今回私がここに文章を書くことになった経緯について説明します。まず私がどういう人間かということについて簡単に触れておきます。私は'93年、一回生の時に初めて釜ヶ崎を訪れました。釜ヶ崎とは大坂市内JR環状線新今宮駅前、行政的には西成区のあいりん地区と呼ばれるところです。釜ヶ崎という呼称は、古くからこの地で日雇い労働をしてきた人たちが、多少の誇りを込めて呼ぶ時の呼び方です。釜ヶ崎を訪れたのは「ふるさとの家」に電話をかけて、飛び入りで夜周り活動に参加させてもらったのが初めです。その年の暮れには越冬活動に参加し、阪大からは私一人しかいない中、他の大学の学生他、いろいろな人に教わり助けられました。そして、そこでの経験があまりに衝撃の連続だったので、阪大の中でも誰かとこの経験を共有したいと考えて、当時潰れかかっていた寄せ場研究会を名ばかり引き継ぎ、部員2人とか3人の中、細々と学内で呼びかけや、講演会を開いたりしてきました。
「みちくさ」の前号に、山口さんの「地球の歩き方 釜ヶ崎編」という文章が載りました。一部に誤解があるようなので先に書いておくと、山口さんは、釜ヶ崎で活動を続けてきた人ではありません。この文章は、編集部からの要請で書かれたものした。一読して、私の知っている釜ヶ崎の姿とは随分とかけはなれていると思いました。一見事実が並べてあるようで、その題材の取捨選択のしかた、それぞれの解釈のしかたが、釜ヶ崎の中で暮らす人間のものではなく、明らかに外部の人のものなのです。言い替えれば釜ヶ崎に対する強い偏見に基いていると感じました。釜ヶ崎やその他で野宿生活者と関わっている友人たちの反応も一様に「これはひどい。」というものでした。
ただ、文章の書き方自体はそれほど目新らしいものではありません。大阪南部の住民が釜ヶ崎に対して持っている偏見そのままなのです。むしろすんなりと読んでしまった人の方が多かったことと思います。この文章のタイトルがもし、「地球の歩るき方 あいりん編」とか「西成編」とかなっていたら、私もそれほど違和感を覚えなかったかもしれません。「釜ヶ崎」という呼び名は冒頭に書いたとおり、ただの地名以上に特別な言葉なのです。外部の一般の人が使う言葉ではないのです。山口さんはそこまで知らなかったのだと思います。彼があえて「釜ヶ崎」という呼称を用いたことにも思い当たることがあります。少し私的なことですが、書くことを許してもらうと、彼は一回生の時に一度私たちの学習会に来たことがあるのです。そのときに渡した資料が彼の釜ヶ崎理解の下敷きになっているのでしょう。だから、全体に流れる調子は偏見に基いているのに、個々の事実関係だけは、「釜ヶ崎」で活動する人々の言葉になっているのだと思います。こういった点が不幸にもこの文章が読み手に奇怪な印象を与えたり誤解を与える原因になっていることに最近気付きました。
しかし、実のところ、私自身はこの文章をそれほど問題視しているわけではありません。正直言うと、初めて読んだ日の晩、彼に電話をかけて、「よく書けてる」と評価したのです。というのは、内容はともかく自分の偏見をそのまま表現している素直な文章だと感じたからです。確かに違和感を感じましたが、あまりにずれ過ぎていて、反論する気にもならなかったのです。私自身も外部の人間ですから、あの文章に直接的な怒りをもつといよりも、むしろこの文章が不特定多数の人に流布されることで、これまで私がお世話になってきた方々を傷つけ、彼等が偏見を取り除くために努力してきたこと、私自身もささやかながら努力してきたことが幾分水泡に帰し、後退することが申し訳なく悲しかったのです。私が特にその気持ちを強く感じ、何かしなければならないと考えが変わったのは、知り合いのある一回生がこの文章を読んで「釜ヶ崎はこういうところなのかと思いました。」と漏らしたときでした。彼女は、差別や偏見に敏感な人なればこそ、あの文章に疑問を感じ、私にそう感想を伝えてくれたのですが、その彼女でも、私に確かめるまでは、疑問を持ちながらも、あの文章を受け入れていた。なぜならあの文章が「人権問題情報誌」の「みちくさ」に載っていたからです。抑圧される側の立場を重視すると謳っている「みちくさ」はこれまで現場の側からの発言を中心に紙面が作られてきました。放って置けば、人権に関心があって「みちくさ」を熱心に読んでいる読者に限って、すんなりと偏見を受け入れてしまうと危機感を持ちました。
