竹迫牧師の通信説教
『エリヤは既に来た』
マルコによる福音書  第9章1−13による説教
1998年12月6日
浪岡伝道所礼拝にて
 一同が山を下りるとき、イエスは、「ひとの子が死者の中から復活するまでは、 今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの 言葉を心にとめて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 (9−10)

 イエスの姿が真っ白に変わり、エリヤとモーセとがイエスと語り合った。その出来事をペトロ・ヤコブ・ヨハネの3人が目撃した。いわゆる「山上の変貌」と呼ばれる場面である。ペトロは混乱しながらも感激の余り「三つの小屋を建てましょう」と提案する。その時「これはわたしの愛する子。これに聞け(イエスの命令に従え)」との神の声が響き渡る。そして、あとにただ1人残ったイエスは、山を下りつつ弟子達に「死者の中から復活するまでは、このことをだれにも話すな」という沈黙の命令を与えるのである。 ペトロがイエスの姿の変貌に対して熱狂な喜びを感じたのは、ペトロがかねてから願っていた「神に選ばれた勝利者=イエス」を指し示す出来事に思われたからである。「小屋を建てる」という唐突な提案は、その栄光の中にとどまろう、というペトロの願望を反映したものに他ならない。ペトロは以前にもイエスから沈黙命令を受け取っているが、それは「イエスの勝利」とは「敗北者としての死」を経てもたらされるものであって、ペトロはそれを受け入れることができないだろうことが明白だったからである(実際に、十字架の場面ではペトロはイエスを見捨てて逃亡する)。

 「イエスは救い主である」という信仰告白は、言い表している内容自体が真実を言い当てた正当なものであったとしても、「敗北者としての死」を経てもたらされることを欠いては空虚なものでしかない。そして、「敗北者としての死」へと突進するイエスに従う決意なしに語られる告白は、空虚であるばかりか有害ですらある。イエスは、「自分の十字架を背負って」イエスに従うという決意を固めていない弟子たちの様子を見て取り、自分の死と復活が(少なくとも「敗北者としての死」が)実現するまで、「イエスがキリスト(救い主)である」との告白を禁じるのである。

 だから弟子たちは、「死者の中から復活するとはどういうことか」と論じ合わずにはいられなかった。彼らにとって「イエスの勝利」とは、数々の反対者を蹴散らすことと、圧倒的な軍事力を背景としてイスラエルを支配するローマ帝国を打倒すること以外にはあり得なかったからである。復活ということがありうるか否か以前に、そもそもなぜイエスが死ぬのか。リーダーであるイエスが死んでしまっては、勝利など望むべくもないではないか。

 そこで弟子たちは、「なぜ律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」とイエスに質問する。仮に、勝利の実現が、イエスの言う通り「死と復活」を通じてもたらされるものだとして、しかし律法学者たちが言うように「まだエリヤが来ていない」のだとするなら、イエスの死はまだ起こらないのではないか。弟子たちは、本当はそう訊きたかったのである。つい先刻、イエスがエリヤやモーセと共に語り合っていたのを目撃したにも関わらず。

 「エリヤ」とは、救い主の登場に先だって現れると信じられていた預言者の名前である。

見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。
(マラキ3:23-24)。

「エリヤ」は、神の大いなる審判の日が恐ろしい審きとならないため、地上のすべてを神の意志にかなうようにするためにやってくると言われていた。「救い主」出現の先駆者として、神の御心に逆らっているこの世界に現れるのがエリヤだと考えられていたのである。しかしここでイエスは、処刑されてしまった「洗礼者ヨハネ」(マルコ6:14-29)をイメージして語っているようである。そして、このマルコ福音書は、始めから洗礼者ヨハネについてマラキ書やイザヤ書からの引用を通じて、イエスの先駆者であることを明言している。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶものの声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:2‐3)。イザヤ書に注目するとき、そこには「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。」という言葉が続いている(イザヤ40:4‐5)。権力者の不正を糾して逮捕される洗礼者ヨハネは、まさしく権力や富によって「高い」「低い」に隔てられた人々の世界を平坦にすることを目指したものであった。そして、ほとんど権力者の気まぐれとしか思えない事情で処刑されてしまう洗礼者ヨハネの運命は、確かに「十字架の救い主」イエスの先駆者にふさわしいものであった。

 洗礼者ヨハネを「先駆者エリヤ」と捉えたとき、そしてそのヨハネがヘロデ王の不正行為を批判したために処刑されたのを見るとき、「地上の全てを神のみ心にかなうように戻す」という先駆者の使命の重大さと困難さを思わずにいられない。それはまさしく、イエスの再臨に希望を繋ぐよう宣べ伝えることを使命とする、我々教会に集う者と共通していると言わなければならない事柄である。様々な差別の根強い、そして不正や悲惨の跋扈するこの世を、神の御心にかなうように「平ら」に戻し、「まっすぐな道」を備える働きは、それに向かう者を引き裂き、矛盾の只中に投げ込み、立ち上がれないほどに打ちのめさずには置かないのである。

