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イラク~湾岸戦争~イラク戦争空爆下のバグダッド目次

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あなたで  人目です。

緊急報告:空爆下のバグダッドにて・伊藤政子

(その3)日本からの電話取材・第2次攻撃
1998年17日(木)-18日(金)

 午後フィルムを取りに一度ホテルへ戻ってびっくり。部屋に日本から電話がかかってきたのです。日本の家族にさえ私は無事だと連絡できずにいるのに、読売新聞からでした。話している最中にホテルのオペレーターが「日本から別の電話が入っている」と切り替えます。都合6本の電話が各新聞社やTV局から相次ぎ、2時間も話し続けました。

 全員が「市民たちは慌てふためいて買い占めなどに走っているのか」と質問します。9年目に入ろうとする経済制裁下での市民の暮らしのどこに、買い占めなどできる経済的な余裕があるというのでしょう。市場には以前より物があるようにさえ見えます。誰も買うことなどできないのですから。しかも予告もなかった突然の攻撃です。お金を借り集めたりする時間的な余裕さえありませんでした。

 諦めきっている人々は「(この8年に)くり返され続けてきたことと同じ(状況)。誰だって一度は死ぬのなら、経済制裁でジワジワ殺されるより、いっそ爆弾で一気に死ぬほうがまだ楽かも知れない」と諦めきって「私たちに答えられないこと聞かないで」と重い口を開きます。「戦争ー制裁ー戦争ー制裁ー戦争ー制裁ー戦争…、8年間ずっと続いている戦争だもの」。

 学校は今日から臨時休校になりました。思いがけず休みになった子どもたちは、こぞって街へくり出します。少しでも余計に稼ぐために…。官庁も、民間会社も、商店も、通常業務を行っています。どこに店を閉める経済的な余裕があるというのでしょう。せめて普通の生活リズムを崩さずに暮らすことだけが、庶民のささやかな抵抗のように私には感じられます。

第2次攻撃

12月17日(木)夜半~18日(金)朝

 今夜は昨日とは違う様相です。10:00p.m. 飛行機の編隊が見え、いきなり激しい空爆を始めました。ちょうど私の部屋のベランダの前方、ティグリス川の対岸に大統領官邸の一つがあります。そこをくり返し攻撃するため、爆発音に伴う振動でホテル中が震えます。激しい爆風と煙が窓から部屋の中まで殴りつけるように吹きつけます。

 私は、何も持たずに部屋を飛び出しました。ロビーに降りるとマネージャーが「下へ、下へ」と手を振り回して叫んでいます。宿泊客たちが走っている後を追うと、そこは地下シェルターでした。

 私は、他の客たちと暖房もないホテルの地下に避難して、じっと攻撃のとだえるのを待っていました。そこには、100人以上もの宿泊客がいたでしょうか。隣国ヨルダンからの客、他のアラブ諸国からのビジネスマン、クルドのサッカーチームや今日結婚式をあげたばかりのイラク人カップルもいます。ラマダーンのために地方からバグダッドに出てきた家族もいます。コンクリートの厚い壁にさえぎられても、ホテルが揺れているのや、爆発音は伝わってきます。子どもたちは母親の胸に顔を埋め、5台しかないベッドのシーツにくるまり、鳴き声だけが聞こえてきます。子どもだけでなく、女性客たちも震え、泣き続けています。皆うつむきがちにすわり、ただ、じっと耐えています。

 私は 4時間ほどそこにいながら湾岸戦争中のことを考えていました。ホテルだけてなく、病院など大きな建物の地下には緊急避難用の地下シェルターがあります。以前イラクの人たちに湾岸戦争中のことを聞いていたときに、医者たちが「毎日、患者たちを病院の地下へ集め避難していた。みんな泣き叫ぶのをなだめるのに必死で自分が怖がっている暇はなかった」「電気設備もなく、酸素吸入もできないシェルターの中で何時間も過ごしていたため、重症患者や保育器に入っていた新生児たちの多数が命を落とした」と語っていました。「ああ、こういう思いを何十日も続けていたのだ」と思いました。どんなに怖かったことでしょう。

 また、私の通い続けている白血病病棟の子どもたちのことも心配し続けていました。

「あの子たちも病院の地下に避難しているのだろうか」「さぞ怖がっているに違いない」「この寒い夜、電気設備もなく、危篤の子どもたちはどうなっているのだろう」あの子たちについていてあげられない私に、悔しさをかみしめながら、非道な攻撃に怒りが倍加します。

 第2次爆撃は、17日10:00p.m. 頃から18日の2:00a.m.頃まで断続的に続きました。明かりの列が編隊を組んで動くのが見えました。どれもサウジアラビアの方向から向かってきました。英国が戦闘機をイラクに向けて飛び立たせたと聞きましたから、それだったのでしょうか。さらに3:00a.m.から4:00a.m.頃も激しい爆撃がありました。大きな炎が上がっています。

