木曜日の深夜、釜ヶ崎では夜まわりがある。夜まわりをしているのはカトリックの施設「旅路の里」に集まる「木曜夜まわりの会」のメンバーたちである。年代も仕事も考え方もさまざまな人たちが毎週の夜まわりに参加し、私も97年4月から続けている。
夜まわりでは釜ヶ崎とそれと隣接する浪速区の一部を北と南コースに分け隔週ごとにまわっている。狭い範囲だが多いときにはおよそ800人もの野宿している人を数え、そのほとんどが建設や土木などの工事現場で働く日雇い労働者である。「体の調子は大丈夫ですか」などと声をかける。病気や怪我など体を悪くしている人は少なくない。容態によっては救急車を呼ぶことがあるが、そうでない場合には翌日医者にかかれるよう病院への紹介状を渡す。傷の消毒など応急手当をすることもある。また、今の寒い時期には毛布やカイロを持参し、必要とする人にだけ渡している。
夜まわりで出会った人のケアとして月曜日と金曜日の日中は医療、福祉などの相談を受けている。病院への紹介状の発行や、生活保護などの福祉サービスを希望する人と一緒に福祉事務所などの福祉機関へ行ったり、入院している人の見舞に病院訪問をしたりしている。また、居宅への生活を始めた人へのケアも続けている。要するに野宿から在宅までの個別ごとの支援を継続していくケースワーク的な活動である。
いままでにいろんな人との出会い、相談、事件があり、そのすべてを文章にすることはできないが、最近身近な出来事から感じたことを記すことにする。
先日、Iさんが病院でなくなった。62歳だった。Iさんは生活保護を受け、アパートで一人で生活していた。酒が好きで日中飲んでいて、飲んでいないときはおとなしいが酔うと人が変わったように凄んでくる。それでもなぜか憎めないひとであった。また、大の病院嫌いで酔うと必ず「病院は金儲けばっかりでろくな扱いをしない。死んだら大学の実験にまわされるだけでそんな人何人も見てきた」などと悪口を言っていた。誰しも病院は好きではないと思う。そんなIさんは皮肉なことに昨年の秋ころ、検査のため渋々行った病院で食道ガンが発見され入院が指導された。もちろん入院は拒否。それどころか「おまえら医者とぐるになってわしを殺そうとしている」ととばっちりが来た。医者からはこのままほっとくと半年しかもたないと言われ、Iさんは「医者が勝かわしが勝か勝負する。半年過ぎて生きていたらわしの勝ちや」と”宣戦布告”をしたが病気には勝てないだろうと思った。
それから一年近くが過ぎた。症状は進んで食がさっぱり喉を通らなくなっていた。Iさんはひどく痩せて歩くのもやっとのぐらいに弱っていた。それでも最後の力を振り絞るかのように旅路の里にやってきて「死ぬ前に一回、死んでから一回でいいから姉さんに会いたい。電話してほしい」という。姉さんとは昨年およそ40年ぶりに再会したのだが、また疎遠になりつつあった。連絡ののち、姉さんは一度部屋を訪ねてきてくれたそうだ。私たちはできるだけIさんを訪れることにした。いよいよかなという思いだった。週に一度往診にきていた医者のすすめで、あれほど嫌っていた入院をすることになった。肺炎を患っていた。抵抗できないほどよっぽどしんどかったのであろう。入院後一度、姉さんがお見舞にきたが、それからほんの数日後、私たちや姉さんに看取られることもなくIさんは亡くなった。斎場で最後の別れをした。Iさんの顔は安らかに思えた。病院のベッドで縛られ薬浸けで”生かされる”よりも、最後まで好きな酒を飲みつづけたのだから。そう思った。荼毘に付され、小さな骨壷にお骨が納められた。姉さんが引き取り両親の墓に一緒にいれることになっている。無縁仏となることが多い釜ヶ先では珍しい光景だった。
夜まわりで出会い、別れのときはIさんのように亡くなることでやってくる。今年になってその別れが幾度かあった。淋しさ、無念さを思う。