前回の『みちくさ』に釜ヶ崎のレポートのような何だかの文書が掲載された。
山口とやらが書いたものであるが、最近はやりのたいしておもしろくもないレポートのマネごとだ。先頃も釜ヶ崎に関してさっぱり売れないライター達が6、7年前の週刊朝日の釜ヶ崎レポートの焼き直しを出しているが、私には読む気すらわかない。山口とやらのレポートもこの程度のレポートである。まともに読めばこの手のレポートにも追いついていないのだ。そしてこんなくだらない文書がただ読みすてるだけのものならともかく、まじめに物を考えようとする解放研の通信――少なくとも私はそういう風に読んでいた――に何で掲載されるのか、私にはさっぱり分からない。
山口と阪大解放研、彼・彼女らは一体、何を考えているのだろうか。
私は高校を『追放』のような『卒業』後、ほぼ一貫して日雇―底辺下層労働をしてきた。このような生活を選択したのは、中学校の時、部落解放運動にひろわれて、高校『卒業』後、反戦反核運動、登校拒否問題に関わる中で、時間に余裕があって金が早く入る仕事として、日雇―底辺下層労働を選択したのである。しかし今になって考えると、解放運動や市民運動に関わることがなくても、私の『家』の状況――『家』の外では、悪意によってみちあふれ、『家』の中では、父と母、兄と妹、そして親と子が相互の抑圧者としてふるまい、傷つけあっていた――は必然的に日雇―底辺下層労働を選択していただろう。
日雇―底辺下層労働をやりながら、夜間の野宿者へのパトロール、炊き出し活動に参加していった。
広島駅周辺の寄せ場にたつ中で、私の目の前で公然とピンハネをする業者、労働者に関係を求める親父――日雇―底辺下層の世界には『女』というものが存在せず、したがってその性的欲求は、強制的にといっていいほど男にむけられる――あまりの現実のきびしさに私はおどろくしかなかった。
バブル崩壊直後、仕事を求めて西から東から北から海をこえてヒロシマに労働者が集まった。1994年のアジア大会をひかえての開発と建設ラッシュである。しかしそれもアジア大会が近づくにつれ、仕事もへり、外国人労働者への賃金不払い――入管法をちらつかせた強制労働――の発覚、日本人の私と外国人労働者の賃金格差、そして大量摘発と強制送還、そのようにあつかわれる外国人労働者は私の運命である。外国人労働者であることを理由に日本人の賃金より安いということは、仕事が減っていくにつれて私たちの足元を見られて安くつかわれていくということだ。
私は頭にきて、大酒をくらい、泣きながらかべや柱をなぐっていた記憶がある。そのオトシマエは今もつけていない。日本人として外国人労働者をそのような目にあわせた――いくらそのことに反対したとはいえ、結果的に彼らは追い散らされ、私はここで『生きている』のだから――ことを忘れられない。
94年10月アジア大会、行政は大会期間中は、建設土木工事は自粛せよと通告してきた。これにより私たちは仕事に行けなくなった。日雇労働者にとって仕事がないことは、その日、あるいは当面の生活に支障が出てくるのだ。
広島市内を走るマラソン大会と実況のヘリコプターがバタバタの音に私は気分が悪くなり、
「こんなバカ丸出しのお祭りさわぎなんかつぶれてしまえ!
