『日本学報』第23号、大阪大学大学院文学研究科日本学研究室、2003年3月
この文章は、筆者(広岡)が在籍する研究室(大阪大学大学院文学研究科日本学講座)の紀要『日本学報』第23号の「対話と方法」欄に掲載された原稿を、公開するものです。校正前のファイルをもとに、できるだけ校正を反映させましたが、漏れがあると思います。引用などの際にはできるだけ、印刷されたものでご確認ください。ご意見ご感想は、電子メールで広岡宛にお送りください。(2004年6月22日)
HIROOKA, Kiyonobu
廣岡浄進
〈わたし〉を語る言葉とは、どのようにして紡ぎうるものなのだろうか。とりわけ、部落民(被差別部落民)(1)にとって。
「わたしは部落民である」と名乗るのは、筆者にとっては、いまだに、そこで何がしかの内なる抵抗感に遭遇してしまう作業である。何故なのだろうか。差別が怖いという、いわゆる「丑松」(2)としてではない、という実感めいたものはある。満で29歳になる筆者の周りの友人知人たちの多くがそうであるように、筆者自身もまた、部落民であると名乗ったことに直接に因果関係をたどりうるあからさまな排除や忌避には、社会生活のなかで出会ったことはない。(ただし、結婚に関わっては、いろいろと耳にする。もちろんその全てを結婚差別であると断じることはできないにせよ(3)。)
或いは、このように言う人もいるかもしれない――「部落民だなんて、名乗らなくても良いではないか」、と。原則として、カミングアウトは自己決定に基づくべきであると筆者も考える。この原則論に照らせば、名乗らないという選択も肯定される。ただし、その選択肢は個々の本人の手に握られていなければならないという担保のある限りで。けれども、仮にこの言葉が傍観者としての位置取りから投げかけられたものであれば、筆者はそれを拒否する衝動を抑えられない。この文章を書くことによって筆者が考えたいのは、部落民であると名乗る/名乗り続けることが、〈わたし〉を語る言葉と、どのように相互作用をもたらしているのか、である(4)。
いったい、今日における部落差別の実態とは何なのか。弱くなった、薄まった、昔のことだ今はもうないとまで言われる、そして当事者である部落青年にしてもしばしば実感がない、差別を受けたことはないと口にするにもかかわらず、ことほど左様に、部落民であると名乗ることに困難さを抱えるとは、どういうことなのか。何が、問題なのだろうか。他方には、部落差別の陰湿化であるとか、隠微になった分だけ悪質化しているという見解も用意されている。しかし、ひとまず解釈はさておき、具体的な現実を見つめてみたい。では、筆者の世代にとっての〈現実〉とは、どのようなものなのだろうか。
今、筆者の手許に、次の本がある。解放出版社(編)『INTERVIEW「部落出身」――12人の今、そしてここから――』解放出版社、2003年3月、171頁。タイトルの通り、12人の部落出身者へのインタビュー集である。インタビューの聞き手である担当編集者は、筆者の知人でもあるが、本書の中では「あとがき」にあたる「インタビューを終えて………〈物語〉の先にあるもの」において「K(一九六五年生まれ)」と署名しているだけなので、それを尊重してここでは名を明かさない。
インタビューされているのは、1960年代生まれが4人、1970年代生まれが7人、1980年生まれが1人である。最年長が1961年生まれ、最年少が1980年生まれである。この外に、語り手の母が1人(1949年生まれ)インタビューされているが、見出しは立てられず、その娘(1972年生まれ)へのインタビューの後に付加される形で掲載されている。本書は、タイトルにおいては明示的ではないが、部落出身の青年層を主な聞き取りの対象として、その生い立ちと、現在の部落ないし部落解放運動へのまなざし、そして将来における部落問題との関わり方の展望の、すくなくとも一断面を、明らかにしようとする意図の下に編まれた本であると言えるだろう。
本書は、「教科書」的な啓発書ではない。語り手たちは、必ずしも、運動の側、なかでも解放出版社と深い関係にある部落解放同盟が理想とするであろうような部落認識や運動観を共有しているわけではない。
部落出身という出自にたいしても、「歩く水平社宣言(5)」を自称する青年(1978年生まれ、愛媛県出身)もいれば、名乗るか隠すかという葛藤で「涙を流しながら車で帰ったことも」ある中学校教員(1965年生まれ、広島)もいる。結婚してから夫の偏見に直面し、部落出身であることを結婚前よりも「もっと意識するようになった」女性(1970年生まれ、近畿地方)もいる。高校時代には部落問題にかかわることから「僕はもうずっと逃げ回っていた」のに、同和対策事業関連の団体職員になり、部落解放同盟の支部の青年部活動が「自分の中でおもしろくなってきた」と語る男性(1973年生まれ、近畿地方)もいる。部落内に住み続けながらも部落解放運動との接点を持つことなく、民間で働いてきた女性(1962年生まれ、近畿地方)もいる。日本共産党の影響が強い全解連(全国部落解放運動連合会)から、解放同盟の活動家に転身した男性(1961年生まれ、和歌山)もいる。
