これまで二回は、私自身の経験から部落間題について感じてきたこと、考えていることなどについて書いてきました。今回は少し距離をおいたところから考えてみたいと思います。
先日卒業論文の関係で調べた言葉の中に、コミュニティーとアソシエーションという言葉がありました。マッキーバーという社会学者の定義によると、コミュニティーとは感情を共有するグループで、アソシエーションとは目的を共有するグループということです。ムラ社会や町内、仲良しグループなんかはコミュニティー、会社だとか学会、法人などはアソシエーションにあたるということが言えるでしようか。もっとも日本の会社なんてどっちにあたるかよくわからないところもありますが。
それはさておき、この言葉を見て私が思ったことは、では解放研は、解放運動団体はどちらにあたるのだろうということでした。一見それははっきりしているように思えます。「部落解放」という大きな目的をもち、それに向けて活動しているのですから。けれどその活動の基礎となっている、もしくはなっているはずだとされているものは、「差別への怒り」という感情です。差別に対する感情を共有するコミュニティー性を前提としてもち、そこから差別をなくすための活動をおこなうグループとして生まれたアソシエーション、とでも言えるでしょうか。もっともこれは解放運動の歴史を考えれば当たり前のことです。部落という地域コミュニティーに属する人々が、差別をなくすために運動を始めたことがそもそもの始まりだったからです。
当たり前のことをいまさら学者面して何を言ってるんだと言われてしまいそうです。また、両義性ということなら他にもいくらでも例があるではないかとも思われるかもしれません。(確かにそうです。学生のサークル見りゃわかります。活動のために集まってるのか、彼氏や彼女つくるために集まってるのか・・・おっと人のことばかりも言っちやいられない。)けれど解放運動の中の部落外出身者をどう位置づけるのかということや、部落内外での意識のずれといった問題を考えるとき、この両義性は重要な意味をもってくるように思います(部落出身者同志なら問題はないのかというと、もちろんそういうわけではないでしょうかう。前回私が書いた「その2」でも、差別に対する感情を出身者とどのように共有できるのかということが大きな問題でした。差別への怒りを共有するコミュニティーの一員とならない限り、主体的な活動も生まれてはこない、そんな活動が展開されてきたように思います。「部落問題を自分の問題として考え、取り組む」という言葉は、このことを端的に表しています。「闘い(斗い)」という言葉もそうです。単に行動を表す言葉にとどまらず、感情的な価値判断をともなう「コミュニティー内でしか通用しない言葉」といえるのではないでしょうか。
こう考えてくるとこれまでの解放運動、同和教育というものは非常に「コミュニティー的発想」(私の造語なので、本来のコミュニティーという言葉の使われ方からは、ずれているかもしれません)が強かったように思われます。乱暴な言い方をすれば解放運動は「差別と闘う仲間を増やすこと」であり、同和教育は「差別に対して怒りをもつ人間」を育てることだったのです。こうした発想の運動は、確かにこれまで一定の成果はあげてきましたが、現在明らかに曲がり角にきています。それは例えば同和教育への反発であるとか、部落差別の現状に対する部落内外の認識のずれといったところに表れています。
「差別を克服する」という言葉は言い替えると、部落出身者と非出身者をコミュニティーとして融合させるという意味あいで、便われてきたように思われます。「両側から壁を越える努力」という言葉も同じような文脈でとらえられるのではないでしようか。こうした形での部落解放の展望は、しかしやはり運動の内部もしくは、ある程度部落問題に身近な位置にいる人にしか求められないものに見えます。この作業が全ての人について行われるためには、膨大な個々人の努力が必要とされるでしょうし、それは気の遠くなるような長い道のりであるように感じます。しかしこのような形で部落差別を乗り越えることを考えてきたからこそ解放運動は必然的にコミュニティー性を持ちつづけてきたともいえるでしょう。
もう一度コミュニティーとアソシエーションに戻ります。コミュニティー的要素についてはこれまで見てきました。では解放研のアソシエーション的な要素の方はどうでしょうか。始めにも確認した通り共有している目的とは「部落解放」です。ただこの言葉はそれ自体さまざまな意味を含んでしまうので、仮に「部落差別をなくすこと」としましよう。これだけなら話は簡単です。なぜならそれはもうほとんど全ての人によって共有されているはずです。「差別はなくすべき」とはもはや一般常識に属します。
アソシエーションとしてのみある解放研を想定してみるならば、次のようになるでしょうか。部落差別をなくそうという共通の目的を持ち、部落差別をなくすために有効だと思われる活動、啓発をおこなうグループであり、メンバー個々人の動機は問わない。それが自己啓発だろうが、被差別者に対する同情であろうが、道徳感からか、部落差別を放置する事は日本の恥だという使命感からであろうが。
ちょっとイメージがわきにくいかもしれません。また、そんないいかげんな組織で安心して活動ができるかといった声も聞こえてきそうです。またそれで実際どんな活動ができるのかという問題もあります。しかし一番の問題は「部落差別をなくす」ということをどのようにして展望するのか、ということではないでしようか。
