在韓日本人女性

朝鮮を植民地支配した日本は、「皇民化」という名でさまざまな同化政策を行った。その一つが「内鮮結婚」である。政府が、日本人と朝鮮人の結婚を奨励したのだ。

「内鮮結婚」の象徴が、1920年に行われた日本の皇族・梨元宮方子(なしもとのみや・まさこ)さんと朝鮮李王朝最後の皇太子・李垠(イ・ウン)殿下との結婚である。方子さんは自分の婚約を新聞記事で知った。ソウル市の近郊に二人の墓がある。(撮影地=韓国・南楊州市)
友野チエさんと夫の金丙洙(キム・ピョンス)さん。「1946年4月に夫について韓国へ来ました。言葉はわからないし、食べ物が辛くて苦労しました」と友野さんは語る。韓国には現在、朝鮮人の夫と結婚した日本人女性約1000人が各地で暮す。(撮影地=韓国・全羅南道海南郡)

「反日政策をとった李承晩(イ・スンマン)大統領の時には、外出することもあまりできませんでした」と高垣知子さんは語る。多くの日本人女性たちは、日本人であることを隠しながら暮らした。(撮影地=韓国・木浦市)

広田キクさんは日本語もほとんど忘れてしまった。日本の肉親との連絡は途絶え、日本へ里帰りをしたこともない。(撮影地=韓国・光州市)

「内鮮結婚」して韓国で暮す日本人女性たちの多くは「芙蓉会」に参加している。韓国各地の支部での月1回の集まりでは、日本の歌と踊りが次々と出る。(撮影地=韓国・大邱市)

韓国の古都・慶州(キョンジュ)には、身寄りのない日本人女性のための施設「慶州ナザレ園」がある。韓国で暮す日本人女性のほとんどは永住帰国を断念しており、「ナザレ園」を最後の拠りどころとしている。(撮影地=韓国・慶州市)
山崎繁栄さんは赤ん坊の時に失明した。植民地下の朝鮮で金南鶴(キム・ナムハク)さんと朝鮮式の結婚式をし、何一つ不便のない生活をした。ところが朝鮮戦争で夫が死亡。山に掘られた穴で暮していたところを救出され、「ナザレ園」に入った。子どもの頃に習ったハーモニカで日本の歌を吹くのを楽しみにしていたが、1994年に亡くなった。(撮影地=韓国・慶州市)

二宮花さんは小学校4年生の時に奉公に出され、15歳で結婚してからも苦労した。「ナザレ園」に入ってから、すっかり忘れていた日本語を思い出した。「私の今までの人生は何だったんだろう」と語った。(撮影地=韓国・慶州市)

「ナザレ園」の1日は早朝のお祈りから始まる。賛美歌を歌いながら体を動かす。理事長の金龍成(キム・ヨンソン)さんは、朝鮮独立運動をしていた父親を日本の憲兵に殺された。だがクリスチャンの金さんは、悲惨な状態に置かれていた日本人女性のために「ナザレ園」を建設した。

いつも元気な岩崎みつえさん。1945年12月に玄界灘を越え、夫の故郷である扶餘(プヨ)へ来た。「日本へ帰ってしまえ!」と夫の妹にいつも怒鳴られながら、体の不自由なその妹の一切の身の回りの世話をしてきた。「死のうと思い、子どもを背負って水に入ろうとしたことが何回もありました。『ナザレ園』へ来てからは、もう楽しくて」。(撮影地=韓国・慶州市)

伯耆田喜久江(ほうきだ・きくえ)さんが「ナザレ園」へ来たのは1973年。一緒に入った人たちはみんな亡くなってしまった。すっかり「我が家」となった「ナザレ園」で穏やかな日々を楽しんでいる。日本舞踊や大正琴も上手だ。日本には、里帰りもしたくないという。(撮影地=韓国・慶州市)

慶州の春は桜の花で埋め尽くされる。「ナザレ園」からも花見に行く。日本が朝鮮を植民地支配した結果、多くの日本人女性が韓国で暮らすことになり、もはや日本への帰国は困難になった。「日本」を心の拠りどころにしながら暮す日本人女性たちは次々と亡くなっている。(撮影地=韓国・慶州市)


写真パネルイルボン・ハルモニ─在韓日本女性の戦後を貸し出ししています

<仕様>木製パネル/37×55a白黒50枚・カラー1枚
梱包木箱/68×42×110a

<問い合わせ・申し込み先> itoh-takashi@nifty.com


WEB写真展「戦争と日本」へ戻る