問題が、広く一般に十分認識されているならば、私もそれほど危機感を持たなかったかもしれません。しかしながら、身近な人権には関心の高い人たちの中にも、野宿生活者に対しては根強い偏見を持っている人たちが多くいることを私は知っています。事実、ある公園から野宿生活者が追い出された時、地域住民の苦情のとりまとめ役をしたのは、その地域の解放同盟でした。そして、そうした偏見に基く追い出しや襲撃は、命に関わるのです。実際に大阪市内だけでも数百人の人たちが毎年路上で命を落としているのです。だからこそ偏見の広がりを少しでも食い止めなければならない。私はその責任を感じたのです。そこで、私は次号で釜ヶ崎特集を組むことを提案しました。複数の人に、それぞれの立場から釜ヶ崎について書いてもらう。そうすることで、「みちくさ」の読者に釜ヶ崎の姿をより立体的に知ってもらうと同時に、特集を提案することで解放研のメンバーに問題の存在を認識してもらえれば、なんらかの対応がなされるだろうと期待したのです。しかし、その後の展開は私の期待を裏切りました。
はっきり言えば、今回私が最も問題を感じているのは、「みちくさ」編集部である阪大解放研の対応です。それも、前号が発行されて以降、これまでの対応のし方にです。順番に書けば、
第1になぜあの文章を特に内容について検討もせずに載せたのかということです。私がこれまでに受けた説明によれば、内容について「檜山から反論がくるかもしれない」と考えたが、紙面で議論させればいいと考えそのまま載せたという。そもそも失礼で勝手な話で、そのおかげで私は思いがけない仕事を負うはめになったのですが、それはいいとして、その間、具体的に原稿の中味について議論していない。つまり、編集部としては原稿の内容には全く責任がないというのです。編集部が依頼した原稿です。そうでなくても、どういう形で載せるかは、全く編集部の判断で行っているにも関わらず、編集部に責任がないというのはどんな商業誌の編集部でも言わないことです。
第2に、もし議論をさせようとするなら、例えば、異なる意見を続きに載せるといった紙面造りをなぜ行わなかったのか。朝日新聞やサンケイ新聞でもそうするでしょう。まして、「対立点を明確に」することを謳うなら当然そうするでしょう。ましてや「みちくさ」の読者は不特定なのです。定期購読している人は少なく、12号だけ読む人も大勢いることは分かっているのです。12号では編集後記に反論が予想されますというコメントがあっただけ。私はあの無責任なコメントに一番腹が立ちました。(すべてあのために書いているといっても過言ではない。だいたい本当に議論を巻き起こそうという意思があるなら、自分たちで何か提起すればいいではないか。それを、格別この問題に深く関わっていない人間を議論の矢面に立たせれば、こちらから反論したところで、返答のしようがないことは明らかだし、第一、知らない間に編集部に利用されて矢面に立たされた執筆者も気の毒である。そもそも議論を展開しようというからにはそれなりに議論の方向性というものを司会役も持っているものだが、一体そのようなものを持ち合わせていたのだろうか?期待されるのは、無知からくる偏見と、それを正そうとする殆ど徒労にさえ思える果てしない作業だけです。何か建設的な議論を期待したのだろうか?
