「生理的に」という言葉が用いられる時、多くの場合そこには「無意識に」、「意識とは関わりのないところで」といった意味合いが含まれている。しかし私は「生理的な」体の反応が意識とは無関係だとは限らないと思う。1994年の年末、私は初めて釜ヶ崎越冬闘争に参加した。といっても、越冬闘争期間中ずっと釜ヶ崎にいた訳ではない。アルバイトにも行ったし、帰省もした。アルバイトのため住んでいる京都へ戻る時、私は店へ直行することをせず必ず一度下宿へ寄った。服を着替える、ただそれだけのためである。「釜ヶ崎の小便臭さが、体中にしみ込んでいる」そう感じて私は上から下まで服を全て着替えた。ところが時間が過つと-'95、'96と越冬のみに限らず釜ヶ崎を訪れ、顔見知りの労働者も出てくると-いつの間にか私は匂を気にしなくなっていた。それは決して、匂そのものがなくなったのではなかろう。
「着替え」をしていた時、私はアルバイトを口実に京都へ戻れたことをほっとしていた。その理由は、匂いだけではなかった。男性が圧倒的に多い釜ヶ崎で、セクハラは実にひんぱんに起こった。私の場合、殊にしつこく一人の労働者からセクハラを受けた。地区内で顔を合わせるたびに彼は、私の腕をつかんで周囲の労働者に向かって「俺の嫁さんや」と叫んだり、「ホテルへ行こう」と言ったりした。それを傍で見ていた他の支援者-その多くがこれまた男性-との間で、これが性差別だという認識が共有されるまでにはしばらくかかった。このような性差別は、別に釜ヶ崎のみに限って起こる訳ではない。「市民社会」にも、同じ性差別が存在する。ただ、釜ヶ崎の地区内においては女性より男性が圧倒的に多数であるが故に、よりはっきりとそれが見えやすいのである。しかしここで、「釜ヶ崎の労働者は、正直なんだよ。『市民社会』では、差別的な意識を持っているのにそれを表に出さないだけなんだから。」、といった類のことを言う支援の男性には異議を唱えたい。表に出された、具体的な行動、行動としての性差別に直面する女の痛みを感じているようには到底考えられないからである。
一方でこのような発言にも出会う。「女の子が、そんな危険なところへ行かないほうがいいよ。」という、自らも釜ヶ崎へ行かない人の発言である。自分が日常生活において、女性に対してやっていることは棚にあげて、いかにも良き理解者のような顔をして。話しの流れ上、女性に対する男性の発言という形で先に挙げた「行かないほうがいい」発言は、他の事象に対しても出てくる(すなわち男女を問わず釜ヶ崎へ行かない人の発言として)。「釜ヶ崎はそこらじゅうで賭博が行われてたり、覚醒剤の売買がなされていたり、暴動が起こったりするヤバいところだ。」といった発言がそれである。私は、賭博や覚醒剤を奨励している訳ではない。「ヤバいところ」だという言葉は、日常そこで暮らしている人を無視した発言だと思うのである。「ヤバいところ」だという、そこに関わることへの拒否以前に、なぜそれらの事象が存在するのかを考えれば、おのずと自身との関係性ー釜ヶ崎に生きる人々とのーが見えてくるはずである。
釜ヶ崎に生きる人々すなわち日雇い労働者であるが、その中でも、この不況下において野宿を強いられる人の数は激増している。申し遅れたが、ここでちょっと釜ヶ崎パトロールの会(釜パト)のことについて触れたい。釜パトは、実は釜ヶ崎で活動している訳ではない。発足した当初は、文字どおり釜ヶ崎地区内のパトロールをしていたのだが、そのうちに釜ヶ崎の外でも野宿者がどんどん増えていることに気づいた。リストラ、会社の倒産…日雇い建設労働者以外の人が、野宿者になっているのである。そうした中で、釜パトの活動拠点は釜ヶ崎から離れた大阪キタへと移行していった。キタでのパトロールで、野宿者だと思って声をかけたらそうでなかった、あるいは野宿者であるのに気づかなかったということがよくある。野宿者でない人に、野宿者だと思って声をかけた場合怒られたりもする。怒られなくとも、「そんな風に見えるんかな。」といった返事が返って来る。実際パトロールをする時に、雑踏の中で一人一人に「あなたは野宿者ですか。」と聞いてまわることは、物理的に不可能なので私たちは外見で判断している。しかし、先に述べたように、自分が野宿者になることなど全く予期していなかった人たちがさまざまな経緯から野宿者になっていく今日、外見で判断できない場合がますます増えている。
外見で判断できないということは、私達のパトロールにかかる時間が多少延びるということかも知れない。しかし、あくまでも外見で判断しているのは、物理的な限界からそうしているのだということを確認したい。野宿者に対して、「臭い」「汚い」といった言葉を投げつけることは差別である。別にここで野宿者はいい匂いだ、美しい」と言いたいのではない。誰だって、長い間入浴や選択ができない環境におかれたら、汚れもするし臭くもなるだろう。「臭い」「汚い」と言うことが、差別だと考えるのは、その人がなぜ入浴や洗濯ができない状態にあるのかを考えることなく、言葉を発してしまっていることに対してである。「入浴、洗濯ができないこと=野宿」なのではなく、それは結果としてのこと-野宿生活の中で被る不利益である。「臭い」「汚い」という言葉には、「野宿者は風呂に入ら(れ)なくて当然」という意識が、含まれているのではなかろうか。野宿者に対して、「野宿はだめですよ」と言ったところで、明日もその野宿者が野宿を続けざるを得ないことに変りはない。そのような中で、野宿をすることは不衛生で不健康で悪いんだと言われたら、その人は自分の存在までもを否定されることになる。野宿者が野宿者として何らの差別、不利益を被ることなく生きられること、私達はそれを目指して活動している。