地域的には、東京の一名を除いては、西日本に偏る。これは、インタビュー対象者の選定が編集者の個人的人脈に依拠したためのようである。
語り手たちには、実名で収録されている人もいれば、仮名で収録されている人もいるが、この点についての但し書きは見当たらない。出身地や現住地も、「近畿圏都市の被差別部落」と紹介されている例もあり、「愛媛県宇和島市の被差別部落」とのように市町村名を明記している例もある。本書を入手してから、筆者は数人の友人がインタビューされていたことを知ったが、実名の例もあり、仮名の例もある。
部落の、そして部落民の意識の多様化は、言われるようになってすでに久しい。とはいえ、本書は、「そういう本がまたひとつ出た」と埋没するものではない。ひとつには、ここに収録された友人たちの語りに応答を試みたいという、いささか個別的な、筆者にとっての特別さがある。だが、それだけではない。インタビュー集である本書において、編集における取捨選択というフィルターは当然あるものの、分析は加えられていない。その書評を試みようとするとき、その主体もまた、研究者的分析に走るのでなければ、自らについて語ることを求められるのではないだろうか。
部落民とは、実体概念ではなく、関係概念である。では、いかなる関係性の下で、わたしたちは部落民というアイデンティティを意識し、局面によっては実体化するのだろうか。この問いを考える鍵が、本書と向き合う作業のなかにあるのではないか。筆者が本書を取り上げる今ひとつの理由は、そこにある。
本書の出版の背景には、部落と部落差別の実態の変化があり、部落解放運動の変化があり、それらをめぐる言説の変化がある。1999年には、月刊誌『部落解放』が、解放同盟の青年活動家などの座談会を目玉とする特集「部落のアイデンティティ」を組んでいる(6)。ここ5年、ないしは10年ほど前から、部落民というアイデンティティのゆらぎが、正面から論じられるようになってきたのだと言えるだろう。
藤田敬一(編)『「部落民」とは何か』(7)(1998年)に記録された1997年のシンポジウムのなかで、藤田は、「部落民である/部落民ではない」という自己意識/他者認識が、「見なし、見なされる」関係性の問題であると述べている。1980年代後半から、部落解放運動の方向性をめぐる議論とも並行しつつ、部落と部落外との対話が途切れ、関係がねじれ、ゆがんでいくことの問題性をめぐって、議論が重ねられてきた。すくなくとも、その流れのひとつを水路づけてきたのが藤田敬一である。藤田は、『同和はこわい考』(8)(1987年)において、金時鐘の言葉を流用し、部落と部落外との「両側から超える」(9)ことを提起した。以来、部落差別をめぐる紋切り型の論議がもたらす閉塞状況に風穴を開けることをめざして、月刊誌『こぺる』(10)や藤田敬一発行のミニコミ『同和はこわい考/通信』などでの対話や論争が、部落解放運動においては異端視されながらも、地道に重ねられてきた(11)。
同和対策事業を経た部落の変容を受けて、部落/部落民/部落差別の実態がどのように変化しているのか、または変わっていないのかという課題が、その一方で浮上してきている。社会調査では、例えば、大阪府下の部落の実態調査、周辺住民も調査対象に含む意識調査などからなる「同和問題の解決に向けた実態等調査」を、大阪府が2000年に実施している(12)。社会学の立場からは、野口道彦『部落問題のパラダイム転換』(13)(2000年)が出されている。野口によれば、部落と部落差別の実態が大きく変容し、部落民をめぐる境界線が錯綜化しており、旧来の認識の枠組みでは把握できなくなっている。「部落民」概念を再構築すべきだ、と野口は提唱する(14)。石元清英は、1993年総務庁調査を利用して部落民の血縁的系譜についての試算を行ない、誰を部落民と見なすのかという差別の論理のあいまいさを指摘している(15)。また、月刊誌『現代思想』も、特集「部落民とは誰か」(16)(1999年)を組み、歴史学者、社会学者、活動家などの論説を集めている。