どいつもこいつも死にやがれ!」
とわめいていた。
それから仕事は全然なくなり、仕事があると見込んで買った弁当がムダになり、結局家に持ってかえって炊飯器のメシとなべの中のおかずを横目に弁当を食うというムダなことのくりかえしだった。その内、弁当を買わなくなり(仕事があれば買う)さらには、今日も仕事はないと決めこみ寄せ場にも行かなくなった。重労働をやったことのないものは分からないだろうが、仕事をしてのメシと仕事をしていない時のメシがどれだけ差があるか。仕事をしていない時のメシはすごくまずいのだ。
95年3月、阪神大震災で列島規模での復興事業への動員が始まる。広島からも神戸へ多くの日雇労働者が出かけて行った。しかし私は神戸まで行って仕事をする自信はなかった。年度末もあって仕事はでていた。
それでも4月に入り、仕事はなくなり、5月には本当にピンチになってきた。毎年のことながらゴールデンウィークがうらめしくてイヤだった。5月の連休、夏休み時期、年末年始は私たち日雇―底辺下層労働者にとって生き死ににかかわる季節である。食いたいだけ食いちらかして、グルメかなんかを気どり、そのクセ大不況が何のかんのと言っているこの国で私たちは構造的に胃袋までとりおさえられ、自分の胃袋なのに自分の物ではない世界にいる。こうして、およその欲求、食欲、性欲、労働意欲は自らの意志ではなく、何者かによって取りおさえられ、肉体も精神も破壊されていくのだ。若ければコキつかい、年老いていけば使い捨てられ、野たれ死にを強制される。そして、その亡きがらは、大学病院で解剖実験のためにきりきざまれるのだ。
しかし、外に仕事のあてがあるわけでもなく、とりあえず胃袋をみたすためには、現金にたよるしかない。私は神戸に行くことにした。結局胃袋は誰かにとりおさえられるのだ。
今考えると、私が釜ヶ崎を選んだのは単なる仕事をめぐる諸事情だけではなく、もう一つ人間関係の破綻もあったと思う。
釜ヶ崎を始めとする寄せ場に旅立つ時、彼らの多くは何かの人には言えない過去を持っている。それまでの生活の中で彼らをとりまく状況――家族関係、友人、知人関係、男女の関係、部落民であること、アイヌ民族であること――の破綻があるのだ。
釜ヶ崎労働者の間ではまず他人の過去は聞かない。何らかの理由で釜ヶ崎に来ているのだから、釜ヶ崎に来ていること、そこから人間関係はつくられていく。
仕事がなく、金がないため家賃滞納で電気をとめられたまっくらな部屋で、100円かそこらのおにぎりを食べながら、私の居場所がなくなったこと、このような形で私を追いつめている敵に怒りを感じていた。
そして旅立ち。
スポーツ新聞で求人さがし。とりあえず北九州の業者に決める。広島から各停を乗りつぎ数時間、門司についた。業者は門司駅から5分の所にあった。
親父が言うには、「今夜の船で大阪に行ってくれ…。」である。ついでに「これで何か…。」と1000円くれた。
昼すぎからの雨はいよいよひどくなり、船がでるころにはあらしである。私は関門海峡を見ながら、日帝の経済侵略により日本に行くしかなかった朝鮮人・中国人に代表されるアジア人民、その後の日帝による侵略戦争により強制連行された朝鮮人・中国人に代表されるアジア人民にはこの関門海峡はどのように見えたのだろう…。と考えた。そのとき私は、これから行く予想もつかない世界にそれなりのかくごを決めていた。労災による事故死、タコ部屋労働、……。
翌朝、南港、すでに業者がむかえに来ていた。いかにも土方人足車両といった車だ。私はこれからどこに連れて行かれるのか全然わからなかった。かりに地名を言われても分かるわけでもないが。ただ車の中からときどき見える○×区△丁目の表示を見ると、私はそこを走っているのかと思うくらいだ。
そんな私でも「西成区」の表示を見たとたん「え…?」となった。そしてついた所は、会社の前は政治結社何ちゃらの事務所――右翼のくせにロシア産の犬をかっているのには笑ってしまった――うらは飛田の遊郭地帯、会社の親父はヤクザ、そして飯場はボロボロの3階建てビルのかべやついたてをとっぱらい強引にフロアにしたつくりである。各階につき病院のベッドが30こ、つまり30人の大部屋である。合計100名からのゴンゾウ部屋だ。プライバシーも何もない。
その夜、私は「生きて帰れるのだろうか」と考えた。
