竹迫牧師の通信説教
『沈黙が破られる日』
マルコによる福音書 第8章22−30による説教
1998年11月15日
浪岡伝道所礼拝にて

ペトロが答えた。「あなたはメシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないように、と弟子たちを戒められた。(29−30)

 イエスたち一行は、ベトサイダに到着した。6:45(湖の上を歩くイエスを、船の上の弟子たちが幽霊だと誤認した出来事)の場面でイエスが目指していたのが、このベトサイダである。あの時は行き先を変更してゲネサレトに辿りついた一行だったが、その後、イエスたちを非難するファリサイ派の人々との論争(7:1-23)、ティルス地方におけるギリシャ人女性の娘に対する癒し(7:24-30)、デカポリス地方近辺のガリラヤ湖畔における「耳が聞こえず舌の回らない人」への癒しと4千人への給食(7:31-8:21)などの出来事を経て、ようやく当初の目的地であったベトサイダに到着したのであった。イエスは弟子たちの弱さに心を留め、ベトサイダからゲネサレトへと目的地を変更したが、弟子たちの歩みに歩調を合わせながらも、当初の目的地であったベトサイダを諦めはしなかったのである。

 イエスのもとへ、ひとりの「盲人」が連れて来られる。イエスはその人を癒すのだが、ここではなぜか他の癒しの場面とは異なり、癒しの過程が段階的に描かれる。ひとりでは歩くことすら難しかったこの人が、イエスによって連れ出され、最初は「人が木のように見える」が、次には何でもはっきり見えるようになる。このような描かれ方はこれまで例がなかった。癒される人は即癒されてきたが、今回はだんだんに癒される。

 このエピソードでも、また「視覚障害者をダシにしてイエスの超越性を語ろうとしている」との批判が成立し得るが、そのことを心に留めながら、それでもなお考えさせられることがある。

 以前、統一協会からの脱会を勧める話し合いのなかで、ある女性が統一協会入信の動機を「世界が見えるようになったから」と語るのを聞いたことがある(実際には、統一協会は勧誘の時点で団体名を明らかにしないので、統一協会に強く反対する家族への説得の言葉として語られたものだろうことを特に付記する)。高校生たちへの小論文指導をしていても感じることなのだが、それまで持っていた断片的な知識がひとつのものとして繋がっているのを発見したとき、「よく見えなかったものがはっきりと見えるようになった」という感覚を覚えることがあるのは確かである。

 この「盲人」に対する癒しが段階的に行われる様子と、「目が見えない」という体験をしたことがない人の方が多い我々読者たちの「イエスがはっきり見える」に至る信仰的体験の段階とが重ねられていると考えることは可能に思う。つまり「イエスが救い主であることが、イエスとの出会いを出発として、だんだんにはっきりと見えるようになる」ということが、ここで言われているのだろう。最初は誰かに手を引かれてイエスと出会うのかもしれない。そして、はじめのうちはおぼろげにしか見えないこともあるかもしれない。しかし、やがては「イエスは救い主である」とはっきりと悟る日が与えられる、と伝えようとしているのである。

 しかし、それではなぜ「この村に入ってはいけない」(26)と、この人にイエスは言うのだろうか。最早ひとりでも歩けるようになったその人に、イエスは「村に入るな」と命じるのである。これまでこの人が依存していた人々への共同体に戻らないように(今までのように「依存する生活」に戻らないように)との指示なのだろうか。イエスはこの人にひとりで生きることを勧めているのだろうか。それともこの人は、最初から村の外に住んでいたのだろうか。

 直後に置かれた27-30のエピソードが「イエスのことを誰にも話さないように」という弟子たちへの戒めで締めくくられている事との関連を見るとき、この癒された人に対して語られた「この村に入ってはいけない」という指示も、(これまでの癒しの場面で繰り返されてきたのと同様に)「イエスのことを誰にも話さないように」という指示が込められているものと考えられるのである。

 ベトサイダでの癒しの出来事を経てフィリポ・カイザリア地方へと向かう途中、イエスは弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と問う(27)。弟子たちは口々に、人々の評判を告げている。人々はイエスについて、「首をはねられてしまった洗礼者ヨハネが甦ったのだ」とも「メシア到来に先駆けて出現されると言われるエリヤだ」とも「そのほか聖書に出て来るような預言者のひとりだ」とも囁き合っていたらしい。イエスは続けて弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問う。ペトロが代表して「あなたは、メシアそのものです」と答える。しかしイエスは、自分が何者であるかを語らずに「そのことを誰にも話さないように」と戒め、このエピソードは終わっている。

 ペトロの答えた「あなたは、メシアです」という信仰の告白は、初期のころの教会に伝えられていた定式であると言う。マルコ福音書記者は、彼の所属していた教会の「信仰告白」を、物語の中で時間を遡らせ、ペトロの口を通して語らせている。それは、今日の我々に至るまで受け継がれてきた信仰の告白であり、それを直接イエスに告げることは、今日のキリスト者にも共通する願望であると言えるだろう。この告白そのものに内容上の問題は見出せない。そして我々は「イエスこそがメシアに他ならない」という福音書の結論をあらかじめ知っており、その上それを信じてもいるのである。にもかかわらず、物語の中のイエスはそれを「誰にも話さないように」と戒めているのである。そこには、たとえその内容が正しいとしても、それを語る「資格」を問題にする視点がある。ペトロは、イエスがメシアであることを正しく告白している。だが、イエスはそれを語ることをお許しにならない。「盲人」も、イエスが力ある業を行われたことを目撃させられている。しかしそれを語ることを、イエスはお許しにならない。イエスについて「彼こそがメシア」と語る「資格」が認められない。