部落解放・人権研究所は1995年から1997年にかけて、大阪府下の部落で生活史聞き取り調査を行なっている(17)。本書に関わるところでは、その成果の一部が活用された、松下一世『18人の若者たちが語る部落のアイデンティティ』(18)(2002年)が挙げられる。松下は、聞き取り調査に応じた大阪の部落青年のアイデンティティを、「部落アイデンティティ中心志向型」「多元的アイデンティティ志向型」「アイデンティティ葛藤型」「モラトリアム型」に分類し、それぞれの特徴的な語り、背景にある生い立ち、地域の解放運動や「同和」教育を紹介する。引用される語りは、興味深い。けれども、著者までもが「便宜的」と断るようなこのような類型化が、どれほどに必要なのだろうかという疑問を、筆者はぬぐい切れない。現職の小学校教員でもある松下は、分析においては、その姿を隠す。そこでこぼれ落ちている語りは何なのかが、気になるのである(19)。
部落問題を論じる語り口や切り口においても、新たな潮流が出てきている。部落解放運動が運動論として押し出してきた「今なお厳しい差別の現実」と「差別に立ち向かう部落民」という枠組みに納まらなくなってきた、変化の成果としての多様性に目を向けようというのである。代表的には、ルポルタージュ作品である角岡伸彦『被差別部落の青春』(20)(1999年)が挙げられる。角岡は、マスメディアに登場する部落問題が「暗い」話ばかりである現状に反発し、明るくしなやかな部落青年の現在を描いた。すぐれて戦略的な著作であり、そこにあるのは、言うまでもなく、角岡が選び取った部落の像なのである。軽やかに部落問題を語りたい、という気持ちは、筆者にも、ある。けれども、そうはなりきれない現実も、片方にある。
とにもかくにも、近年のこうした議論を経て、部落民が自明の存在ではなくなったことは、今や常識に属するのだと言えよう。にもかかわらず、いやむしろ、そうであるがゆえにこそ、部落民というアイデンティティとの向き合いのあり方が問題になってくるのである。くどいようだが、その内容も、それを取り巻く諸条件も、上の世代とは違うはずである。その違いの何たるかを、抉り出さねばならない(21)。
脱線になるが、筆者は、友人(Rさん)との電子メールのやり取りのなかで、次のような状況があることを教えてもらった。Rさんは、近畿のとある私立大学の教員をしている。――勤務先の大学で、ぶらりと研究室にやって来て、「わたし(ぼく)、○○の部落出身なんですよ」「だけど、運動とか、勉強会とかがいやで、離れてみていて、アイデンティティも、なぜ部落を強調するのかわからない。〈普通〉でいいじゃん」と言いに来る学生がいる。そうした学生たちは、この教員が部落出身だということをまず確認してから、「わたしも」「ぼくも」とカミングアウトしてくる。彼ら彼女らは、運動がやりたいわけではないし、むしろ忌避していて、〈普通〉であることを強調する。にもかかわらず、部落民であることを名乗り、人権問題の授業を担当している教員をわざわざ訪ねて、カミングアウトしに来る、――というのである。Rさんは、「『フツウ』ってなんだろう???」という言葉で、この話を閉じた。
筆者は、次のように応じた。――かつては、部落民は名乗らなくても名指されていた。だからこそ、部落民宣言は、イコール、告発であり、糾弾であり、反差別の決意表明だったのではないか。今。筆者個人の体験に照らしても、ほとんどの場面で、声は虚空にかき消されていく感さえ覚える。反応らしい反応は、その場ではなかなか出てこないことが多い。そこに、今日における部落民宣言の困難さがあるように思う。マジョリティからはみ出すアイデンティティ、属性、背景などなどを放棄させる、無化させる暴力が、発動されているのではないか。「お前がそれを声高に主張しないなら、我々も気にしない」と。むしろ、この同化圧力こそが今日的な差別のあり方なのではないか。Rさんの書いてこられた部落出身の学生たちの様子も、このような現状と連関しているのではないかと思う。〈普通〉というイデオロギーに、ある意味において、直感的に気づいているのだと思う。部落民であることは「言えない」と。気になっていないのではないから、Rさんには言いに来る。受け止めてくれるから――と。
このときのメールに、さらにここで付け加えるなら、次のように書こう。ひょっとすると、こんな反応に出会うかもしれない。「それで?それがどうかしたの?何を期待しているの?」と。沈黙をもって迎えられるよりは、まだましだが、どんな対話を紡ぐことができるのだろうか。それはあなたの問題であって私には関係ないと言わんばかりの無関心さに拍子抜けするでもなく、傷つくでもなく、怒るでもなく(22)。集団運動を離れたところでの名乗りについて、わたしたちはモデルを持ち合わせていない。
『INTERVIEW「部落出身」』に、話を戻そう。部落民/部落出身という名乗りや、アイデンティティのあり方について、本書の語り手たちはどのように表現しているのだろうか。12人は、部落出身であるという事実を否定せず、さりとて振りかざすでもなく、それぞれの形で受け容れて、あるいは受け容れようとしている。なお、紹介にあたっては、敬称は省略する。引用文中の“……”は省略を示し、〔〕内は、筆者による補足である。
