竹迫牧師の通信説教
『しるしは与えられない』
マルコによる福音書 第8章1−21による説教
1998年11月8日
浪岡伝道所礼拝にて

「7つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」というと、イエスは「まだ悟らないのか」と言われた。(20−21)

またもやパンの奇跡が語られる。遠くから来た者も含まれるおよそ四千人の群衆は、三日もイエスと一緒にいるのに、食べるものを持っていなかった。イエスは彼らを見て、弟子たちに「かわいそうだ(原意:はらわたがちぎれるようだ)」(2)と問題提起する。が、7つのパンしか持っていなかった弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」(4)と絶望している。イエスは、この7つのパンを裂いて弟子たちに渡し、群衆に配らせた。人々はそれを食べて満腹し、残ったパン屑を集めると七つの籠に一杯になった。

6章で読んだ「5つのパンで五千人を満腹させた」という記事と、殆ど同じである。なぜ同じようなエピソードが2回も語られるのだろうか。しかしより厳密に見るならば、6章の記事とは幾つかの違いがあることに気付く。まずは、今回のエピソードの舞台となっているのがデカポリス地方である点に注意したい。つまり、「救い主が与えられる」という信仰を持っていないはずの非ユダヤ人(異邦人)に対しても、イエスはパンの配給を行っているのである。同じ信仰に生きる同胞の間にさえも差別と序列を設けようとする当時の指導者たちと鋭く対立したイエスは、しかしその一方でギリシア人女性に向かって「子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」とも語っており、ユダヤ人の救いを優先する態度を捨ててはいなかった。が、この女性の娘から悪霊を追放したのを皮切りに、デカポリス地方を巡回して癒しを行ってもいたのであった。ユダヤにおいても非ユダヤにおいても、「飼う者のいない羊のようなありさま」のなかに放置されている人々が多くあり、イエスはそれらすべての人々に対して「はらわたがちぎれる思い」を抱いたのである。それは、エジプトにおいて奴隷とされていたイスラエルの民を放置できず、彼らに何の美点も見出せないにも関わらず救いの手を差し伸べた「神の愛」が辿りつく必然でもあった。福音は、始めから全人類の救いと慰めを目指すのである。

そして、集まっている群衆の数とパンの数の違いに目を向けたい。6章では「男だけで五千人(つまり、女性や子どもを数えるとそれ以上と考えられる)」に対して「5つのパン」と報告されているのに対し、今回の8章においては「およそ4千人(男女の区別は報告されていない)」に対して「7つのパン」とされている。

5個であろうが7個であろうが、集まった人々に対しては全く役に立たないと思われるほど少量のパンであることには違いない。しかし弟子たちは6章において、「苦悩の分かち合い(苦難への参与)」がもたらす豊かさを学んだはずであった。我々読者も、強大な権力によりすがってあらゆる富をかき集めたヘロデ王が、多くの物を所有しているかのように見えながら実は全くの貧困に生きているに過ぎない(6:14-29)こと、そして、何も持っていないかのように見えるイエスたちが、敢えて貧困に参与することでその絶大な豊かさを証明したことを学んだのであった。

それでも弟子たちは、ここでも群衆の多さと自分たちの貧しさに困惑し、躊躇するのである。以前の時より群衆の数は少なく、またパンの数は多くなっているというのにも関わらず、弟子たちはイエスの豊かさを悟らずヘロデの貧しさにとどまっているのである。イエスは、またも貧しい弟子たちに更なる貧しさを強制して、パンを裂かなければならない。人々が食べて満腹した後、パン屑を集めると七籠になった。ここで「籠」と表記されているのは、人間を入れることができるほどの布でできたものを指すのだと言う。弟子たちですら食べきれないほどの豊かさが既に与えられていることが示されている。

だが、このことによっても弟子たちの「不信仰」が解消されていないことが、14-21において明らかにされる。再び舟に乗り込んで移動するとき、弟子たちは七籠にもなったパンを持ってくるのを忘れてしまった。舟には1つのパンしか残っていなかった、と記される。その時イエスは、権力によって富をかき集めようとするヘロデの思想的な貧しさと、イエスを試そうとして「天からのしるし」を要求した人々の信仰的な貧しさとを警戒するよう、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と語っていたが、弟子たちはそのイエスの言葉を「パンを忘れてきたからイエスが怒っている」と誤解した。

5つのパンが五千人以上を養い、七つのパンが四千人を養った直後のことである。ひとつのパンで自分たちが十分満足できるはずだということを、弟子たちはまだ悟っていない。彼らもまた、信仰的にも思想的にも貧しいままであることが暴露される。まさにイエスが、そのことを指摘している最中だと言うのに! 

