竹迫牧師の通信説教
『あなたがたが、彼らに』
マルコによる福音書  第6章14−44による説教
1998年10月4日
浪岡伝道所礼拝にて

すべての人が食べて満腹した。そしてパンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。(42−43)

 本日は世界聖餐日である。世界中の諸教会が、同じキリストのからだによって生かされていることを覚え、一致と連帯の決意を新たにする日である。このように、毎年「一致と連帯」を掲げて特別の記念日を用意すること自体、そもそも地上の諸教会には「一致と連帯」が存在していないことを裏付けている。このことは、特にここで強調されるべきであろう。単に「教義上の分裂がある」という程度のことではなく、同じ「イエス=キリストによって生かされている」という信仰を持ちながら、敵味方に分断され、なかには殺し合いを余儀なくされるほどの対立さえ多く見られるのである。どちらが良い悪いと判断することが難しい場合が多くある。解決の糸口も見えない状況も少なからずある。この現実を、悲しみを持って受けとめたい。我々の罪の姿であることを心に刻みたい。

 さて、今日は多少長く聖書を読んだ。2つの対照的な食事の様子が描かれているからである。教会もまた「食卓をひとつにする」集団であり、マルコ記者が2つの対照的な食事の様子を並べて記していることを、この世界聖餐日にこそ顧みておきたいと考えたのである。

 ひとつは、ユダヤの王であるヘロデが、自分の誕生祝のために催した祝宴である。ヘロデは「王」とされてはいたが、実際にはローマ帝国の統治を下請けする傀儡に過ぎず、地域に対する影響力が低下した途端に王位を剥奪され得る立場にあった。

 ここに描かれる祝宴の様子は、洗礼者ヨハネの逮捕に関する報告をも含んで、ヘロデの立場の脆さと不安とを反映している。洗礼者ヨハネは、ヘロデの律法違反を批判することでヘロデの王位そのものを攻撃したのである。ここでは、ヘロデは個人的には洗礼者ヨハネを高く評価しており、自分の王位が失われる恐怖を感じていながらもなお喜んでヨハネの教えを受け入れていた、と記されている。

むしろヘロデは、ヨハネを保護した気でいたのであるが、ヨハネを逮捕する一番の動機はやはり自分の王位を守ることにあった。そしてこの宴会は「いかにヘロデはユダヤの王にふさわしい人物か」をアピールするために催されている。地元の有力者や身分の高い人々を招いて大いにもてなし、見事な踊りを披露した娘に対して「おまえが願うなら、この国の半分でもやろう」と(実際にはそれほどの実権がなかったにも関わらず)豪語して見せる。「自分はそれほどの権力者なのだ」と言いたいのである。その虚勢を逆手に取られて、個人的には深く尊敬している洗礼者ヨハネの処刑に追い込まれてしまうのだが、ここには自分の地位と権力を守るために躍起となるヘロデの姿が暴かれている。彼は何もかもを持っているように見えて、実はなにも自分のものにできないでいるのである。恐らくこの宴会は、大変豊かなご馳走が並べられていたに違いないが、その実態は尊敬する者の首さえ並ぶ血なまぐさい食事の風景であり、むしろヘロデの貧しさを表すものでしかなかった。

 もうひとつの「食事」は、イエスが男だけで5000人が集まっている群衆に、腹一杯の食事を与える場面である。ヘロデのような豊かな食べ物が備えられていたわけではない。イエスの弟子たちだけが食べるにも足りない5つのパンと2尾の焼き魚しかなかったのである。

 しかしそれは、イエスが与える食事である。自分の命をすべての人々のために差し出して十字架にかかろうとするイエスが与える食事であった。贅沢な食べ物をかき集めるだけかき集めてその権力を誇示するヘロデに比べて、イエスが持っているものは余りにも少なく乏しい(そもそもここで配られるパンも、イエスが携えているのではなく弟子たちが持っているものである。イエス自身はなにも持っていないに等しい)。にもかかわらず、イエスは「200デナリオンものパンを買って」でなければ養えないと思われるほど大勢の人々を満腹させるのである(1デナリオンは、日雇い労働者1日分の賃金に相当)。「飼い主のない羊のような有様」であった人々は、感謝と喜びのうちに満腹し、パンの残りも12の籠を満たすほどであったと記される。つまり5個のパンしか持たなかった弟子たちをも十分に養えるほどが残ったのだった。