安藤緑(1962年生まれ、近畿地方)は、部落の裕福な家に生まれ育ち、民間企業で働き、現在は独立して自営業である。彼女は「〔部落民の〕誇り」という言葉について、次のように語る。
「卑下する必要もないんだけれども、〔部落民として――引用者注〕誇る必要もないのよね。」「わたしの名刺には住所が書いてあるので、人によってはね、なんか感じているのかもね。……それを相手がどう思おうと気はしないし、わざわざ「私は部落民です」なんて宣言しようとは思わない。」「〔「同和」教育の中で部落民として〕宣言をした子はとってもいい子のように思えるけれども、でも、言えない子が決して悪いわけじゃないじゃない?……言っても言わなくても、あなたはそのまんまの人なんだよって、言ってあげることができることこそが、いいんじゃないのかなあ。」彼女の生き方として見たとき、筋を通している人生観だとは、筆者も思う。部落民宣言(23)をできたかできなかったかは子どもの人格の本質ではないという発言については、筆者には大学入学までそれに類する経験がないのだが、原則として異論はない。その半面で、彼女の身の処し方は、現に部落の中に住んでいるという条件があってこそ可能であるという側面がある。筆者の場合、すでに部落に住所はない。「わざわざ」言うことをしないという選択をとるとき、では、いつ、周囲は部落民であると知るのか。そのとき、隠すこととの距離は、筆者にとっては紙一重である。「隠さない」のであれば、いつ、どのように名乗るのかという問いが、生活に張りついてくるのだ。
川口美紀(1976年生まれ、愛媛)は、ダンス仲間の後輩が泊まりに来るとき、あらかじめ川口の自宅の住所と電話番号を、泊まる本人からその親に伝えさせる。
「宇和島の人なら、地名言うとだいたいわかるから。部落って言っても、結構若い子わからんから、「そんなん関係あるん?」って言うけど、まあ、それは知識がないからそう思うだけで、親は違うじゃないですか。」部落出身であることへのマイナス・イメージはないのか、という問いには、次のように応える。
「人間、誰でもなんか背負っとるわけよ。その中で、あたしは、ただそういうことがあっただけで、他の子らも家庭環境のこととか、彼氏とのこととか、なにかを背負ってるわけじゃないですか。その中の一つと思っている。
あたしからしたら、もっと他の問題の方が部落問題より大きいなあとか思ったりもするし。そっちに立ち向かっていく力の方がないかなあと思ったり。だけど部落問題だったら、自分で対処していけると思うとるから。」「部落だろうとなんだろうと、あたしはあたしやってことを認めてくれている人がいるから。」彼女は、高校の授業で部落問題が取り上げられたときにも、居眠りしていたところを友人に「ミキちゃん、部落って言いよるよ」と起こされて、「ミキや、それ」「ああ、あたし、先生、あたしよ」と自分から手を挙げたという。また、人権問題講演などの機会には、いつも後方に陣取る友人たちを誘って前方に移り、講師には理解できる表現を求めたという。
結婚や恋愛において浮上してくる部落差別に話が及んだとき、彼女は次のように語る。
「なんて言うの、もっと前向きな言い方もあってもいいんやないかなって思う。自分だけなんでこんなになるんや、みたいに思う子、すごい多いやん。」「やけん、いろんな理由で結婚して離婚する人もおるし、結婚しない人もおる。……だから、自分だけじゃないんや、みんながおるんやってことを言って安心させてあげるべきやん。そういう時にこそ仲間がおるよ、一人じゃないよってことを、ちゃんと説明してあげんと。部落の子であっても、部落の子だけが後ろにいるから安心せいよ、じゃなくて、いろんな人いるよ、こういう人もああいう人もいるよって。」「自分の周りをみると、部落じゃない子でも、いっぱいいろんなことで悩んでいる子がおるって、思うやん。そのなかの一つの問題として解決していく。やから、部落の人だけがこうやろああやろって言うんじゃなくて、そうじゃない人とも、普通に共感して、話していくことができたらって思う。」彼女が、自らの周りに、濃密な人間関係を育み、それでいて、呑みこまれずに人間を見つめていることが、伝わってくる。
彼女の部落差別への対し方は、自然に身についたものではないようだ。2つ年下の弟が高校から解放運動にとりくむようになったことに言及し、次のようにつぶやく。
「そんなんなかったら、何も知らんままやったかもしれん。ただ、ああ部落なんや、うちらはって思っとっただけで、違うとこ住んで隠しよったかもしれん。」弟が集会で水平社宣言を朗読したビデオに、彼女の交際相手が感泣したことを思い出して、彼女は涙ぐむ。「うれしかった」と。この言葉には、質量がある。
