竹迫牧師の通信説教
『自分の家に帰りなさい』
マルコによる福音書 第5章1-20による説教
1998年9月6日
浪岡伝道所礼拝にて

そこで、イエスが、名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。(9−10)

イエスたち一行は、ガリラヤ湖を船で渡り、デカポリス地方に上陸した。その一帯にはゲラサ人が住んでいたが、イエスはそこで「汚れた霊」にとり憑かれた男に出会う。この人物は墓場に住んでおり、とてつもない怪力を発揮するので鎖でも繋ぎ止めておくことができず、夜昼なく叫び声を上げたり、石で自分の体を打ちたたくという自傷行為を繰り返していた。彼はなぜかイエスを見ると走り寄って「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫ぶ。イエスがこの「汚れた霊」を追い出し、「汚れた霊」は二千匹もの豚に乗り移って、自分から湖になだれ込んでしまった。

なんだか不思議な物語である。この「汚れた霊に憑かれた男」は、今日の我々が読むと何らかの精神病をわずらっているように感じられるが、これまではそうした霊をただ追放するだけだったイエスが、ここでは霊の懇願を聴き入れて豚に乗り移らせている。こうした癒しの場面で、イエスはたいてい「何が起こったか」を語ることを厳禁するが、ここでは「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と、逆に積極的に勧めている。マルコ福音書記者は、この物語を通じて何を語ろうとしているのであろうか。

ここでイエスに癒される男は、墓場に住み、人々からたびたび拘束されるが脱出し、大声で叫んだり石で体を傷付けたりしていた(明確には書かれていないが、「正気に」なったときには「服を着(15)」ていたと書かれているから、恐らく裸で過ごしていたのであろう)。周囲の人々は、この人物の振る舞いによって大きな迷惑をこうむっていたようにも感じられる。畑を荒らしたり建物を破壊したり、ということがあったのかもしれない。あるいは、自分で自分を傷付ける様子が見るに耐えなかったのかもしれない。夜昼なく叫んでいたのでは、いやな気持ちになる人も多かったことだろう。とにかく人々は、この人物を持て余していたのである。墓場を住みかとしていたのが、この男の自発的な行動だったのか、周辺の人々に追いたてられた結果なのかは明らかではないが、とにかく他者との交わりからは完全に分離しており、怪力を振るうことで平和を破壊しており、一方的で意味不明の意思表示を繰り返すばかりか、自分自身の存在すら否定しようとしていたのである。

つまり彼は、何重もの疎外に置かれていた事になる。他者との市民的な交わりからの疎外、平和からの疎外、自分に対する愛からの疎外、である。つまり、この男を覆っていたのは自他両面からの「人間疎外」なのである。従って、イエスによる癒しは、この男に「人間性の回復」をもたらしたことになる。

このエピソードは精神病に悩まされる人への癒しの物語として読まれることが多いが、わたしは必ずしもそのように限定して読むべきではない、と考えている。

というのは、「人間性の回復」はむしろ今日の日本における大多数の人々にとってもっとも重要な課題であるからである。これを読む我々ひとりひとりが、この汚れた霊に憑かれた男の置かれた状況に等しいことを感じざるを得ないのである。

高度にシステム化した我々の社会においては、あらゆる「逸脱」は否定される。

裸で歩いたり大声で叫ぶことはもちろん、何かの形で秩序に適わない行いをすることは「破壊行為」とされる。すべての人が均質となり定められたルールに従って生活することが「平和」とみなされるのであるが、そうした「息苦しさ」を打破しようと試みる者はたちまち排除の圧力にさらされる。「現代の日本は『その人らしさ』を抑圧することで成立する秩序に覆われている」と指摘されて久しいが、だからといって率先して「自分らしさ」を前面に押し出す人は限りなく少ないし、敢えてそれをなそうとする人は、まるで自分で自分を傷付けるような痛みにさらされざるを得ない。

他者との交わりの中で生きるために「自分」を殺すことはできず、しかし「自分」を生かすことにもとてつもない苦しみが伴うとしたら、我々はその苦しみが一番軽い形でつりあうようなポイントを見つけて、そこにとどまろうとするだろう。そして、そこからどこかへ引っ張ろうとする人が現れたなら、「構わないでくれ! 後生だから苦しめないでほしい!」と叫ばざるを得ないのではないか。

