竹迫牧師の通信説教
『向こう岸に渡ろう』
マルコによる福音書 第4章35-41 による説教
1998年8月30日
浪岡伝道所礼拝にて

イエスは艫のほうで枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」といった。(38)

嵐に巻き込まれた舟の中で恐れ惑う弟子たち。彼らに促されて、たった一言で嵐を静めるイエス。そして、イエスに近い立場にありながら、その不信仰ぶりを暴露してしまった弟子たち。マタイ福音書にもマルコ福音書にも、そして表現は若干異なるがヨハネ福音書にも記されている、有名なエピソードである。

このエピソードが伝えんとするメッセージは明白である。それは、苦難の中にあってもイエスへの信仰を失わないことである。イエスが、この世界を造った創造主なる神と等しい権威をもって、従う者を守り導き救ってくださると堅く信じるべきことである。その主題を見失わない限り、舟をきりきり舞いさせる嵐とは何であるか、そもそも舟とは何であるか、またそこに乗り合わせている「弟子たち」とは誰のことか、様々な解釈が可能となる。

マルコ福音書が書かれた時代の教会が置かれていた状況が、嵐の中で揉まれる舟同様の苦難と混乱に満ちていたのだろうし、その中にあっていかにイエスが眠り込んでいるかのように(つまり自分たちの苦境にはイエスが全く無関心であるかのごとくに)感じられても、イエスがひとたび「黙れ!静まれ!」と声を発すれば治まらない苦難は存在し得ず、従って、どのような困難の中に投げ込まれようとも「風や湖さえも従う」主イエスが我らと共にあるのだという確信を促し、信仰を保つことを勧めるのが執筆者の意図であったろう。

だが、どうであろうか? 仮に我らが福音書の登場人物になったとして、この嵐に揉まれる舟に乗り合わせていたら、「必ず主が助けてくださる」との確信を保てるのだろうか。我々は、その舟の乗組員でないから、「どのような嵐の中でも『主が助けて下さる』という確信を保つべきである」と澄ました顔で語れるのではないだろうか。イエスの「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉を、まるで自分の言葉のように、登場人物たちに投げかけ、また我らの隣人に向かって語るとき、我らは嵐の中にある人々と、本当に同じ舟に乗り込んでいるのだろうか。

奥羽教区北東地区(津軽地方の諸教会による地域共同体)の牧師を対象とした一泊研修会が毎年行われているが、今年度は韓国から安相任(アン サンニム)さんという女性の講師をお迎えして話を聞いた。この方は、牧師を務める夫と共に教会生活に励んでいたとき、長い間闘病生活を送っていた娘を亡くしてしまった。そのとき彼女が周囲から言われた言葉が「病気が長引くのは祈りが足りないからだ」「娘が死んだのは、何か両親に信仰的な落ち度があったからだ」というものだった。非難であるだけでなく、時には慰めや励ましの意図を込めて語られるそれらの言葉に傷付けられた安さんたちは、やがて韓国キリスト教に存在する「因果応報」的な「裁きの神」のイメージに気付き、「目に見えない神を自分のイメージに当てはめて理解しようとする人間の限界」を問題にするようになった。

とりわけ安さん自身は、男性優位の韓国社会の中で「父なる神」という表現が生み出す「男性の偶像化」の問題に取り組むようになった。そして、安さんのお話を聞く我々に、「日本では、何かの行いの報いとしての不幸という理解がありますか?」という問題提起をされた。

わたしはその問いを受けて、「教会の外では、『因果応報』という考え方が根強いし、教会に集う人々の間でもそのようにして不幸の意味を理解しようとする人はいる。しかし、聖書は『因果応報』という思想にくみしておらず、大方のクリスチャンたちはそのような受け取り方をしていない」と考えていた。

しかし、昨夜NHKで放映された『祖国へ・ホロコースト後のユダヤ人』という番組を見て、今では少し考え方が変化した。その番組の中で、ナチスの収容所を生き延びたユダヤ人たちの告白を聞いたからである。何万人もの人々が虐殺された収容所を生き延びた人々は、連合国軍によって解放された後も、苦難の中を歩まなければならなかった。帰るべき家や、共に生活するべき家族のすべてを失ったユダヤ人たちは、ナチスの収容所を出た後も、今度は連合国軍が用意した難民キャンプで過ごさねばならず、その生活はナチスの収容所に劣らず悲惨を極め、「占領されたドイツ人であるほうが、解放されたユダヤ人よりもマシだ」と感じるほどであったという。そのときの状況を回想するインタビューの中で、「これは、何かの罪に対する罰だと思います」と語る女性がいたのを見たとき、「聖書信仰を持っていれば、『因果応報』という価値観は消える」という考えが、単なる思いこみに過ぎなかったと考えざるを得なくなった(「ユダヤ人の聖書は旧約だから」という理解は必ずしも正当ではない。『因果応報』を否定して苦難の意味を説く箇所は、旧約にこそ多いからである)。