川口泰司(24)(1978年生まれ、愛媛出身、大阪在住)は、美紀の弟である。高校、大学と解放運動に熱中してきた彼であるが、解放運動を離れたサーフィン仲間の先輩に、自分が部落民であると名乗るには時間がかかった。ようやく伝えたとき、沈黙が張りつめた。
「で、一時たってから先輩がぽそっと口を開けたんよ。「実はな、オレの母ちゃんは早いうちに死んだんやけど、在日コリアンだったってアニキからきいたんや」って。」名乗ればこその応答である。名乗らねば、この応答はありえなかった。
とはいえ、カミングアウトは、しばしば、それ自体が、なすべき課題へと転じる。その圧力の、すさまじさ。
田上芳久(1980年生まれ、愛媛)は、川口泰司の後輩である。彼は、高校の卒業間近のホームルームで、部落民宣言をした。そのエピソードを紹介し、「そっからその問題〔部落問題〕に関して話すような機会はなかったけど、クラスのみんなが相当仲良くなった」という言葉で締めくくった後、彼はこう続ける。
「この人(川口泰司)が中学三年の時立場宣言をやってて、俺もせんといけんというのがずっとどこかにあって、義務のように思ってたんやね。」田上はまた、「俺はね、部落っていうだけで義務を感じている」とも語る。この義務感は、筆者のものであったかもしれない。
岸本綾(1975年生まれ、東京)は、イギリス留学前の10代の後半に交際していた相手との関係をふりかえって、次のように語る。
「彼と日本で付き合ってる時に、私は出身者なんだよっていったことがあるんです。学校で「部落民」とかいうのやったでしょ?私がそれなんだよって。でも「関係ないよ、そんなこと」って彼が言ったんですね。その時ね、涙がとまらなくなったんです。あなたにとって関係がないことでも、私にとってはとっても関係があるんだけどって思って。もっとほんと身近なこととして感じてほしかったなあ、もっと関係のあることとして感じてほしかったなあって。」この事態は、過剰な思い入れの末の空回りであろうか。もしもそうであるとしても、涙はそのときの彼女の嘘偽りない感情である。傷ついたと感じた彼女がそこにいたことは事実である。傷ついてしまう感性のほうが問題だと言われても、その批評だけでは何の解決にもならないし、届かない。部落民であることを、切り離せない自らの一部としてどうしようもなく抱え込んでしまう自己形成、自己と他者の関係のありよう。新しいと論評しうる部落民意識に、同居しているどろどろした思い。ここを見つめる作業抜きには、どんな議論も上滑りになってしまうのではないか、と筆者は感じる。
川端学(1961年生まれ、和歌山)は、岸本より一回りちょっと上の年齢である分だけ、部落民という属性との関係は安定して見える。
「僕は部落に生まれてよかったと思っていますから。部落に生まれたから今の自分があるんで、もしそうでなければ、いろんな活動にもかかわっていなかったわけですしね。人間として大事なものを身につけないまま生きていったかもしれない。」自らの人格の形成において、部落民という生まれと育ちが、根柢的な位置を占めている点において、岸本(たち)の葛藤は、川端の語りと、つながっていく。
中原真奈美(1972年生まれ)は、部落民が自らについて語ることへのとらえ方が、徐々に変化してきたという。
「私ね、被差別者には自分を語ることが求められて、それって最初のうちは伝えることだって思っていたんだけど、実はそれが私にとっての癒しになっているのかなって、最近思いはじめたんです。話しているうちにトラウマになっていたことを思い出してきたり、客観的にみたり主観的にみたりできて、だんだん癒されていく。で、だんだんいろんな苦しみを抱えている人に思いをはせたい、共有したいって思うようになっていく。」筆者には、癒しという実感はない。むしろ、今でも、部落民としての自らを語ることには、含羞をうちはらえないでいる。それでもこの語りと共有できることがあるとすれば、自らの名乗りによって切り開かれた出会いがあるという体験である。
石川結加(1968年生まれ、大阪)は、松原市の部落出身で、大学でも部落解放研究会で活動し、留学経験のある、若手の部落問題研究者である。だが、その経歴からは意外にうつるほど、解放運動には微妙な距離感を示している。「あなたは何者か」という問いに、彼女は次のように答えている。
「「部落民」かどうかということに関しては、「出身者」だと答えると思います。」「私、自分の原稿では「部落出身者」としているんですけれど、「部落民」という言葉はそうでない人が作った名称をあえて自ら名のっているように感じます。私にとっては二元的な表現なんで使いたくないなあ。」要するに、部落民とは、彼我を分かつ対抗的な運動アイデンティティであるから、使いたくない、というのである。部落という出自の相対化ともいえよう(25)。筆者は、むしろ、部落民という表記にこだわりを持つ。部落民であるのか否か、名乗るのか否か、が焦点化されるとき、世界は否が応にも二分されるからだ。
