの町の子どもはこわいねん。暴力的やねん。」というような事を言っていたらしい。子ども達は常にグループで行動していたが、がき大将のような子どももいた。彼を今思い出しても常に凶暴的なイメージがつきまとう。かれとは何度かけんかをした。低学年のときから6年生になるまで相性が悪かった。低学年の時に同じクラスであったが授業の中で荒れる場面もあった。私と私のともだちは彼のことを毛嫌いしていた。

 地区の子どもの家に遊びにいったことはほとんど無い。同和地区のイメージとしては、団地が立ち並び、日のあまり差し込まないなんとなく暗い雰囲気があった。また、豚や牛の屠殺所があるとも聞いていたので、少し不気味な印象をもっていたが、子ども心にはある種の冒険心をそそられる場所であったかもしれない。だが、遊びに行った経験はほとんどない。

 今考えても少々不思議なことである。他の町の子どもの家には少々遠くても自転車で遊びに行っていたのに、隣町の地区の子どものうちにはほとんど行ったことがない。


 小学校卒業後私は私立の中高一貫の学校に試験を受けてはいったため、地元の学区の中学校にはいかなかった。地元の中学校は小学校の生徒か持ち上がりでそのまま進学する。新たに他の町の子どもが加わったり小学校の生徒の一部が別の中学校に分かれて入るということもない。市の他の中学校の例を考えてみても小学校の生徒がそのまま一つの中学校に持ち上がるというのは同推校ゆえの理由なのかと今は考えたりする。中学校では学校の取り組みとして部落問題学習が行われていたということだが、その内容については全く知らない。私が同じ時期に6年間をすごした中学校と高校ではそのような同和教育は一切行われなかった。(そのかわり真言宗に基づいた宗教教育を受けた。)受験勉強のために、また学校での試験の順位を少しでも上げるために社会や他人の問題など振り返りもせずに6年間学校生活を過ごした。部落問題に限らず社会問題に対しては全く知識を持っていなかったし、関心すら寄せなかった。私は進学校の精神統制にうまくのせられた恰好のモデルの一人であったに違いない。中高の六年間勉強以外にほとんど何もしなかったし、自分の周りの社会に目を向けることもなかった。

 ともかくそのような勉強のかいもあってか何とか今の大学に浪人もせず合格し、晴れて大学生となった。だが、あいかわらず私は社会問題全般にほとんど関心がなかった。私は部活に打ち込んでいたが、そのほかの事に関しては遊びにも学問に関してもほとんど深い関心をもてなかった。

 そして、そのままおよそ一年半が過ぎたが、その後私の学問に対する関心、とりわけ部落問題に関する関心が一度にはじけるような大きな転機が起こる。私は人間科学部の中で、現在の研究講座に入ることになるが、この講座を希望した理由は将来教育に関わる人間となるために実際に子どもと接する場をもちたいと思っていたことだ。そしてこの講座ではそのように地域の子どもたちと実際に勉強や遊びを通してふれあうことの出来るフィールドワークを行っていたからであった。私は子どもが好きである。しかし、子どもは好きだが子どものあつかいはそれほど得意ではない。つまり、子ども好きのために子どもに対して、叱りつけてコントロールしようという気にならないのである。


 ともあれ、私は講座に入り同回生といっしょに大阪府のT市に週一回フィールドワークに行くことになっだ。フィールドワークの内容としては週一回地域の子ども達の勉強をみたり遊びにつきあったりしながら、子どもについて観察しかつ勉強するいうものである。初めてそのフィールドに行った日に子どもたちの勉強をみる場所が解放会館であるということが分かった。つまりこのフィールドワークは同和地区の子どもの学力支援を大きな目的としていたものであった。解放会館の入り口には大きな碑文があり、おどろおどろしい内容の文章が刻まれている。「今こそわたしたちは奴隷の鉄鎖を断ち切り一致団結して解放を目指すのだ」というような内容だ。私は初めて入る解放会館に特に違和感を感じなかった。ただ、部落解放という時代遅れな(そのときはそう思っていた)目的のためにこのような施設が今も運営されているということを不思議に思った。そして何より部落問題と子どもたちの低学力との間に意味のあるつながりをうまくイメージできなかった。「なんで、差別と学力が関係あるんだ??。」

