竹迫牧師の通信説教
『荒地の種』
マルコによる福音書 第4章1−20 による説教
1998年8月2日
浪岡伝道所礼拝にて

これまで、マルコ4:1-20を2回にわたり連続して読んできた。

1回目は、史実のイエスが実際に語ったといわれるたとえ話そのものに注目し、「神の言葉」という種を蒔く神自身の願いを読み取った。神は、その種を受け取る人が、農耕に適さない「道端」であれ「石地」であれ「茨の藪」であれ関わりなく、「良い土地になれ!」との祈りを込めて種を蒔くのであることを学んだ。

その祈りを受けた者は、自らもその祈りを自分の願いとして、種の成長を阻む「鳥」や「日照り」や「茨」であるかもしれないことを恐れることなく、「良い土地」となるべく神と共に耕すよう招かれているのである。

2回目には、「耳ある者は聞きなさい」と結ばれたこの「種蒔く人のたとえ」について説き明かしを求める人々がイエスの周りに集まったという描写を通じて、「自分には聞く耳がない」と自覚する者、「種蒔く人」のたとえになぞらえて言えば、自分は決して種を育むのに適した土地ではない、と考えてイエスのもとに集まる者こそが、イエスの家族とされるのであることを学んだ。ここでいう家族とは、単に親子であるとか兄弟姉妹であるとかにとどまらず、「共に働くもの」としての共同体のことである。

そして3回目になる今日は、13-20にかけて記された、イエス自身が説き明かす「種蒔く人のたとえ」の解釈から、現代の我々に語りかけられる神の言葉に聴きたい。

今わたしは「イエス自身が説き明かす」と語ったが、それは物語における設定上のことに過ぎず、この箇所は実際にはイエス自身の言葉ではなく、原始教会が「種蒔く人のたとえ」を自分たちの置かれた状況に即して解釈したものであることが知られている。イエスがこのたとえ話を、本来どのような意図で語ったのかは不明であるが、マルコ福音書記者は自分の属する教会の伝道活動の経験と結び合わせて解釈して記しているのである。「神の言葉」を伝えてもまったく聴く耳をもたず、まるでサタンに邪魔されているかのように感じられるほど心を動かされない人々。最初は喜んで受け入れるが、「イエスは救い主である」という信仰によって何らかの不利益を受けると、まるで日照りに枯れる苗のようにあっさりと信仰を捨ててしまう人々。また、同じ信仰を持つ仲間として歩んでいたはずなのに、いつの間にかイエスへの信仰以外の価値観に流されて去ってしまう人々。

イエスのたとえを「宣教された言葉を聞く人々の類型」という意味に解釈するマルコ福音書記者は、自分たちの努力だけではどうにも動かせない、人々の頑なな心に思いを馳せざるを得ないほど、実りのない伝道活動に疲れを覚えていたのではないだろうか。そして、「これは宣べ伝える自分たちの失敗ではなく、そもそも自分たちの言葉を聞いた人々の『素質』に由来する現象だ」と考えざるを得ないほど、手痛い裏切りにあい続けてきたのではないか。

この、言わば「荒地への種蒔き」を連想させるような解釈には、我々も深く共感せざるを得ないものを感じることがある。信仰や宣教に類することばかりではなく、たとえば愛や友情に関わる出来事や、家族関係のあり方、職務遂行上の場面にも、こうした感慨を我々に与える事柄は無数にあるといえる。本日は平和聖日であるが、「平和の回復」を主眼とする活動に参与する時こそ、まさしく岩の上で鍬を振り下ろすかのような徒労感に苛まれることが多くある。東西冷戦が終結したと思われた途端に頻発する地域・民族紛争。核廃絶の働きが実を結ぶと思われた瞬間に強行された核実験。ようやく変わるかと思われた政治体制の百年一日であるかのような無変革ぶり。それぞれの問題領域において、深く関われば関わるほど、己の無力さを嘆かざるを得ない「裏切り」に直面する機会は多くなる。

「長い目で見れば、着実に変化は起こっている」と自分を励まし、諦めることなくより有効な方法を模索するが、追い討ちをかけるように新しい問題は次から次へと持ち上がる。「所詮、世界は変わらない」と虚無的に居直らざるを得ないほど、立ち向かうべき現実は強大であり強固である。時には祈ることさえ空しく感じられ、そもそも祈りの維持そのものが我々の主要な課題とならざるを得ないことがある。

イエスのたとえ話を教会の宣教活動に限定して解釈する今日の個所であるが、まるでそのように疲れ切った我々を襲う「実を結ばない土地には、そもそも種が蒔かれる素質がない」と思いたがる誘惑を積極的に肯定しているかのように感じられるのである。"せっかく蒔かれた神の言葉の種を無にするのは「サタン」のせいであり、せっかく芽を吹いた信仰を台無しにするのはその人自身の「弱さ」のせいであり、せっかく成長しても実を結ばないのはその人が置かれた「悪しき環境」のせいである。"つまり「わたし(たち)に落ち度はない」と結論付けることを可能とするかのような解釈として読めるように感じるのである。

「そのように状況分析することが、何でも他人(状況)のせいにしたがる我慢のなさのあらわれである」と指摘することは易しいかもしれない。ある場面では正しい指摘かもしれない。もっと努力の余地があるはずだ、もっと工夫をするべきだ、と諦めないことが正しい姿なのかもしれない。