ここまで、名乗りとアイデンティティという筆者の立てた軸に沿って、本書の語りに言及してきた。露骨な差別に出会うこともすくない語り手たちの世代においては、差別にたいする恐れや戦きという点では、たしかに稀薄化している。だが、それにもかかわらず、部落民/部落出身という出自は、それほどに軽い、どうでもいい問題では、ない。名乗りへの言い淀みにおいて、何がおきているのか。
6.おわりに
或いは、このように問われるかもしれない。「実体のない他者規定を背負い込む必要がどこにあるのか」と。筆者は、次のように答えよう。必要かどうかではない。今、ここに、そのことにこだわらずにはいられない〈わたし〉がいるという現実があるのだ、と。
筆者には最近、ある出来事があった。とある、初対面の集まりにおいてである。筆者はそこで、部落民であると名乗ろうと試みたとき、どうしたことか、嗚咽がこみあげるのを抑えきれず、涙とともに声を絞り出して、ようやく、言わんとしたことを伝え得た。「僕は部落民というアイデンティティを有している。このようなカミングアウトは、すくなからず、沈黙や無関心をもって迎えられる。聞き手の側に受け止める体勢がないところで、名乗っていって、傷ついてしまう情況が、存在すると思う。そのことは多分、お互いに不幸な出会いである。カミングアウトの条件整備とは何かについて、考えたいと、個人的には思っている。だが、この場では、今ただちに応答ができない人もいるだろうことも了解した上で、僕は名乗っておきたい。それでも、伝えるべき人がいると思うからだ」と。その内容自体は、筆者なりにすでに整理済みで、理性的に話せると考えていたものであった。筆者にとっては、部落民であると名乗るときに、まだ落涙し声の震える自分の姿それ自体が衝撃であり、その事態に動揺した。
われとわが身を揺さぶる情動の正体は、いったい何か。怯えなのか。それも、あるかもしれない。しかし、すべてではないように、思う。今は、筆者にとっても、未消化の〈事件〉であり、ここに書きとめておくだけで精一杯である。ただ、その場における流れの中での応答を試みるものとして筆者の発言があったこと、そして、その企図自体は達しえたと感じていることは、記しておこうと思う。
現代日本社会の人間関係の稀薄化が、一般論としても、指摘される。そのことと奇妙に並存して、筆者には、異質な存在への排除が強まっているように思われてならない。部落民という名乗りは、当事者にとっても曖昧模糊としてとらえどころのない部落問題と向き合うだけではなく、均質に見せかけられた集団において夾雑物として自己表明することになってしまう効果を持つ。
冒頭にも述べたように、今日の日本社会において、若者世代にとって、部落民であることは、その事実自体への実感は――もちろん個人差は大きいが、概しては――弱い。そこを、言うなれば、強いて、部落民であると名乗るという作業自体が、自分自身をアイデンティファイしていくことなのだろうか、と思う。けれども、その瞬間に自らがその直前まで暮らしていた人間関係とは別世界に属してしまう結果を呼び覚ますような不安も、そこには内包されている。このことは、感知されねばならない。
注
(1) 念のために書いておくと、ここで言うところの部落とは、被差別部落の略である。なお、小文では、「部落民」と「部落出身者」、あるいは「部落青年」と「部落出身青年」という言葉が使用されるが、それぞれ、基本的には同じ意味である。研究者の間でも、厳密に区別されているわけではない。筆者の感覚では、「部落民」と言うとアイデンティティに関わる、「部落出身」と言うとやや客観的な、アイデンティティがどうであるかに関わらず、生まれや育ちが部落であるというニュアンスを帯びるように思われる。なお、部落の類語に、同和地区という言葉があるが、これは元来は行政用語であり、行政上、同和対策事業の対象として区画された地域を指す。多くの場合において、部落を指して、言い替える文脈で使用される。だが、同和地区指定を受けていない部落もある一方、事業実施の都合上、部落であるとみなされていた地区より広めに区画された例も、しばしばある。 △本文に戻る△
(2) 「丑松」または「丑松主義」、「丑松思想」とは、島崎藤村『破戒』(1906年初版)の主人公である学校教員、瀬川丑松が、部落民であることを隠し通せという父の戒めに従うことで自らの身を守って生きていたことから、部落民であることを隠す生き方を指して、部落解放運動の立場から、やや揶揄をこめて言う呼び方である。丑松は、種々の葛藤の末に、涙に慄えながら教え子たちの前で部落民であることを名乗るが、そこで教職を辞して、アメリカのテキサス州への移民を考えつつ、任地であった信州下水内郡飯山を離れる。丑松の部落民宣言が土下座という身振りとともに行なわれたことについての議論も多々あるが、それは小稿での課題ではない。 △本文に戻る△