 この戒めは、現代の我々にとっても有効なのだろうか。我々もまた、イエスのことを誰にも話さないように、と戒められるのだろうか。我々もまた「資格」を問題にされるのだろうか。

 我々の教団も信仰告白を持っている。しかし、教団の信仰告白は、特にこれまでの沖縄教区との関わりから、そして根源的には「戦後」のあゆみへの見なおしから「変革が必要だ」と指摘されて久しい。わたしもその意見に賛成している。戦後の歩みや沖縄教区との関わり以外の視点からも、教団の信仰告白には欠けが多い、ということを痛感させられているからである(問題は日本キリスト教団の信仰告白にとどまらない。「伝統的」な信仰告白文にも数多くの問題が存在する)。完成された信仰告白が教団のものとなる日まで「誰にも話さないように」と戒められることは、いかにもありそうなことだと感じている。

 我々個人も、それぞれの信仰を持っている。その信仰告白は、日々の歩みの中で、また祈りのうちに与えられる聖書のみことばとの出会いにより、いつでも厳しく問われ、変革を迫られている。「完全な信仰の成熟まで沈黙を守るように」と戒められることも、いかにもありそうなことである。

 しかしそういうことよりも、より重大だと思えるのは、教団全体の告白にしろ我々個人の告白にしろ、たとえそれが「正しい・完全な告白」であったとしても、「沈黙させられる」ことがあり得るのだ、という点である。

 いったいどのような「資格」が問われているか、ということの最終的な答えは、次週の説教まで祈りのうちに待ちたいと思う。ただ今日は、「誰にも話してはならない」というこの戒めが今日の我々に対して有効であったとしても、つまり我々の信仰告白がいかにも的外れであり告白することを戒められたとしても、そして「正しい告白」を持っていながらも、沈黙させられるとき、しかし同時に与えられている「希望」があるのだということを確認したい。それは、我々もまた「段階的に見えるようにされる」という、この癒しの物語に示されている「希望」である。

 「盲人」は、はじめは誰かに手を引かれ、そしてぼんやりと視界が開け、やがてはっきりと見えるようにされた。それを目撃したイエスの弟子たちも、はじめは示された目的地に直接に辿りつくことができない弱さを持っていたが、イエスに導かれて回り道を辿る間、幾つかの出来事を経て訓練され、当初の目的地まで連れてこられた。このどちらの場合も、イエスに向き合う人々が、徹底的に受身の立場に立たされていることに、大きな慰めを見る。我々は、弱くても、間違っていても、そして「資格」がなかったとしても、何より「間違い」がなく正しいにも関わらず不当な理由で沈黙させられるときにも、イエスによって導かれ続けており、正しい目的地に辿りつかされるということである。その間、イエスは我々に歩調を合わせ、我々を振り返り、時に厳しく戒めながらも決して見捨てることなく、我々を伴って歩んでくださるのである。

 今日は沖縄の知事選が行われる。そして、今週は沖縄教区との「合同のとらえなおし」を見つめて、教団の名称変更を問う総会が開催される。我々はまたも回り道を辿り、様々な訓練を受けなければならないかもしれない。既に人類は、様々な過ちから取り返しのつかない犠牲を払いつづけ、実に大きな回り道を辿ってきた。今なお我々は、その回り道を自ら延長することになるのかもしれない。そして、「正しい告白」を持っていながら沈黙させられる人々が現れるかもしれない。イエスによって沈黙させられるならともかく、「誤った告白」を持つ人々によって沈黙させられることすら起こるかもしれない。

 それでもなお、我々には「希望」がある! 沈黙が破られる日が、我々には必ず与えられる。イエスが手を取り、歩調を合わせ、我々を導いてくださる。この希望だけは、堅く心に刻み付けておきたい。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

説教中で触れた沖縄の知事選は、現職知事が敗れました。大変残念ですが、「経済封鎖」とも言いうる沖縄経済の現状では、致し方ない選択というべきなのかもしれません(その意味では、今回当選した「沖縄経済界からの立候補者」の責任は、知事就任以前からとりわけ大きいものがあると言うべきかもしれません)。

さて、これをお届けする今日(1998年11月17日)から、日本キリスト教団の総会が行われます。沖縄キリスト教団との合同の実質化を目指して「日本合同キリスト教団」という名称に変更しようという議案が審議されます。すでに、「議案を無視して進行するらしい」という聞き捨てならない噂も流れていますが、沖縄の重荷を共に負う教団であって欲しいと願うわたしは名称変更に賛成の立場です。

各地で名称変更を成功させようとの運動が展開されていますが、インターネット上での試みも始められています。

同居人の竹佐古真希もその動きに協力しており、web上での選挙にリンクしたページを用意しています。URLは以下の通り。
http://member.nifty.ne.jp/Maki-Takesako/kyodan.htm
他の協力者たちのページにもリンクしていますので、ぜひ一度ご覧下さい。

「沖縄をどうするか」は、日本キリスト教団のみならず全日本的課題でありますが、「希望」を見失うことなく励みたいものです。

(ようやくカゼから脱したTAKE)

ファクス 0172-62-8506
電 話 0172-62-5763
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ホームページ http://member.nifty.ne.jp/namctakep/index.htm(日々更新中!)