だが、それが正しい指摘であり正しい姿勢であったとしても、それぞれの領域においてそのように語り得るのは、ほとんどの場合その働きに参与していない人々なのではないだろうか。第三者として眺めているからこそ、あるいは手を抜きながら取り組んできたからこそ、「もっと戦えるはずだ」「もっと方法があるはずだ」と発想し得るのではないだろうか。働きが実を結ばない困難の中で「この土地には種の成長を育む素質がない」と弱音を吐く人は、その働きに全身全霊を打ち込んできた人である。そのような人にして、初めて「この土地には素質がない」と嘆き得るのではないか。そして、他の「土地」を見出せない人・その場において戦うしか他にない人は、嘆きつつも働きを休むわけには行かないのである。

神が、農耕に適さないと思われるような土地にまでも種を蒔く方であることを通じて、どのような土地に対しても「よい土地となれ!」との祈りを込めていることを、我々は学んだ。そしてイエスが、無理解な弟子たちをなおも共に働く群れとして受け入れ、また招き続けていることを、我々は学んだ。神は「徒労感」を覚えなかったのだろうか。イエスは「土地」の貧しさを嘆かなかっただろうか。

疲れつつ嘆きつつも、なお「良い土地となれ!」と願い、「共に耕せ!」と呼びかけ続けたのではなかっただろうか。

創世記8章には、箱舟に乗って洪水を免れたノアによってささげられた生贄を受けた神が「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と決意する様子が描かれる。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。いくら呼びかけても立ち帰らず、いくら戒めても改めることのない人間を、これからも決して見捨てない、と誓っているのである。それは、「いつの日か立ち帰る」との期待に支えられたものではない。「いずれ改める」と予測してのことではない。「幼いときから悪い」人間に対し、立ち帰りや悔い改めの可能性を断念するところから発せられた決意である。

イエスの受肉(神でありながら人間としてこの世に現れたこと)は、立ち帰ることも悔い改めることも「あり得ない(!)」人間を救うための、唯一の方法である。自らの意思では神と共にあることを選ばない、「道端」であり「石地」であり「茨の藪」である人間が、実を結ばない「土地」であることを承知で近づき、当然の帰結として十字架に殺されたのがイエスである。

諦めつつ嘆きつつも、種を蒔き耕すことをやめない神の「良い土地になれ!」との祈りと、その祈りを身に受けて我々人間の世界(土地)に蒔かれた種が、イエスなのである。この箇所に見られる疲れや嘆きは、我々人間のものではない。

「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」との希望も、我々人間のものではない。それは、神やイエスの疲れであり嘆きであり、そして希望なのである。

もし我々が、この世の働きにおいて疲れを覚え嘆かざるを得なくなるとしたら、それは「良い土地となれ!」と祈る神と、祈りを共にしていることの証しである。

その時こそ、我らは「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」との希望をも、共にすることになる。

再び「たとえ」に立ち返るとき、ここには希望の実現が裏返った形で記されているのを読むことができる。種は、道端に落ちて鳥に食べられ芽を出さなかった。

他の種は石地に落ち、芽を出したものの太陽に焼かれて枯れてしまった。他の種は茨の茂みに落ち、芽を出し成長するものの実を結ばなかった。この物語において種そのものに注目するならば、「種は蒔かれた」「種は芽を出した」「種は成長した」のである! あるいはよく耕し、あるいはよく手入れをして、あるいはよく守るならば、あるいは実を結ぶものも現れ得るのである! なぜなら、このたとえを裏返して読むならば、種は実を結ばなかったものの成長したのであり、種は成長しなかったものの芽を出したのであり、そして種は芽を出さなかったものの、そもそも「蒔かれた」からである!

神の祈りを我らの祈りとする時、我らは神の疲れ・嘆きを我らのものとすることになる。そして同時に、我らはイエス=キリストという種が蒔かれたという事実ただひとつにおいて、感謝をすることができるようになる。さらに、イエス=キリストという種が「我ら」に蒔かれた、という出来事において、我らこそが三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶという「希望」に生きることができる。およそ実りの収穫など得られそうもない現実の只中で立ち尽くすとき、そのような荒地であっても、荒地であるからこそ、断固として種を蒔くことを決断した神の愛を、我らは知ることになるのである。そのとき、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶという「希望」が、他の誰でもない我らに与えられるのである。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

先週の日曜日は、父方の祖母である竹迫キミの米寿記念会出席のため、礼拝をお休みさせていただき北海道の帯広市へでかけました。子・孫・ひ孫と、祖母を含めると4世代30名が久々に顔を合わせたのでありました。当日配布された竹迫家の系図を見ると、判明しているだけでも、祖母は北海道開拓を担ってきた一族の四代目にあたります。短歌を趣味とする祖母の作品をまとめた記念書籍(出版したのは子たちです)を頂きましたが、開拓の困難さを背景とするものが多く目にとまりました。「拾っても拾っても石が出てきた」とは聞かされておりましたが、改めて祖母の作品に触れ、わたしなどには想像もつかない苦労の連続だったのだと考えさせられました。

久々に一族が集った様子は、血族意識が希薄なわたしにも壮観な眺めでありました。みなそれぞれの道を懸命に歩み、またはこれから波乱万丈の人生へと乗り出していく人々です。中にはカトリックの信徒になった人もいます。それぞれの

「ドラマ」を聞きながら、その広がりの豊かさを感じました。祖母は元来とても小柄な人ですが、年齢の進んだ近頃では一層小さくなったように感じられます。

集まった一同を見渡したとき、「こんなに小さな女性から、こんなに大勢の一族が生まれたのか」と驚きを感じたのでした。

今回の旅行では、ついでに4人の知人にお会いしてきました。うち1人の女性は、10日前に出産したばかり。生まれた男の子の顔を見て(えーと、正直に言えば、まだあんまり可愛くなかったです)「新しい命が始まっている」と感じた時、一人びとりそれぞれの歩みが祝福されることを願わずにはいられませんでした。

(WINDOWS98を衝動買いしちゃったTAKE)