(3) 結婚に関わる問題で、筆者が相談に対応した事例もあり、それについて考えた拙文もある。廣岡浄進「『結婚』と部落差別と――インターネットで見られる事例から――」『みちくさ』第17号、大阪大学部落解放研究会、2001年4月。結婚差別は部落差別のさまざまな現われ方の中で最も根深いものであると筆者も考えているが、結婚のために部落民であると伝えるという状況は、今ここで筆者が考えようとしている問題とはやや異質なのではないかという気がする。 △本文に戻る△
(4) 筆者は、これまでにも、部落民という名乗りをめぐって、文章化による自己切開の試みをしたことがある。廣岡浄進「『部落民を名乗る』こと」『みちくさ』第6号、1996年5月。同「『部落青年の現在』への話題提供として」『みちくさ』第15号、1999年9月。前者はウェブサイト「みちくさ」)にて、後者は「廣岡浄進ホームページ」にて公開している。 △本文に戻る△
(5) 全国水平社創立宣言。1922年3月3日、京都左京区岡崎の京都市公会堂で開催された創立大会で読み上げられ、部落民の自主解放運動をすすめる全国水平社が発足した。部落解放運動の原点に位置づけられ、部落解放運動の集会などのセレモニーにおいて、しばしば朗読される。 △本文に戻る△
(6)『部落解放』第456号「特集 部落のアイデンティティ」、解放出版社、1999年7月。
(7) 藤田敬一(編)『「部落民」とは何か』阿吽社、1998年9月。同書は1997年9月に京都で開かれた第14回部落問題全国交流会の記録である。 △本文に戻る△
(8) 藤田敬一『同和はこわい考――地対協を批判する――』阿吽社、1987年5月。△本文に戻る△
(9) 金時鐘『「在日」のはざまで』立風書房、1986年5月。藤田は同書に言及する中で、この表現を引用している。なお、同書は平凡社ライブラリーにて復刊した。平凡社、2001年3月。ちなみに最近、両氏の対談が行なわれた。金時鐘/藤田敬一「対談 人間と差別を考える――差別する側・される側 二項対立の論理を超えて――」『論座』第104号、朝日新聞社、2004年1月。 △本文に戻る△
(10) 月刊誌『こぺる』は、京都部落史研究所所報であったが、1992年5月、173号をもって廃刊した。1993年4月より、こぺる刊行会編集・発行として復刊した。復刊後の編集責任は藤田敬一。京都部落史研究所は2000年6月に閉鎖し、同年7月、京都部落問題研究資料センターとして再出発した。△本文に戻る△
(11) 『同和はこわい考』にたいする反響をまとめたものが、こぺる編集部(編)『同和はこわい考を読む』阿吽社、1988年8月。その後の月刊誌『こぺる』誌上の論説を採録するなどした関連書に、こぺる編集部(編)『部落の過去・現在・そして…』阿吽社、1991年7月。藤田敬一(編)『被差別の陰の貌』阿吽社、1994年9月。なお、『同和はこわい考/通信』の近刊は、次の2つのウェブサイトで読むことができる。「藤田敬一ホームページ」、「『同和はこわい考』通信インターネット版」 △本文に戻る△
(12) 大阪府『同和問題の解決に向けた実態等調査報告書(生活実態調査・市民意識調査・同和地区内意識調査)』および『同和問題の解決に向けた実態等調査委員会委員分析報告書(生活実態調査・市民意識調査・同和地区内意識調査)』大阪府企画調査部人権室、2001年3月。この2000年大阪府実態調査の背景には、時限立法であった「同和対策事業特別措置法」(1969年)を継承した「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(地対財特法)」が、1997年3月に期限切れ後の経過措置として一部延長されていたが、2002年3月に完全失効すること、そしてこれをもって同和対策事業は法的根拠を喪失することが、すでに政府方針化されており、その成果と課題とを明らかにすることが求められていたという社会的要請があった。なお、報告書の一部は、大阪府ウェブサイト上でも公開されている。URL: http://www.pref.osaka.jp/jinken/measure/ △本文に戻る△
(13) 野口道彦『部落問題のパラダイム転換』明石書店、2000年4月。△本文に戻る△
(14) 例えば、大阪では、同和地区住民の38.1%が「自分は同和地区出身者ではない」と考えており、そのうち71.9%の出生地が同和地区ではない。前掲、大阪府『同和問題の解決に向けた実態等調査報告書(生活実態調査)』、23頁。なお、筆者はウェブ公開されている版を参照した。 △本文に戻る△