マルコ福音書が書かれた時代のキリスト者たちが、地域住民とユダヤ教徒たちから二重に疎外されていた状況については、この連続講解説教の中でも何度か触れてきたが、もし彼らがこの物語から「疎外からの回復」という希望を読み取っていたとするなら、今日の我々にもそのような読み方が可能になるに違いない。

我々は初期キリスト者たちと同じく、ただこの痛みからの解放をイエスにのみ求めるべきである。あるいはより大きな苦痛が伴うかもしれないが、生きた「自分」のまま「自分の家に帰る(すなわち他者との共同体性を回復する)」ことが可能となる道が拓かれることを、イエスにおいて信じ続けたいと思う。我々の苦痛をイエスが癒してくれるかどうかはわからないが、少なくともイエスは、十字架の上で同じ苦痛の中に投げ込まれたのであり、そして復活を通じてその苦痛が敗北をもたらすのでないことを示してくださったのである。

さて、今日はこの物語のもうひとつの側面に注目しておきたい。それは、この「汚れた霊」が名前を尋ねられて「レギオン」と応えている点である。レギオンとは、4000人から6000の兵士によってなるローマの軍団の名前なのである。そして、この物語の舞台となるデカポリス地方とは、ローマの軍隊が支配する占領地であった。予告もなしに核実験が行われたりミサイルが頭上を飛んで行ったりするという現代に生きる我々は、むしろ「汚れた領域に住み、怪力でもって住民の平和を脅かし、一方的な意思表示を繰り返すばかりか、なお自らをも傷付ける」というこの人物(というより「汚れた霊」)の姿に、軍事力を用いて住民を圧倒する「暴君」の姿を見るべきではないだろうか。

この人物の体には、二千匹ほどの豚に乗り移るほどたくさんの「汚れた霊」が取り憑いていたのである。彼ひとりが墓場においやられたびたび鎖で繋がれたという「精神病者監禁」の物語として読む限り、この物語における被害者はこの男ひとりであり、周辺の住民は迫害者のように読める。精神病者をめぐる歴史を振り返るとき、そうした読み方には必然性が確かに存在すると言える。だが、この人物と周辺の人々との間の軋轢と疎外を形作っていたのは、この人物自身ではなく彼に取り憑いていた「汚れた霊」であり、この「汚れた霊」の蛮行に、周辺の人々は必死に抵抗していたのである。地域住民もまた「汚れた霊」の被害者であった。

この男に対する地域住民の振る舞いは、軍事力や暴力で迫ってくる敵に対応しようとする我々が行き着き得るひとつの姿なのではないか。もっと有り体に言えば、現在の北朝鮮を巡る我が国の反応と全く一緒である点を見逃すわけにはいかないのである。我々もまた、この住民たちと同様に、蛮力を振るい夜昼の別なく一方的な主張を大声で繰り返す「汚れた霊」を、「墓場」に「鎖」で繋ぎとめようとするより他に手段を持っていない。そしてその試みは、「汚れた霊」の「怪力」によってことごとく粉砕されつづけている。封じ込めを成功させるために、我々が「汚れた霊」以上の「怪力」を身につけなければならない、という声が高まっているのが現状である。軍事同盟の強化・迎撃システムの導入が、不安の声を上げる国民の後押しで実現しつつあるように感じられてならない。

しかしそれは、我々自身が「汚れた霊」にとり憑かれることを意味するのではないか。あのミサイルが指し示すポイントを思い起こしたい。自衛隊と、在日米軍と、プルトニウム備蓄施設の目と鼻の先であったことを見逃さないようにしたい。我々自身がすでに、「汚れた霊」にとり憑かれている姿を、そこに見るべきではないのだろうか。

イエスの癒しは、武力を始めとする「この世の諸力」によって人々を支配しようとする勢力そのものに向けられている、ということを確認したいのである。イエスは、「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」のごとく、自らを石で打ちたたく行為に過ぎない「暴力による支配」をも追放される方なのである。イエスはなぜかこの男には、「自分の家に帰りなさい」と命じている。それは「共同体としての交わりを取り戻せ」との意味である。この場面に限って「あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられている理由が、ここにあるのではないか。力による征服を旨とするあり方に否を唱えることを、イエスは命じているのではないか。

