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どこが差別か、何が問題か

―あえて開き直ってみることから―

 

福嶋 順

 前回12号のみちくさに、地球の歩き方―釜ヶ崎―という記事があったが、どうやら この記事に対しての抗議があるようである。なるほど確かに読んでみて、何らかの抗議をうけるかもしれないと思わせるものはある。けれど面白い。これまで私が読んだ事のある釜ヶ崎について書かれたものの中では一番である。

 少しここで気になる事がある。この記事に対して抗議をする人、この記事を差別的だとする人は、これを読んで面白いと感じる私の意識も「差別的」とするのだろうか。どうも釈然としない。私自身まるっきり釜ヶ崎を知らないというわけではない。訪れた事も何度かあるし、そうした中で私なりの釜ヶ崎へのイメージというのもある。著者は一か月ほど釜ヶ崎で生活した経験をもとに、今回の記事を書いたという。私にとってはもちろん著者にとっても釜ヶ崎は日常ではない(経験の差は大きいが)。私がこの記事を「面白い」と感じるのは、こうした「外から」著者が描いた釜ヶ崎が、私自身のイメージともたいへん近いところにあり、またそれが非常に読ませる文章になっているからにほかならない。

 「覗き見趣味的」だということだろうか。おもしろおかしく描いて嘲笑しているにすぎないということだろうか。私はそうは思わない。たしかに話を面白くするために多少誇張して書いているように思わせるところはある。しかし全体としては釜ヶ崎の現実の一面を広く(読ませるという意味において)伝えるものであると思う。日雇い労働者の立場に立っていないということだろうか。おまえらに何が分かるかということだろうか。そりゃあ私も日雇い労働者を搾取して成り立っている建設会社の建てたマンションに住んでいる、構造的差別者である。おそらく著者自身も日雇いでない以上、同じような立場として分類されるのだろう。しかしだから釜ヶ崎を語るなというのなら異議ありである。日雇い労働者もしくはそれに「連帯」する立場として出てくるものは何か。それはいかに抑圧されてきたかという事であり、生い立ち語りであり、構造的差別という言葉ではないか。それはそれでよい。「中から」しか書けない事なのであろう。けれど同じように「外から」しか書けないことがあろう。「何が分かるか」と黙らせること、著者にとってこうした記事を書きにくくさせることというのは、重要な一方からの問いかけの排除、対話の可能性の拒否ではないか。……少し話を飛躍させすぎたかもしれない。

 いったい何が差別なのか。あえて開き直って聞いてみたい。どこがいけないのか、これを「差別」と規定する感性、気もち、思いはいったいどこから来るものなのか。「分かり切ったこと」とつれないことを言わずに、ていねいな議論がほしい。問題となっている記事が、「運動」や「被差別の立場」の論理とは離れたところから書かれているからこそ、大切にしなければならないものがあるのではないか。

 

筆者のEメールのアドレスです。卒論、院試で忙しいので、返事は遅くなるかもしれません。

<hs5098hz@ex.ecip.osaka-u.ac.jp>


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