少し考えていることがあります。それは社会全体の人権感覚をレベルアップさせるということです。人権感覚という言葉も部落解放と同じくらい抽象的で分かりにくい言葉です。しか、しここで私が想定しているのは、もっと露骨にいえば「差別をしないための技術」です。例えば「自分は部落差別をしよう」と思っている人はほとんどいないでしよう。しようと思ってする差別より、気づかぬうちにしている差別のほうが多く、たちも悪いということもいわれます。これこそが「人権技術」の欠如の現れではないでしょうか。「関係ない」という言葉をめぐる伝統的な攻防があります。親しい友人に自分が部落出身であることを告げたが「関係ないよ」といわれて、この友人も自分とともに部落差別を考えてくれようとはしないのだと感じ、傷ついた、というような事例です。ここで考えるべきは、この友人の意識がどうこうということよりも、もしこの友人が「関係ない」という言葉を聞いて、被差別の立場の人間がどのようにその言葉をとらえてしまう可能性があるかということを知っていればそんなことは言わなかっただろうということです。自分の気持ちを相手に伝えるというコミュニケーション技術の問題ではないでしょうか。
別の例をあげます。被差別の立場を持つ人に向かって「君の気持ちは良くわかるよ」と安易に言うことは、被差別の立場、気持ちをわかっていない意識の低さの現われであり、そうした意識が差別につながるのだとされてきました。けれど、そうした意識の低さとは技術を習得することによって克服してゆくことが可能なのではないかと思います。これまでの同和教育や、啓発活動にもっとも欠けていたのはこうした技術の普及と言う視点だったのではないか、と思います。例えば結婚差別を乗り越えて結婚したという話をとり上げるならばそれを単に差別に負けなかった感動的な美談として紹介するのではなく、なぜ差別を乗り越えることができたのか、具体的にどれほどの時間かかかり、どのような行動の末に可能となったのかということを、ひとつのケーススタディとして学ぶということが必要ではないかと考えます。
それは技術によって表面的に取り繕っているだけだという批判は当然あるでしょう。しかしそれほど、実感、感情の部分を大切にするのならば、「自分は差別者ではない」というほとんどすべての人に共有されている「実感」をとりあえず認めるところから始まってもよいのではないかと思います。解放運動は人々の意識のレベルで部落差別を「克服」することを目指してきました。しかし一般的には部落差別はなくなりつつある、自分はもう部落に対して差別意識を持っていない、という意識が主に若い人を中心にほとんどを占めているのではないでしょうか。もしかしたら実際、そのようにして忘れ去られていくような形で部落差別が本当になくなりつつあるのではないかと思うこともあります。もちろん厳しい差別がなお残っていることも確かです。けれどこうした意識のずれは、強く認識されるべきです。
被差別の立場にある人とどう向き合うか、差別事件にどう対応するのか、といった問題は気持ちの問題であると同時に、技術の問題でもあると思うのです。差別意識の現われではなく、人権技術の欠如としてとらえる時、部落内外の、運動内外の意識のずれは大きく修正されるのではないでしょうか。そしてまた、こうした人権技術の積み重ねの先に、部落解放を展望することができないだろうか、と考えています。
アソシエーションとしての解放研の活動とは、こうした人権技術の普及を具体的な活動とするものか、もしれません。「差別をなくす」という言葉をこれまでどおりにとらえるとすると、そこには必然的にコミュニティー性が内包されるからです。コミュニティー性を完全に排除せよというわけではありません。問題にしているのは、「前提」とされているコミュニティー性であり、コミュニティー的発想です。しかしアソシエーションとして集まった中から新たなコミュニティーが生まれることは、逆に非常に望ましいことではないかと思います。人と人とをつなげること。解放運動のもつもっとも素晴らしいものではないでしようか、。
アソシエーションとコミュニティー、感情と技術という言葉を使って私なりの問題提起をしてみました。別に何もこのような考え方をしなくてもよいか、もしれません。しかしこうした言葉を用いることで、これまでの活動を見直すひとつのきっかけが見いだせるのではないか、と思います。私の力量の及ぶ範囲では到底ないところまで手を広げてしまったような観もありますが、皆さんのご意見を聞かせて頂けたらと思います。
さて、「みちくさ」9号から3回にわたって書かせて頂いた「部落問題と私」ですか、いったんこれで終わりにしようか、と考えています。これまでの私の解放研活動の中で、感じたこと、考えてきたことなど思いつくままに書いてきましたが、そろそろ書きたかったことはほとんど書いてしまったという気がしています。個人的に学業が忙しくなってきたということもあります。楽しみにしてたのにという方、いらっしやったらごめんなさい。これまで意見や感想など寄せてくださったみなさんありがとうございました。今回の分も合わせて、また何かあれぱぜひ下記のE-mailアドレスか、阪大部落解放研究会までお寄せ下さい。