《ふりかけ通信》第3号☆1987年8月


アベノスキャンダルって知ってますか?  

 大阪の阿倍野にあるノーパン喫茶のはしりで、それはそれはえげつないショーをやるそうです。なぜ知ってるかって? それは、去年この家から出ていって貰った男が行ったから。それを人に自慢げに話す――東南アジアヘのセックスツアーを、あるいは、戦争中の朝鮮や中国での行為を武勇伝にする男たちのように――ので、巡り巡って私の耳に入ってきました。
その男は私を「PTAのババアとおんなじだ。あーゆうところで働いてる女をバカにしてるんだろう。俺は、あーゆう女の人が好きだ。あの人たちは、風営法(風俗営業取締法)と闘ってるんだ。おまえはお高くとまって、セックスを下品なものと思っているから、とがめるんだ。あんたも行けばいい。女の人だって来てるよ。だいたい、そんなこと(女の性を金で買った)を言うほうがおかしいんだよ」と、自分の行為を恥じることなく、罵ったのです。

それ以前にも、近所の飲み屋の旅行会で、誰かの部屋でやっていたポルノビデオに、ポカンと口を開けたかぶりつきの姿を廊下から見て、止めてほしいと言ったのですが、やはり「(その部屋には)女の人もいたし、あんたも一緒に見ればいいんだ。ポルノビデオは男も出てくるし、女だけが売り物になっているわけじゃない。男だって大きいのが売れるんだ。みんなで見て楽しめばいいんだよ」ってなことがありました。人を見る目のなさは、お恥ずかしいしだいですが、こーゆう男と一緒に生活はできません。
表現の自由を振りかざして、ポルノを擁護し、ポルノ批判は性の解放を抑圧するものだなどといいながら、ポルノビデオを涎を垂らさんばかりに見ている姿を、どう思いますか?  

商品化された性の氾濫にみんな感覚がマヒしているのでしょうか。とりわけ、妻たちの夫に対する甘さは、諸外国の女性から不思議がられています。  
また、市民運動などのグループでは、その運動に参加している事を理由に、男の性的ハレンチ行為は、大目に見られ、誰も問うことをしません。人権を置き忘れた表現の自由とか、性の解放とかの言葉だけがファッションとして飛びかい、ハレンチ男の存在を許しているのです。これほど男にとって都合の良い場所はないでしょう。運動という大義名分のおかげで、女たちは、男との同席を警戒しませんし、実態の伴わない平等思想によって、男が責められることはめったにありません。

男女関係や家族制度に、社会変革の根幹をなす重大な内容が孕まれているのに、あまり問題にされません。誰も自分の坐っている座布団を、自分で引っ張ろうとはしないからです。

性の商品化に関しては、おかしな現象がいろいろ起こります。障害者差別をなくすという雑誌は、いわゆる健常者と同じように町に出るのだと、ソープランドへ行った障害者の「一発五千円で二発やった」行為を、“武勇伝”とタイトルをつけて載せています。思わず雑誌を部屋の隅に投げつけました。この社会の性の貧しさがそのままあてはめられたような、性をめぐる差別と反差別の問題に関しては、次号で、具体的な例とともに考えてみます。 


前に戻る
オーロラ自由アトリエのタイトルページへ戻る