第3にせめて編集部が注釈を加えることをなぜしなかったのかという疑問を持ちます。事実、原稿をそのままといいながら、タイトルから「平成版」の文字を勝手に除いているのです。まだ、平成版とついていた方があの原稿は救いがあったと思う。やくざに連れて来られてだまされて麻薬売りをしている平成の家出少年たちから見れば釜ヶ崎はあんなふうにみえるかもしれないから。そのような原稿の改訂を行うなら、注釈ぐらい付けられただろう。本当に真摯に対応しようとしていたなら。
この3点に関しては、発行の時点では認識が十分でなかったという言い訳も成り立つだろう。(反論を予想しているくらいだからそのようなことはありえないのだが)しかし、発行後の対応がなお一層問題があるように思える。
私はこの間「みちくさ」編集部に対しては、特集の提案をした以外、何ら要求をしてこなかった。解放研内部からの主体的取り組みが行われることを密かに期待していた。それは、例えば、釜ヶ崎に関する内部学習会であり、それに付随して、実際に短期間でも支援活動に参加してもらえれば、実際に野宿生活をする仲間、支援活動に携わるキリスト教関係の人たち、労働者、学生と触れ合い、話をする中で、少なくとも、どういう人があの文章のどの箇所についてどう感じるかということがわかってもらえると考えていた。もし、学習会に協力を要請されれば受けようとも考えていた。しかし、そのような申し出はついになかった。メンバーの一人は、私が越冬への参加を呼びかけたのに対し、活動には参加しないで、何もないときに自分で勝手に行って眺めてくると答えた。彼の意図は定かではないが、何か、単一の思想のもとに行われているとでも考えたのだろうか?越冬実は解放同盟のような組織ではないのだけれども。キリスト教関係者から、地域の女性、そして労働者まで、右翼と警察とやくざ以外あらゆる職業の人がただ、生きて冬を越そうという目的のため寄り集まって行っている。越冬活動と一口に言っても、どの部分に参加するかによってかなり毛色が異なるのだが。それよりも、何もないときに一人で言っても、なかなか、実際に触れあうことはないだろうと考えるから、活動に参加することを勧めるのだけれども。何も知らない人は路上でぼーっとしていると思うだけかもしれないが、その人にとっては、そこが自宅なのであって、見ず知らずの人間がそこへどかどかと入ってきて、どうでもいい話をされればどういう気がするか考えてほしい。何か同じ目的のために動いているという信頼があったり、顔見知りであったりするからこそ言葉を交すのです。
この間、「みちくさ」編集部により、私と山口さんの話し合いが設定された。私も彼も、話は電話で済んでいたし、その限りにおいて別に対立点も無かったので正直言ってしまえばお互いにいい迷惑ではあったのですが、それはともかく、編集部のメンバーが努力して設定してくれたのでそのことに関しては感謝している。ただ、なぜ編集部は司会役で当事者ではなく、なぜ、私が当事者であるかのように話し合いの場に引っぱり出されねばならなかったのか、今もって理解できない。上にも述べたように私はあの文章によって何ら直接的害を被っていないし、怒りを覚えたわけでもない。ただ、責任感においてのみ、対応しようとしているのに、彼と何を話せというつもりだったのか。結局、話し合いの場では私が自分の思いをぶつけただけで、それに応じて山口さんは今回の謝罪文を寄せた。中味はともかく、約束を果たしたという点においては評価したい。結局、話し合い自体は形だけでも対立点をみつけたいという編集部の方針に沿ったもので、私の思いからは遠かった。
私が、もう一つ、一番望んでいたことは、編集部の広岡さんに、なぜ、あの文章に疑問を持ちながらも、最終的には載せることにしたのか、自分の言葉で書いてほしいということでした。なぜ彼かと言えば、あの文章に多少なりとも問題点を感じていたことが、編集後記から読み取れたからです。全く疑問を感じなかった人に釈明を要求しても、知らなかったとしか書きようがないと思います。しかし、ある意味確信犯である彼には、自分とこの問題との距離感も含めて分析して欲しかったのです。彼は、一般の人よりは釜ヶ崎についても知識があると思います。その彼さえもが陥った落し穴。これがもし、今回の文章が部落に関するものであれば、彼は全く違った対応をしたであろうと確信します。つまりこの問題に対する距離感、そして、その後も釜ヶ崎について距離をおいたまま(に思える)であることからして、その距離感を生みだしている何かがさらにその奥に存在しているのだろうと想像します。そうした分析の内容は彼固有のものでありますが、必ずや他の人にも資すると思います。そして、なによりも彼自身が釜ヶ崎とどう向き合っていくかということの礎としてもらいたいと思うのです。