「まだ悟らないのか」と悲鳴のように問い掛けるイエスの気持ちが、手に取るように伝わってくる。

だが、「バカな弟子たち!」と呆れたり笑ったりすることができる我々なのだろうか? 運命に対する無力さやこの世の悲惨の絶大さを嘆いてばかりいる我々の日常を、直ちに思い起こすべきではないだろうか? イエスはここで、むしろこの箇所を読む我々に向かって、悲鳴にも似た問いを投げかけているのである。

「あなたも、まだ悟らないのか!」

我々は、どうしても自分の貧しさに目を留める。自分たちの無力さを嘆き、その先へと一歩を進めることができないでいる。そして「この時代にイエスがいてくれたなら!」と夢想する。イエス自らがパンを裂き、イエス自らが敵を論駁し、イエス自らが病を癒してくれるなら、すぐさまそれに従うのに、と。

確かに我らにそのような力はない。7個のパンで四千人を満足させることはできない。敵を論駁するどころか、自分自身さえ説得することができない。悪霊を追放し病を癒すどころか、自分の病さえ追い払うことができないでいる。だが、そのような我々のままでイエスの臨在を求めることが、既に「しるしを欲しがる」

(12)姿勢であることを悟りたい。

イエスが我々の貧しさを祝福し、それを「人々に配るように」と、さらに引き裂いてと我々の手の中に戻すことにおいて既に与えられているのである。それ以上のしるしは与えられない。単純なことだが、「誰かが先に、その貧しさをもって豊かになるのを見たならば、わたしもそうしよう」「それが確かであれば、わたしも信じよう」と考えるとき、我々は決してイエスを信じる信仰には辿りつかない。強制されながらでも叱咤されながらでも、イエスの示す貧しさや苦難に向かって一歩を踏み出すときに、我々には既に「しるし」が与えられていることを知る。我々が貧しく、また無力であるならば、それこそが「しるし」である。与えられたばかりのパンを忘れてくるような愚かさですら、「しるし」なのである。

それ以外の「しるし」は与えられないし、必要もない。

貧しさや苦難に分け入るとき、そこに我々をも養い飽き足らせうる大きな糧が与えられる。その糧に与るとき、常にイエスが共にいてくださったことを悟るのである。更なる貧しさ・苦難・そして愚かさに向けて踏み出して行く我々をこそ、豊かな食事に加えてくださるのである。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

日曜日の朝に1週間前の説教をお届けすることになってしまいました。

近頃徐々に配信のペースが遅れつつあります。申し訳ありません。一番の原因は、もちろん完全原稿の作成が遅いからなのですが、もうひとつの大きな理由はこの追記を書くネタに苦労していることです。「追記が楽しみです」「追記を真っ先に読みます」という応援を頂くことも増えてきました。一抹の複雑気分を味わいつつ、しかし本当にやりたいのはこの追記だったりするあたりが配信の遅れに結びついているようです。

さて、これが皆さまのところに届く11月15日午後2時に、ようやく八甲田伝道所の新会堂献堂式が行われる予定です。昨年の今ごろ、リンゴ販売運動のご案内と共に、会堂建築計画や農村センター活動についてお知らせをいたしましたが、たくさんのご支援に支えられて本格ログハウス(3階建て)の完成に漕ぎつけました。まだ1000万円ほどの借金が残っていますが、業者への支払いはすべて終え、この残金も向こう5年間をかけて返済する予定でおります。これまでのリンゴ販売運動に加え、これからはキムチの販売も開始する予定ですが、リンゴについては提携している業者の担当者が交代し、会堂建築に伴うゴタゴタもあって連絡が行き届かずに、ご案内が遅れてしまっているようです。既に業者からは別口のご案内が届いていると思います(ここが業者ならではの抜け目なさです)が、八甲田伝道所へのご協力をお願いするリンゴ販売はもう少し時間がかかるようですので、お待ち頂ければと思います。

昨年の今ごろは兼務牧師として微力を注いでいたわたしですが、専任牧師の招聘に伴って兼務牧師を辞任したところ、4ヶ月でたちまち10キロも太ったのでありました(現在は5キロ戻りました…)。八甲田のことは相当の重荷だったのだなあと今更ながら考えさせられています。

この度の会堂建築は、「八甲田伝道所の会堂を建築する」ということ以上に、これから展開する農村センターの活動拠点の建設という意味合いが強くあります。

八甲田伝道所の置かれた沖揚平は戦後に開拓された農村ですが、村の農業全体が危機に瀕している状況の打開を研究することを通じて、日本全体の農業のあり方を問い直そうという試みに乗り出そうとしているのです。その意味では、本日の献堂式は「器が完成した」という以上の意味を持ってはいないし、持たせてはならないという気もしています。器だけでもかなりの労力を必要としましたが、本番はこれからなのです。

(建築計画そのものに教会形成の困難を見たTAKE)

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