その出発点は「聴く」ことにある、と考える。なぜこの「汚れた霊」は、イエスに向かっては自分から走り寄って大声で叫んだのか。それは、イエスがその叫びを「聴く」方であるからに他ならない。人々がこの男を縛り上げ遠ざけようとしたのと逆に、イエスは飽くまでこの男の言い分に耳を傾けている。耳を傾けることと、その言い分を丸ごと承服することは同じではない。事実イエスは、「汚れた霊」に「この人から出て行け」と命じているのであり、「汚れた霊」は2000匹の豚に乗り移って溺死してしまった。イエスは、受け入れるところと拒絶するところ、賛同するところと否定するところ、それらを峻別しつつ耳を傾けたのである。

これは、すなわち「対話」である。

対話のない世界で生きている我らの姿を思う! 一方的な価値観や意見を押し付け合い、自分の要求を受け入れない相手は存在をアタマから否定するのが、我らの世界の姿である。そして「武力」は、そのもっとも象徴的な姿であり効果的な方法であると信じられているものの典型である。

イエスは己を否定する言葉にも、徹底して「耳を傾けた」! それが十字架につけられた救い主の姿であった。イエスは、イエスを否定する言葉にも耳を傾け、その体を彼らに委ねた。十字架の死に至るまで、彼らの言い分に耳を傾けた。しかしそれは、彼らの言い分を承服したということではなかった。イエスは、復活によってそれを「否定した」のである。復活は、我々を覆っている「汚れた霊」への「否!」である。アタマから我々の姿を否定したのではない。「この世の諸力」により頼んで迫る人々の言い分を、死に至るまですべて受けとめてから発せられた否定であった。

我らの解放は、力で相手をねじ伏せることでなく、耳を傾けることによって実現するのである。今や国家規模の「傾聴」が求められている。だが、個々人の「傾聴」がないまま、国家規模の「傾聴」があり得るだろうか? 何より、人間への「傾聴」なくして、神の言葉への「傾聴」があり得るのだろうか?

イエスは神の言葉である。教会は、神の言葉に「傾聴」する集団である。そしてまた、隣人の言葉に耳を傾けるのが教会であることを確認したい。なぜなら、イエスが我々に耳を傾けてくださる方であるのだから。隣人と対話し、また神と対話する教会となることを目指したい。神こそが、我々に耳を傾けてくださる方であることを、我々は知らされているのだから。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

ハリウッド版『ゴジラ』公開に合わせてか、伊福部 昭氏作曲のコジラシリーズのテーマ音楽をジャズアレンジした『GODZILLA JAZZ』というアルバムが発売されました。「東洋のシンフォニー」と評される伊福部氏の音楽がどうやったらジャズになるのかと不思議でしたが、聴いてみるとこれ以外の表現が考えられないほどぴったりとしていました。

ハリウッド版『ゴジラ』について、「ゴジラがもともと持っていた圧倒的な恐怖が感じられない」という伊福部氏の感想が新聞に掲載されたのを読みました。初代ゴジラを監督した本多猪四郎氏は、亡くなる直前まで悪夢に悩まされるほどの戦争体験に苦しめられた人だったと言われます(ミニチュアによる特殊撮影を手がけた円谷英二氏も、飛行機乗りを目指す軍国少年時代を過ごした人物でありました)。『ゴジラ』(初作)が反戦映画であったことはよく指摘されています。

『ゴジラ』(初作)劇中では、ゴジラはさらに強力な「最終兵器」で殺されるわけですが、その「最終兵器」の技術が漏れることを恐れた科学者が、ゴジラと心中することで秘密を守りました。軍事力に依拠する平和志向の結末を描こうとしたものでしょう。

本多監督が伊福部氏に要求した音楽は、軍事力の副産物として誕生し、もはやその軍事力をもってしても封殺できないほど怪物化してしまったゴジラの存在感であったわけです。『GODZILLA JAZZ』は、それをうまく表現していると感じたのでした。

ハリウッド版『ゴジラ』は未見ですが、「世界の警察」アメリカを積極的に賞賛する映画であった『インディペンデンス・デイ』と同じ製作者による作品であることと、「恐怖」の薄さを問題とする伊福部氏の感想とを考え合わせるとき、その中身というのは殆どわかってしまうような気もします。

(「テポドン」を怪獣の名前かと思ったTAKE)