私は,小学生の頃,性的暴カを受けたことがある。長い間,このことは,忘れはしないものの,あまり意識もせずに生活してきた。「意識せずに」と言っても,どうやらこのことは,私の人生において,多大なる影響を与えてきたようだということに,最近薄々ではあるが,気づくようになった。きっかけは,ある本を読んだことである。その本は『誰にも言えなかった』(エレン・バス,ルイーズ・ソーントン共編,森田ゆみ訳,築地書館,1991年)で,主に子供の頃に受けた性暴力について,被害者が語っているものである。「性暴力の最大の敵は『沈黙』です」(254p)と書かれていたのがとても印象に残った。ちなみに,私はこの本を読むまで,自分のされたことが「性暴力」だとは自覚していなかった。
小学校4年生の時(と思う),うちの家で,当時習っていた習い事の忘年会があった。夜中に,子供だけが集められていた部屋に,先生のうちの一人が来た。そして,ただ一人起きていた私の隣に座って,「寒いやろ」など言いながら,身体をさわったり,耳をなめたり,キスをしたりした。私は,しばらくして「イヤだ」と言うことができ,先生は,大人が鍋をつついている部屋に帰った。(以後,このことを「事件」という)実は,私は,母親の口から,その先生が私を特別「かわいらしい」といっていたということをきいていた。だから,狙われたのだと,その時思った。それ以後,私はその先生を極端に避けだした。その先生は偉い先生だったから,あんまり避けると他の大人が怒り出す。理由を言えずにずいぶん困った。
私は,小学校高学年の頃から大学に入るまで,ほとんど私服のスカートをはかなかった。小中学の頃,いわゆる「男もの」の服を格好良く着こなす女性の先輩にあこがれて,真似をしていた。その時は,よく男の子に間違われたし,女の子から「かっこいい」と言われたこともあった。高校になっても,急に格好を変えるのは恥ずかしくて,大学に進学してまったく知らない人に囲まれるまで,スカートをはけなかった。
最近,どうやら,このことが,小学校4年の時の事件と関係があるのではないかと思うようになった。事件がいつだったのかを思い出せたのが最近で,年数があうなあと思った。が,それだけではなく,長い間,性的な対象として人に見られるようなことはやってはいけないという強い思い込みがあって,「かわいらしい」とか,人に思わせるようなことはしてはいけないという感覚がつきまとっていたのである。
2年ほど前に,「沈黙は敵だということがひっかかっていたこともあって,親しくしていた人にうちあけてみた。言葉にして人に伝えるということは,その事柄を自分で認めて受け入れることにもなる。相手の対応もありがたいものであり,このことは私にとってとても大きなことになったように思う。この年の夏に,例の先生のお母さんが亡くなり,母親がお葬式に行った。帰ってきてから,母親がその先生の人柄をとてもほめるのに耐えかねて,たまたま私はお酒を飲んでいたのも手伝って,母親に泣きながらうちあけた。母親にとっても先生に当たる人であり,付き合いも深い人である。先生と母親の関係を考えると,母親には一番言いにくいと思っていた私の口を開かせたのは,ふと浮かんだ「他の子供も被害にあっていたかもしれない」という思いつきだった。母親の立場(先生ではないが,指導員である)の人が知っていれば防げるかも知れないとも思った。話を聞いた母親は,はじめ信じられなかったようであるが,少し黙ってから「お酒に酔ってはって魔がさしたんよ」と言った。そう答えることに対して何も言う気はないが,正直しょっくだった。母親は風呂にいき,私は自分の部屋に寝にいった。しかし,その後,布団の中で泣いていると,母親が謝りに来た。なんで謝るのかがとても気になって聞いた覚えがある。母親は,その場にいて何もできなかつたことを詫びてくれた。
結局,私は13年間誰にも言わなかったことになる。大人たちの関係をつぶしてはいけないというのが,小さい頃言わなかった理由だと思う。自分で認めたくなかったというのもあった。が今でも,言おうか言わまいか迷う時がある。言ってはいけないことのような気がして言えないときが多い。この感覚は何なのであろうか。確かに私にとっては非常に屈辱的な出来事である。そのため,話した相手には受け入れてもらいたいという思いが強くある。母親はこのことを聞かされて,しんどかったと思うが,母親に受け入れたもらえたと思ったから,私は母親への信頼を取り戻すことができた。しかし,問題はこれだけではないように思う。多くの人は習い事の先生が生徒の子供に性暴力をふるうといったことを,「いけないこと」というよりは「ありえないこと」として受けとめているのではないか、「ありえないこと」をされてしまった被害者は,人に語る場を奪われてしまう。そうしたことから,私は人に言えなかったのだろう。また,自分が「かわいらしく」することをやめなければならないと思ったのではないか。そうやって自分を守ろうとしていたのではないか、これは,今になって思うことである。性暴力は「いけないこと」であって「ありえないこと」ではないのである。
今回,原稿を書いてみないかと言われたとき,これについて書いてみようかという思いはあったものの,これを書いたからといってどうなるのかという気の方が強く書き出せなかった。書き切ることができないのではないかという不安もあった。実際,原稿郵送数日前まで違うテーマで書いていた。が,自分をごまかしているような気がつきまとい続けたので,思い切って書いてみることにした。
読んでくださった方は,どのようにお考えになるのだろうか。