 マルコ福音書では、イエスは神の子であると理解されている。神の子であれば、あるいはそのような奇跡も可能なのかもしれない。「かき集めること」と「分かち合うこと」が対比させられており、無論分かち合いの方が豊かなのだ、と言いたいのはわかるが、神の子なるイエスだからこそ可能な奇跡に過ぎないのではないかとの疑問が湧いてくる。

 だがイエスの弟子たちに対する命令は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」であった。ヘロデとイエスの弟子たちとを比較すると、持っている力の大きさには天地ほどの差があった。だが、この命令はヘロデが感じた「王位を失うかもしれない」という恐怖と、同じ種類のおそれを弟子たちに与えなかっただろうか。持っているもの、必死にかき集め守ろうとするものを、手放さなければならないという恐怖に、弟子たちもまたヘロデと同じく感じたのではないか。

 そしてイエスは、弟子たちのパンを、弟子たちの手によって配らせている。多くのものを持つ人に対して、「飼い主のない羊のような有様」の人々に憐れみを施せと命じるのではない。5つのパンしか持っていない弟子たちがさらに貧しくされること、つまり弟子たちもまた「飼い主のない羊のような有様」になるように要求されているのである。そしてそれを命じるイエスその人も、自分の命の他はなにも持たない方であった。持っているものさえ捨てて、我らに分かち与えてくださる方であった。

 分裂している様子を隠し、あるいは分裂がないかのように無視することはすまい。それは、実際はなにも持っていないのにすべてのものを持っているかのように振舞うヘロデと同じ試みである。むしろ、キリスト教会だけではなく、この地上はすべて分裂と殺戮に覆われており「飼い主のない羊のような有様」であることを見つめたい。教会はその「飼い主のない羊のような有様」から逃げ出すのではなく、むしろそこに参与するように招かれているのである。そのなかで、少しでも持っているもの、あるいは自分の命そのものを分かち合うことが求められている。イエスはその姿を祝福する。少ない持ち物を、我々自身をも養って余りあるほど大きなものとして用いてくださるのである。

 そして今持っているものが何もなく、そればかりかないものをさえどんどん奪われて行くような状況に置かれているとしたら、我々こそがイエスに祝福され、その食事に与る者たちとされるのである。イエスは、「飼い主のない羊のような有様」の我々にも、はらわたをちぎられるような憐れみを向けてくださるのである。

 願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

その難解さになかなか読めないでいた『イエス−あるユダヤ人貧農の革命的生涯』(ジョン=ドミニク=クロッサン著/太田修司訳 新教出版社)をようやく読了しました。福音書を読むだけでは決して描き出すことのできない、歴史上実在のイエスの人物像(「史的イエス」と言います)を探求する試みです。霊感商法被害弁連の集会に出席するために新潟へ向かう電車の中で読み進めたのでした。

以前にも説教の中で触れたことのある本であり、知人から聞かされて内容についてはある程度知っているつもりではありましたが、よく聞かされる(あるいはイメージとして伝えられる)イエスとは全く違った姿が描かれておりました。イエスが試みた、その時代における「抵抗」とはどんなものであったか、それがなぜ「神の子」と呼ばれるようになったのか、さらにどうしてそれが現代に語られるような矮小化された形で伝えられることになったのか、ということを説得的に明らかにして行きます。決して読みやすくはないし、聖書学に関するある程度の事前知識が必要ではありますが、とても興奮させられる本でありました。

とりわけ考えさせられたのは、イエスという存在を、自分の立場性を弁護するための材料にしてしまおうとする誘惑の強さでありました。この本に描かれるイエス像は、すべての人々の立場性に対して迫ってくる挑戦的告発を有しています。

特定のルールや体制を打ちたてようとするものではなく、既存の「生き方・あり方」すべてに対する問いかけです。ある種の人々だけが攻撃されているのではなく、またある種の人々だけが愛されているのでなく、すべての人々が同じ攻撃を受け、すべての人々が同じく愛されている。自分だけが攻撃されているわけではなく自分だけが愛されているのではないが、自分もまた攻撃を受けているのであり自分もまた愛されている。こうした地平から「共に生きる」ことがやっと可能となるのだろうか、と考えています。

とても強烈なメッセージでした。わたしが説教を通じて描き出すイエスは、どうだろうか。思わず自分の説教を読み返したのでありました。

(その結果は秘密!のTAKE)

ファクス 0172-62-8506
電 話 0172-62-5763
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(追記その2)

同居人竹佐古真希がホームページを解説しました。アクセスできる方は、http://member.nifty.ne.jp/Maki-Takesako/content.htmへどうぞ。『竹迫牧師の通信説教』のページもあります。

(ホームページ制作の着手は早かったのに先を越されてしまったTAKE)