 その日子ども達の勉強を見た後、子ども会の指導員の人をうちの院生に紹介してもらった。暗い感じの人であった。彼は「君の住んでいる市には〜〜という同和地区があるね」と言ったが、それはやはり僕の隣町のことを指していた。よくそんな細かいことを知っているものだと思った。そのときもやはり部落問題という、あるかないかわからないような問題のために専門の職員がいるなんて不思議だと感じた。

 毎週のフィールドワークを通して子ども達とのつきあいが深くなっていく中で、子ども達の個々のパーソナリティーや集団としての性格も徐々に見えてくる。子どもたちといっても勉強に来るのは女の子ばかりであり全員高学年であった。子ども達は私たちに対してたいへん乱暴であり、言葉づかいも汚い。私たちを呼びかけるときは常に「おまえ!」であり、何かしてほしいときには「こたえ教えろや、こら」というような命令形でしか頼めない。そもそもはじめの頃は勉強しようという雰囲気が全然つくられていなかった。だから、子ともとはほとんど遊ぶことに時間を賛やしていた。子ども達は乱暴な一面、非常に強烈な甘えも見せる。彼女らはよく我々スタッフにおんぶや肩車をもとめてきた。時には背中に乗ったまま眠ってしまったりもする。私は同回生のスタッフたちは子どもたちの示す両極端な性格にある種のカルチャーショックを感じた。子ども達の粗い言動や、それとは対照的な強烈な甘えのかげに地区の子どもの家庭背景が見え隠れしているような気がした。

 子どもたちが放課後に通っている解放子ども会の活動にも時々参加させてもらった。季節はもう冬の一歩手前であったが、広場でみんなで元気に遊んでいる子どもの様子に非常に新鮮な衝撃を受ける。今時こんな風に外に出て、仲間を作って夢中になって遊ぶ子どもがいる! 子ども会に参加する子どもは放課後この子ども会にやってきてはひとしきり遊んだり、勉強をしたり、あるいはおやつを食べたりして、自分のうちに帰っていく。家に帰る子どもにせがまれて帰宅につきそったこともある。私の隣町の同和地区と同じく集合団地が暗い陰を落として林立していた。


 私は今まで述べてきたとおり、部落問題に関してほとんどといっていいほど知識をもっていなかった。しかしフィールドワークを続ける中で、わずかに持っていたその少ない知識と自分がフィールドとして通うこの地区が私の中で一つのものとしてしっかりと結びつこうとしていた。同時に頭の中で漠然ともっていた「社会」の複雑なシステムと部落問題という事象が複数の連関した一つのつながりをもち始めようとしていた。それは今まで感じたことのない不思議な感覚であった。人々の群れが紡ぎ出す社会というシステム。その社会システムの複雑な連関の中に部落問題そして現在の同和地区がある。そして同じく近世あるいは中世から未来へつながる歴史という本の永い帯の中に現在の部落問題そして同和地区が存在している。そして自分は今この社会と歴史の特定の接点の中に直接関わりをもっているのだ。私はこの同和地区へのフィールドワークを通して初めて自分や自分の周囲のできごとを、社会システムの一部としての存在あるいは歴史的存在として感じるようになった。心理学者ナイサー流にいうならば、同和地区とそこに生きる人々との出会いが私に世界の中における社会的・歴史的な位置づけを教えてくれる「認知地図」を与えてくれたのだ。あるいは同和地区に関わるこの活動が自分の社会的・歴史的な位置づけを示す道標であったともいえるかもしれない。私がこの道標を通して広げることのできた視野は何も部落問題やその周辺に位置する問題に限らない。私はこの道標によって日本の現・近代史、政治、教育、社会といったものにまで(何より自分を中心において)その視野を広げることができたのである。しかし、この「地図」は末だ甚だ頼りないものである。私はより多くの人との出会いを通して、あるいは先人が残した情報をもとにこの「地図」をよりリアルに正確にそして彩りあるものに書き加えてゆかねばならない。そう、感じるようになったのである。まさに私の勉強はこれから始まったばかりなのである。

< 以下次号の後編に続く... >

☆ この前半部分では表現上差別的な内容を含んだ部分があります。私は、自分と同世代の多くの若者が部落問題をどのようにとらえているかを考えていただくためにも、あえてそのような表現も含めて記述しました。

 また、地区の子どもについての描写に関しましては、私の感じていたイメージをそのまま記述いたしましたが、これを読まれたみなさまのステレオタイプに結びつかないよう考慮していただきたいと思います。


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