次の日、朝5時起床。帳場で各現場ごとにふりわけられ、人足車両で行く班、電車で行く班。私が行くところは大阪市大の現場だった。
で現場は、すでに詰所からどなり声と暴力が横行し、現場も一服も何もない追い回しがきつかった。何か知らんが大きな顔で私どもにかみつくバカな親父とそのバカ息子――バカ息子には焼肉定食と命名した――がけるはなぐるわのケタオチ現場である。おかげでトンコが続発、でボーシンもバカだから、「トンコだ!トンコだ!」とわめく毎日。
そんな現場だから会社もウンザリで、
「明日から行くな!」
その瞬間、私たちは現場の世話役――仕事はいいかげん、返事だけは人の3倍だが、ほとんど聞いていないのタヌキである――とバンザーイをやった。ここに私は本当のなかまを感じた。結局その範場に4ヶ月ぐらいいて、その後本格的に釜ヶ崎の運動に参加。
今は亡き隊長の一の子分になった。
隊長はビラを書けばゲバ字、たてかんを書けば5m以上のたてかんにゲバ字、集会をやればもう集会におかまいなしにバクチクを鳴らし、その後のデモはピッピピッピと笛を鳴らし、ワッショイワッショイとジグザグデモとうずまきデモで完全武装の機動隊を文字通り粉砕!右翼が「君が何ちゃら」と鳴らして来れば、
「やかましい!」
とワンカップをたたきつける。歌をうたえば革命歌、テュパクアマルの日本大使館占拠の闘いに興奮し、本気で『釜ヶ崎解放』と書かれた旗と笛とバクチクとワンカップ……を持って合流する気だった……逮捕回数23回らしい。
その隊長に引きつれられて労働争議に行った。埼玉の業者であるが、建設業の冷え込みにより野宿者となった日雇労働者の足元を見てタダ働き、日本刀(模擬刀)、ゴルフクラブなどでなぐる、頭を全員丸刈りにする、リンチ、半殺し、戦前のタコ部屋そっくりの業者である。こいつは上野で手配をしていた。この労働争議に釜ヶ崎、名古屋の笹島、横浜の寿、東京の山谷、新宿、上野の日雇労働者、野宿者が集まり、この極悪業者を追求し謝罪させ、争議をつぶしにかかるヤクザ、おまわりに一指もふれさせない闘いを行った。
この労働争議の完全勝利は、96年1月24日の新宿ダンボール村強制撤去反対の闘いの原動力となった。野宿者であることを理由に社会のすべてからしめだされ、自らをくだらぬもの、野たれ死ぬことに納得させられていた山谷、新宿、上野の野宿のなかまが中心となった労働争議は、
「…今まで野宿者であることでダメな者と思うていたが、ワシラだって団結すればこんなひどいヤクザ業者に勝てるじゃないか!」
という大きな自信をつくりだした。
そして96年1月24日、東京都青島による動く歩道建設を理由に新宿西口ダンボール村強制撤去反対の闘いで大爆発。バリケードを組み、釜ヶ崎、山谷、新宿、上野、笹島、寿、渋谷の野宿者、日雇労働者、支援者がスクラムを組み座り込んだ。そして都の職員、ガードマン、おまわりと闘うすがたは、野宿者とはこうあるべきもの――なまけもの、酒びたり、自由気ままで人の言うことを聞かない、etc.――という差別する側の野宿者像をふきとばした。野宿者が暴れている?
笛とトラメに合わせてシュプレヒコールとデモをやっている?
それは差別する側にとって異様で信じられない光景だった。とりあえず青島は
「…一部のホームレスが過激派にそそのかされ……。」
と言ってみるが説得力はなかった。
それから3年たつが、その間、労働争議、国体を理由とした追い出しを許さない闘い、ことあるごとに警察による弾圧を受けてきたが、私たちは闘いをやめるわけにはいかない。山口のように私たちの友人、なかまにそのようなまなざしでしか見ない者がいる限り。そのようなまなざしこそがこの間の野宿のなかまへの襲撃をひきおこしたのではないか。
本当のことを言おう。山口の書いた文章は、私たち日雇―底辺下層労働者、野宿者に対する差別文書以外の何物でもないことを。そしてそのような差別文書のあとに日雇―底辺下層労働者の私が文書を出すことに疑問を感じている。釜ヶ崎の現実をおもしろ半分かのぞき見趣味で書かれたあとに、私が釜ヶ崎の現実を書くことは、結局山口の文書の肉づけ――釜ヶ崎はやはりそういうところ――にしかならないではないか。
そしておよそ部落解放をかかげる阪大解放研が、その圧倒的多数が部落民である釜ヶ崎に対してそのような文書を出したことをどう感じているのか。これはまったく笑えない話ではないか。