我々はあらゆる苦難に耐えらるほど、強くない。とりわけ「意味のわからない苦難」と「結末のわからない苦難」ほど耐えがたいのではないだろうか。たとえば何かの病を得たとする。カゼをひいたとか腹が痛くなったとか、何度も体験しているような病気であれば、「寒いのに薄着をしていた」とか「腐ったものを食べた」とかの原因を洞察し、「薬を飲んで寝れば治る」「多少下痢はするが、胃腸薬を飲んで暖かくしていれば治る」という結末を想定することができる。同様に、「○Xという罪を犯したからだ」という原因を想定すれば「その罪を悔い改めればいい」と結末を想像することが可能になる。今感じている不安はイエスに対する信仰が薄いからで、イエスが共にいれば大丈夫、というストーリィを描いたとき、我々はその苦難の意味と結末を知った気持ちになれる。意味付けをして、結末を想定したとき、我らはその苦難における不安や動揺を克服することができるだろう。

だが、そのようなストーリィを描けない、体験したことのないような病や喪失に向き合ったとき、我々はどのように反応するのであろうか。意味を測り兼ねるような、そして結末を想像できないような未体験の苦難に向き合ったとき、果たして我々は「イエスが共にいれば大丈夫」との確信を保つことができるのであろうか。

この場面で弟子たちが乗っていたのが、どのような大きさの船だったのか、よくわからない。乗り込んだ「弟子たち」が何人だったのかも説明されていない。

イエスの直弟子たちだけが乗っていたとしても、それだけで12人いたのだから、ひょっとするとかなり大きな舟だった可能性もある。そして、直弟子の中にはこの湖で漁業をしていたプロの漁師たちもいたのである。その彼らが恐れ惑い、疲れ切って眠っていたであろうイエスを「わたしたちがおぼれても構わないのですか!」となじりながら揺り起こすほどに動揺する突風だったのである。原因や結末を想定できない事態に接して極端にエゴイスティックになった彼らの姿は、実はそこに乗り合わせてもいないのに「イエスが共にいれば大丈夫」と涼しい顔で考える我らが落ち込むに違いない姿なのではないか。

「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスと共に船出したとき、舟は一艘ではなかったと記されている。「ほかの舟も一緒であった(36)」。突風に動揺した弟子たちがイエスへの尊敬も信頼も投げ捨てて「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」と叫んだとき、その「わたしたち」の中にほかの舟に乗っているはずの仲間たちが含まれていたとは思えないのである。そして、もし「ほかの舟」に乗りこんでいるのが「イエスの周りにいた人々」だけでなかったとしたら、弟子たちはなおさら「ほかの舟」に乗っている者を含めて「わたしたち」と語っているとは思えないのである。イエスが乗り込んでいた舟に乗っていた者たちはまだ、イエスにすがることができた。だが、イエスが共にいない他の舟の者たちは、どれほどのパニックに陥ったのだろうか。

イエスと共にいた者たちですら、この有様であった。イエスが共に乗っている舟を、今日我々が集っている「教会」にたとえるなら、「ほかの舟」に乗っているのは誰だろうか。パニックに陥って「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」と叫ぶときの我々は、「ほかの舟」の仲間たちをも含めて「わたしたち」と叫び得るであろうか。

イエスがこのとき行こうとしていた「向こう岸」とは、次の5章において「デカポリス地方」であったと説明されている(5:20)。当時のユダヤの人々にとり、デカポリスは異教徒の住む土地であった。そこでイエスは、悪霊に苦しめられる人を癒すことになる。ローマ帝国の支配下にあってイスラエル王国としての自治権を失っていたユダヤ人の弟子たちにとって、イエスのもたらす救いは「イスラエルの救い」であった。イエスが異教の地における宣教活動を目指したとき、弟子たちはそれをどのように考えていたのであろうか。そのさなかに嵐に巻き込まれ、しかもイエスが眠り込んでいるのを見て「わたしたちがおぼれても構わないのですか!」と叫ぶ弟子たちの胸中には、「イスラエルの民を放っておいて異教徒への宣教か!」との思いがなかったであろうか。

そして我々をも省みたい。我らが「わたしたちをお救いください」と祈り求める時の「わたしたち」は、誰のことを指しているのか。自分自身であり家族であり友人であり、という限界を帯びているのが実態であろう。教会に集う人々のみが意識されているにとどまっているのが実相であろう。「向こう岸に渡ろう」と呼びかけたイエスに従う、イエスが乗っていない「ほかの舟」を見つめているか。

イエスの言う「向こう岸」を、我々は本当に見つめているか。

しかしイエスは嵐に向かって「黙れ!静まれ!」と命じて下さった。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と厳しく戒めるが、「おまえはいらないから帰れ」とは言わなかった。そして何より、エゴイスティックに恐れ惑う、そのような我々に向かって「向こう岸に渡ろう」と呼びかけてくださった。我々の「向こう岸」とはどこだろうか。ストーリィの描けない、原因も結末も意味付けようがない新しい世界である。これまでの体験や信仰のすべてをもっても理解不能な動揺と不安の彼方である。隣人どころか仲間さえ見失いかねない激動と混乱の世界である。

弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と非常に恐れた、と記されている。我々が意味付けも納得もできないような激動の世界を目指して、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスは、我々にはコントロールできない突風や大波をも従わせる方なのである。その呼びかけに応えて船出する我々は、今まで知らなかった困難に乗り出して行く。その道行きには、未曾有の苦難をも従わせるイエスとの出会いが待っている。

未曾有の苦難に際して恐れ、じたばたともがき、「なぜ怖がるのか!」と叱り飛ばされるような我々のままで構わない。ただ、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスに応えるものでありたい。せめて、「向こう岸」を望みながら、そして混乱の中を共に進む「ほかの舟」と共に「わたしたちがおぼれても構わないのですか」と叫びうる我らになりたいと願う。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

今回の説教で触れたNHKで8月29日放映の『祖国へ・ホロコースト後のユダヤ人』という番組を見て、衝撃を受けました。ホロコースト時のユダヤ人が受けた被害についてはかなり知っているつもりであったのに、彼らが連合国軍の侵攻によりナチスの収容所から解放された後も、今度は連合国軍による差別と虐待を受けつづけたということを殆ど知らなかったからでありました。番組では、「ユダヤ人が殺されない国を」との願いが原動力となって「イスラエル建国」に結びつく様子が描かれていました。「これが本当に当時の映像なんだろうか」と首を傾げたくなる箇所や、本来は音声が含まれていないであろうフィルムにアテレコで効果音が挿入されている演出や、何よりイスラエル建国に反対するアラブ人側からの視点が全く欠けている番組作りなどに問題はありますが、今日もなお続く「ユダヤ人問題」に、キリスト教が大いに責任を負っていることを再確認させられたのでした。

というのは、ユダヤ人差別の根幹には、『新約』聖書の記述が大きな影響を与えていることが明白だからです。『新約』文書が当時のキリスト教にとって圧迫勢力であったユダヤ教との対立の中で蓄積されたことが影響しているからですが、ことに福音書におけるユダヤ人の扱いは、「救い主を殺害した罪深い民」として描いている点で徹底しています。そこから「差別されてしかるべきユダヤ人」というイメージが、ヨーロッパキリスト教に蔓延したのでありました。ユダヤ人問題と直接関係のないわが国のキリスト教も、なぜか「ユダヤ人差別」の伝統までそのまま輸入してしまったのでありました。『新約』というのは「新しい契約」を省略した言い方ですが、『旧約』(旧い契約)にすがっているユダヤ人は「捨てられた民」であり、教会こそが「真のイスラエルである」と語る教説が再生産されています。

(余談ですが、統一協会では自分たちを「第三イスラエル」と呼び、経典である『原理講論』を『成約聖書』と言い習わしています。つまり、「ユダヤ人はキリストを殺害して罪を犯して神から捨てられた民である。クリスチャンも同様に、現代のメシアである統一協会教祖の文鮮明氏を迫害しているから、同様に捨てられた民である。旧い契約・新しい契約を経て進化してきた神の摂理は、いまや本当の契約が成立した『成約』の信徒たちである統一協会に委ねられている」と教えているのです。現代の宗教運動を考察しようとする宗教学の中には、統一協会を始めとするこうしたカルト団体の教義に注目し、いわば「教理史」的にアプローチするグループがあります。そうして執筆された文献は、たとえば統一協会の項をひくと「キリスト教の教説を下地に、陰陽道の世界観を冒険的に展開したメシア運動」とされたりするだけで、その「犯罪行為」については無化してしまいます。そして、そのような文献が逆に当のカルト教団によって宣伝に利用されたりするので、そうした視点の研究には批判的なのですが、敢えてその視点を取り上げて考えてみれば、今まで保持してきた「ユダヤ人差別の伝統」によってキリスト教自身が逆襲されている、と見えないこともないように感じるのでした。)

中東問題の本質というのは基本的に石油資源の奪い合いであり、それをカムフラージュするために、宗教的な対立や民族主義が「正義」や「大義」として取り上げられ、煽られています。第2次大戦後は、そうした争いに「ユダヤ人問題」が重要なカードのひとつとして利用されてきました。現在の日本でも、反ユダヤを煽る文書が相次いで出版されており、オカルティックなユダヤ人イメージを流布しています。その一方で、日本のキリスト教の一部では、ユダヤ人差別に対する反省的な洞察を欠いたまま、現在のイスラエルを『聖地』として崇めようとするグループが跡を絶ちません。

近頃、ようやくバチカンが「ユダヤ人問題におけるキリスト教の責任」を認める発言をしました。大きな目で見れば、それが本当に宗教的な良心からなされた発言なのか疑わしくもなるのですが、そのことに無自覚であった時代に比べれば、本当に大きな前進であるのは間違いありません。

プロテスタント側は、どのような道を選択するのでしょうか。

(高校の夏休みが終わって気が重いTAKE)