 「宗教」というものに、「願望達成のための神頼み」というイメージを抱く人は多い。実際にキリスト教徒に限っても、そのような信じ方をしていると言わざるを得ない態度の人を見かけることはしばしばある。それらの人々にとって「勝利」とは、真っ白に輝く姿で、権威ある伝説の人物と対等に語り合い、そこにとどまることを意味することが多い。そうした人々は、社会的な地位が高い人が教会に集まり、また教会から輩出されることを求める。数の多さを誇り、実力者との人脈を大切に考える。その一方で、この社会において歓迎されない人々が教会を出入りすることを嫌い、時には露骨に排除したりする。表向きは寛大に迎えることがあっても、意にそぐわない行動を取り上げて眉をひそめ、「彼らさえいなければ…!」と心の中で呟くのである。

 そうした価値観が、イエスが否定し退けようとしたペトロたちのメシア観・勝利観であることを心の内に深く悟るものでありたい。イエスの勝利とは、むしろ世において誇られる様々な「勝利」の否定からはじまるのである。イエスが目指すのは、悪の力に苦しめられている人々の解放であるが、我々の大部分は既にその悪の力の一部分なのであることを悟りたい。教会に集う者たちもまた、その例外であるものは非常に少数である。

 キリストの誕生を祝おうとする我々は、もうそろそろ声高に語るべきではないのか。十字架の救い主の誕生を祝うクリスマスは、むしろ我らの大部分にとり「没落」や「さばき」を指し示す出来事である、ということを。そして、いまこの華やかな時期に、苦悩や悲惨の中にある者たちの中に、更にその端っこのみすぼらしい見捨てられた者の間に救い主が宿られた、ということを。そして、この世を憂い正義を貫こうと志すがゆえに、引き裂かれ悶えざるを得ないでいる人々にこそ、救い主誕生を告知する天使の歌声が響いていることを。

 もし我々が、苦悩の只中にないのなら、悩み呻く人々と共にないのなら、叫びつつ苦闘する人々共にないのなら、せめて我々は、そのことを悔い、「その人々共にあらせたまえ」と頭を垂れて祈る他はない。「十字架の救い主の先駆者となさせたまえ」と誓う他はない。

 それは、共に栄光を目指すよりはむしろ没落を志向し、共に豊かさに与ろうとするよりはむしろ貧しさを分かち合うことを目指すだろう。その勇気を持ち得ない自分であることを悔いるものでありたい。そこを目指せない我らであることを悔やむ教会でありたい。

 願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

クリスマスおめでとうございます。11月29日分の説教からストップしておりましたこの通信ですが、また再開させていただきます。

11月29日の礼拝説教はお休みさせていただき、宮城県にある宮城野愛泉教会のお招きを受けて、特別伝道礼拝の説教とカルト問題に関する講演をしてきました(そのときの礼拝説教は、またいずれ時期を見て公開させていただきます)。その直後、東奥義塾高校の学期末採点に突入し、試験とレポートの評価に追われました。その最中に、連れ合いの竹佐古真希が2つのコンサートに出演したので、運転手役・もしくは野次馬役として、秋田や東京に試験の答案やレポートの束を抱えて出かけておりました。

それらの怒涛の2週間を経て、ようやくかねてからの懸案だった「浪岡伝道所の電話回線のデジタル化」に手をつけたのでした。これまで浪岡伝道所には、教会のものとわたしの物の2本の電話回線がありましたが、それを一本化してコストダウンを図りたいと考えてきたのですが、通常の電話機のほか、FAXやパソコンが同時に使える環境でないと不便で困るのです。デジタル回線に切りかえることが出来たら、(NTTのCMでおなじみの通り)1本の回線でも電話による通話やパソコン通信を同時に行うことが可能になります。ただ、そのために若干の周辺機器が必要になり、その財源を確保することが困難でしたので、のびのびのままだったのでした。

このたびの、宮城野愛泉教会での働きや同居人のコンサート出演などの報酬が重なり、格安の電話回線を探す知人の出現もあって、一気にデジタル化を実現してしまったのでありました。デジタル回線の導入に先立って、浪岡伝道所にある複数台のパソコンをネットワーク化しておく必要があり、その調整で少々苦労させられましたが、パソコンに詳しい友人のサポートに支えられて、何とか完成にこぎつけました。電話もFAXも番号を変更することなく、費用も思ったほどにはかからずに予算内でおさめることができました。

ネットワーク化によってパソコン自体が更に使いやすくなったのはもちろんですが、ことにデジタル回線の威力はすさまじく、電話の音声もクリアになった上に、インターネットへのアクセスが猛烈に速くなりました。デジタル回線に接続するための周辺機器や工事費がちょっと高いなあと思っていましたが、これからは通信コストそのものが全体的にかなり安くなりそうです(基本料金も1回線分は節約できるわけだし)。長期的にはやっぱりお得かなあ、と考えています。

というわけで、一足早いクリスマスプレゼントに大感激しているのであります。

良きクリスマスと新年が、皆様にも訪れますように。

(工事の間にたまりまくった電子メールの返信を書き続けるTAKE)