(15) 石元清英「あまりにも一面的な部落観」朝治武/灘本昌久/畑中敏之(編)『脱常識の部落問題』かもがわ出版、1998年5月。 △本文に戻る△
(16) 『現代思想』第27巻第2号「特集=部落民とは誰か」、青土社、1999年2月。 △本文に戻る△
(17) 部落解放・人権研究所(編)『部落の21家族――ライフヒストリーから見る生活の変化と課題――』部落解放・人権研究所、2001年5月。 △本文に戻る△
(18) 松下一世『18人の若者たちが語る部落のアイデンティティ』解放出版社、2002年10月。 △本文に戻る△
(19)なお、部落民のアイデンティティ形成やエスノグラフィをめぐっては、近年、この外にもいくつかの個別論文が提出されているが、ここではその一つ一つには言及しない。小文の性格上、それらへの網羅的な論評が必要であるとは考えなかったためである。ただし、金泰泳による整理は、社会学の立場からは状況がどう語られるのかという一つの参考になるかもしれない。金泰泳「部落問題におけるアイデンティティの議論について――本質主義と非本質主義のジレンマ――」『相愛大学研究論集』第17巻、2001年3月。
(20) 角岡伸彦『被差別部落の青春』講談社、1999年10月。なお、文庫版が2003年7月に講談社文庫から発行された。 △本文に戻る△
(21) 管見の限りでは、本書に関するまとまった書評は、今のところ次のものが確認できるのみである。住田一郎「『INTERVIEW「部落出身」――12人の今、そしてここから――』とカムアウトについて」『こぺる』第126号、2003年9月。住田の書評は、これまで部落解放運動の中で否定的に言及されることの多かった『破戒』を、カムアウトの物語として再評価し、部落解放運動は本当に瀬川丑松を乗り越えているのかと問題提起する。そして、本書の語り手たちの多くが「部落問題という枠にとらわれない視野の広さ」を持ち、「部落をマイナスイメージとして捉えていない」などと評価し、新たな方向性を示す存在として歓迎する。住田のこの読みは、彼の持論、すなわち部落民からの積極的な名乗りによって部落を顕在化すべきという立場に引きつけた論である。書評中の、部落問題をめぐる現状にたいする批判の内容には首肯するものもあるが、それは住田の同世代に向けられたものではないだろうか。1947年生まれの住田は、本書の語り手たちの親世代にあたる。ジェネレーション・ギャップという言葉で片付けたくはないが、彼の書評は本書の語り手たちとの対話としては成り立っていないのではないか、と筆者は思う。 △本文に戻る△
(22) いうまでもなく、コミュニケーションとは、声、表情、身振りなどを動員して行なわれるものである。どんな言葉がつかわれたとしても、満たされた思いになることもまた、ある。たとえば、石牟礼道子が『常世の船を漕ぎて』に寄せた序文において、「舟の上にあった、あのゆたかな寡黙さが、人々の表情に溢れていた。常世の舟はそういう気分に包まれて着岸しようとしていた。」と書いているような。緒方正人(語り)/辻信一(構成)『常世の船を漕ぎて――水俣病私史――』世織書房、1996年4月。 △本文に戻る△
(23) 部落民宣言とは、公衆の面前におけるカミングアウトである。その多くは、学校教育現場で、ホームルームや全校集会などで行なわれる。在日朝鮮人・中国人生徒の本名宣言とあわせて、立場宣言/立場性宣言と呼ぶこともある。 △本文に戻る△
(24)川口泰司は、解放出版社ウェブサイトのなかの連載「ハートで挑戦、自己解放の道」で、自らの生い立ちを書き綴っている。
(25) 石川のこの表現の背景として、彼女が松原で生まれ育ってきたことを考慮に入れるべきであろう。彼女が子どもだった当時、松原をはじめ、大阪における解放教育(「同和」教育)や解放子ども会活動では、部落民宣言を中核に据えた取り組みが活発に展開されていた。彼女もおそらく、運動から求められるような流れの中で、部落民宣言をしてきたのであろう。そうした体験をくぐりぬけてきた結果、部落に生まれたか否かでなく「指針になるものが共有できる」運動のあり方を、彼女は思い描いている。運動イメージについては、筆者の考えも対立するとは思わない。なお、インタビュー中で言及されている石川の研究については、次を参照。石川結加「アイデンティティと差別・偏見」(1)〜(6)『ヒューマンライツ』第147、148、150、152、156、158号、部落解放・人権研究所、2000年6月〜2001年5月。 △本文に戻る△
(ひろおか・きよのぶ 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)