 非常識な日本の報道陣の質問は、爆撃でろくに眠る時間も取れないのに、波状攻撃の合間をみてまどろむと、時差も考えず夜中の3時、4時に日本から電話をしてきて「民家が爆撃されたというのは、イラク政府のプロパガンダだろう」などと言うのです。

 私から「爆撃が激しくて、とても怖い」というコメントを引き出したいのでしょう。怖がっている余裕なんてあるものですか!今、私が恐れているのは、イラクの子どもたちが、特に病気の子どもたちが、これ以上苦しみ、死ぬことだけです。

 この攻撃による被害は陰惨をきわめています。まず、バグダッド内のメディカルシティという国内の医療関連施設を集めた街にある、900 床のベッド数を誇る国内一のサダム医科大学付属病院が近くに落とされた爆弾のあおりで機能不能になりました。病院長や医師たちの話では、大きな3つの破片がすごい勢いで病院を直撃し、爆風のあおりで病院が一瞬宙に浮き上がり、次の瞬間ズシンと地に落ちたそうです。病室の窓ガラスはすべて割れ、電気設備も水道設備も壊滅状態で、ひしゃげたシステムが垂れ下がっています。ショックで3人の患者がその場で息を引き取ったそうです。すぐに患者たちを地下シェルターに避難させ、一晩中何の設備もないところで輸血も点滴も酸素吸入もできず過ごさせたため、患者たちの病状は悪化し、特に重症者たちの状態は深刻だとのことです。この病院には第1次攻撃による怪我人も、運びこまれていました。

 夜が明けて攻撃が中断したところで駆けつけた私は、患者たちを他病院に転送するので大わらわだった院長に「日本政府は真っ先にこの攻撃に賛成したのだ。日本人としてどう思うのか。こんなことが人道上許されるのか」と食ってかかられました。めちゃくちゃになった病院の入口には、イラク有数の芸術家の手による美しいリリーフがそれだけは無傷で残っていました。

 この院長だけではありません。イラクの人々は、口々に私に言います。「僕たちが日本に何をしたというの!」

「何故(平和を愛する)日本人が、国際世論に反してまで私たちをこんな目にあわせるの!」ただでも惨状を目にして辛い思いでいる私に、人々は日本人としての責任を突きつけます。

 私が毎日通っている、白血病病棟のあるマンスール小児病院は、この病院の隣に建っています。子どもたちは、

激しい振動と爆撃音におびえ、一晩中泣き叫んでいたそうです。皆すっかり衰弱し、高熱を出している子どももいます。「また、爆撃が始まって怖くなったら、私のことを考えて。私はあなたたちのことを思い続けているから」とくり返し話して、彼らに笑顔が戻るまでに何時間を費やしたことでしょうか。重体の子どもたちのいた個室の前には酸素ボンベが立っているだけで、すべて空っぽでした。私は、重体だった彼らの生死を確かめることなど怖くてできませんでした。

 同じメディカルシティ内にある厚生省も、窓ガラスが割れ、アルミニウムの桟がひしゃげ、天井が落ちています。直撃でなくとも大病院を壊滅状態に追い込む強力な威力の攻撃でした。

 その他にも、別の地区では私立アル・リカ産婦人科病院が爆撃を受けました。バグダッド大学の語学学部も、大学近くの爆撃のあおりで機能不能です。薬学部、化学部も痛手を受けました。国立の自然歴史博物館も、またカダミーヤにある綿花の工場も爆撃を受けました。アブ・グレイブという地区では小さな個人経営の電池工場や数多くの民家や商店が爆撃を受けたと聞きました。アブ・グレイブには、部分解除を含めイラクに入る医薬品のすべてを扱う大きな税関があります。

 国連の人道物資分配監視などの職員たちも全員、攻撃の激しさにヨルダンに脱出したそうです。

 今日の昼に、突然ヨルダン政府がイラク側国境を閉鎖しました。つまり普通にはイラクから外に出ることができなくなりました。外国人は例外でイラクから出て行けますが、イラク人運転手やイラクナンバーのタクシーではヨルダン国境を通過できなくなりました。私たちがイラクを出る場合は、ヨルダン人運転手のヨルダンナンバー

の車がイラクに入ってくるのをつかまえて出れば良いのですが、通常私が GMCという大型タクシーを借り切るには 100ドル程度で交渉していたのに、今は 400~500ドルになっています。イラクのタクシー会社が並んでいる地区では、仕事ができなくなったイラク人運転手たちが一日中なす術もなく座り込んで時間をつぶしています。

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