「みちくさ」編集部(阪大解放研)に対して少し苦言を並べましたが、私がこうしたことを公の場で述べるのは、解放研や特定の個人を攻撃しようという意図からではありません。別の場面では同じようなことを私自身も行うかもしれないし、現に知らないうちに行っているのかもしれません。少しでも社会的弱い立場の近くに自分が居た、知ったというそれだけで、いろいろな人間の苦しみを「理解」できるような錯覚に陥る。「差別」というものについて少しでも考えたことのある人間こそ、かえってそうした錯覚に陥りやすいかもしれません。人は隣人の苦しみさえ完全に共有することはできない、だからこそ他人の苦しみに対しては常に謙虚な姿勢で臨まねばならないと考えます。
しかし、我々はえてしてそれを「差別」という言葉で構造化し理解しようとします。「問題」化し、学問の対象として分析する。それは、社会改革というただ一つの目的のためには有効でしょう。しかしその瞬間、個々の人間の顔、生、死は失われるのです。それは対象化した瞬間に「私」が疎外されるということに留まりません。対象化するということ自体の暴力性、見る側に立つことの優越性を避けることはできません。どれだけ自覚していようとも。だからこそ常に追求していたい。分析を停止し、ただ在って涙を共にし笑いを共にする信頼の先にしか私は途を見出せません。それは「共に闘う」と言い換えることができます。そこへ向かって自分を追求する思いにおいて、私はあなたと繋がりたい。そして繋がれると信じています。
今回解放研のメンバーの中から越冬活動に参加してみようという声が挙がるの待っていました。じっと待っていました。しかし終ぞその声を聞くことはなかった。あるメンバーは、新宿西口に行った話しをしてくれた。新宿西口には野宿生活をする人がたくさん集まっています。彼はそこで段ボールハウス遠目に見ながら近くにいた警備員に彼等のことを聞いて帰ってきたという。私はその時、隔たりの深さを絶望的に感じていました。同じ場に立っても、同じ物が見えるとは限らない、いや、全く違うものを見ていることがあるのだということを忘れてはならない。自ら近づこうとしなければ、近づくことはありえないのです。
あなたは私のことを夢想家と呼ぶかもしれない。偽善者とか宗教家と呼ぶかもしれない。でも私は一人じゃない。どんなに小さなことであっても何かしら共有できることがあると信じています。人はどんな仮面を被っていても内側は同じ弱さを持った人間なのですから。その弱さをそのままの形で認め合い、受けとめること、生の片側だけでなく両面を同時に認めることが信頼の基礎となるのです。その上に立った幾つも一対一の関係の間からこぼれ落ちた柔らかな光のことを私は愛と呼んでも構わないと思う。思いの向く方向が同じであれば、いつかその笑いの輪の中で出会えることでしょう。
かつて私が大学に入った当初、一番初めに当時の解放研の先輩、「みちくさ」を創刊した人たちから教わったことは、人や物事を何かしらで一括りにした瞬間、すでにそこには偏見が入り込み、差別の端緒となるということでした。そこから徹底的に逃れるためには、顔の見える関係、私とあなたの関係に戻るしかない。そのとき、自分自身が何者かということが改めて問われる。それを飛ばしたところに彼我の関係は成り立たないのです。すべての語りは、自分が何者かということから始まるのです。そうして初めて語る側と語られる側の地平が融合する。このことは、私の中で未だに大きな基礎となっています。そうして、それを与えてくれた解放研に感謝しています。だからこそ、現在の「みちくさ」にも理解しあえる素地が残っていると信じています。
どれだけ苦しみを受け止めれば許されるのか。これは神と人との真剣勝負です。