竹迫牧師の通信説教
『安息日の主』
マルコによる福音書 第2章23−24 による説教
1998年6月14日
浪岡伝道所礼拝にて

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(27−28)

イエスと弟子たちが麦畑を通った時、弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んでいるのをファリサイ派の人々が見て「安息日規定への違反である」ととがめた。そのファリサイ派の人々にイエスが応えるのが、今日の箇所の内容である。

弟子たちがなぜ麦の穂を摘んでいたのかは明らかではない。「空腹のダビデ一行が、本来は祭司以外が食べることを禁じられていた供え物のパンを食べた」という故事(サムエル21:1-7)をイエスが持ち出している点からすれば、弟子たちは空腹に耐えかねて麦の穂を摘んだのだろうか。

ちなみにイスラエルの律法においては、他人の畑の作物を取ることは禁じられていなかった。申命記23:25-26には「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」という規定がある。つまり、それを売って儲ける等の目的ではなく自分の食事を確保するためならば、畑の作物をとっても窃盗にはしない、という規定である。おそらく、その日食べる分を取るのは構わない、ということが暗黙の約束になっていたのではないか。

これは元来、在留外国人・孤児・寡婦など、社会的な身分保証がなく従って安定収入を見込めない人々のための規定であるという。申命記24:19-22でも、同じことが畑の持ち主に対して命じられている(「畑で穀物を借り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」など)。そしてその理由を、「自分たちがかつてエジプトで奴隷とされていたことを思い起こしなさい」と説明する。イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷として酷使され食べるものにすら困ったという出来事を忘れ、かつて自分たちを奴隷にしていたエジプト人と同じ振る舞いに陥らないように、というのがその戒めの趣旨であった。その背景には、食料を与えてくれるのは神であり、畑の作物は決して人間の独力で得られるものではない、という理解があり、食料を独占することから争いが生まれるという体験に基づいた洞察が込められていたに違いない。

とりわけこの時に空腹ではなかったとしても、イエスと行動を共にする弟子たちの中には家族も仕事も捨ててイエスに従った者がおり(マルコ1:16-20)、安定した収入の手段を持たない彼らの食料がこのようにして賄われていた可能性は高い。ところがこの日は安息日であった。1週間の中で1日だけ、安息日には収穫のための働きも禁じられていた(出エジプト23:12-13。「牛やロバや奴隷たちの元気を回復するために」とされる)が、イエスの時代には「労働とは何か」という定義が相当細かくなされていたようである(「何を労働とみなすか」について39項目の規定があった。後には234項目に及んだという)。子どもを抱きかかえる行為も「運搬労働」と看做されたほどであったので、例え他人の畑から実を取ることが許されていたとしても、それは「収穫労働」であると考えられたのである。そこで、特に律法の遵守を重んじたファリサイ派の人々が、イエスの弟子たちの行為を取り上げて非難したのだった。

それに対してイエスは、イスラエルにおける伝説の英雄であったダビデのことを持ち出して反論したのであった。ダビデとその家来たちは、空腹だったので祭司にパンを分けてもらったが、それは元々神に献げるためのパンであり、それを食べられるのは祭司だけと決められていたが、その掟が緩やかに用いられていたことを示して「人が安息日のためにあるのでなく、安息日のために定められたのである」と、弟子たちには何の落ち度もないことを論証したのであった。

ここで「だから人の子は安息日の主でもある」と語られているのに唐突な印象を受ける。旧約聖書において「人の子」というのは、もちろん人間のことを指して使われることも多いが、終末において審判者として遣わされる者が「『人の子』のようなもの」と形容されていることを踏まえて、イエスの時代にはメシア的存在を指す決まり文句的な言葉として用いられていた。メシア(救い主=キリスト)がイエスであることを考えると、まるで「わたしがいいと言ったらいいのだ!」と主張をごり押しするような発言のようにも感じられるが、イエスはここで弟子たちの行動を正当化するためだけに語っているのではない。

もともと1週間の7日目(土曜日)を安息日とする規定は、上述のように「牛やロバや奴隷を休ませるため」として広まった習慣のようである。しかしイスラエルの民は、歴史的に何度も他の民族の奴隷とされた体験(決定的だったのはバビロン捕囚事件であろう)を重ねる中、民族的自決権(自由)をとても重んじるようになったのであった。

その事情を良く反映しているのが、創世記1章〜2章における「7日間の天地創造物語」である。世界を造り終えた神が7日目に休みを取ったように、地上の支配者として造られた「神の似姿(神のイメージ)」である人間も、1週間に1日完全に休みをとることが、その自由さを示すバロメーターである、とされたのであった。奴隷状態の者には休日が保証されない。望まない仕事を課せられた上に休みが与えられないということは即ち「奴隷」である証拠にほかならず、イスラエルは自由の民として「奴隷状態」を退けることを大切に考えたのである。全ての労働を禁じる安息日という発想は、休日を奪われるという奴隷体験を経て生まれたものであった。そこで、イスラエルにおいては外国人であろうと奴隷であろうと、家畜から耕作する土地そのものにまで「安息」の規定が敷かれたのであった。

つまり安息日は、もともと「自由の象徴」だったのである。ユダヤ教そのものも、イスラエルに自由を与えてくれた神に対する感謝の体系であるはずだった。

しかしいつの間にか、神への感謝の仕方を集大成したはずのものであったユダヤ教は、支配者と衝突させないために民衆をコントロールする道具として用いられ、安息日も様々な規定によってかえって民衆を縛る口実になってしまっていた。つまりこの時代、人の自由のために定められたはずの安息日は、人の自由を奪う規定とされていたのである。

イエスの弟子たちが、この「安息日の規定」について知らなかったとは考えにくい。「腹が減ったので、ついうっかり破ってしまった」という種類の規定ではなく、彼らもその規定にガッチリと縛られていたはずだからである。むしろ「人が安息日のためにある」と言わんばかりの強制力を持ったそれらの規定に対する異議申し立てとして、イエスがわざと安息日に麦の穂を摘むことを弟子たちに命じたのではなかったか。というのは、イエス処刑の場面を先取りして読むと、イエスが殺害されたのは安息日の前日のことであり、何とか安息日に入る前にイエス処刑を達成しようと、大急ぎで準備が進められた事が見て取れるからである。

イエスは、安息日遵守のために大急ぎで有罪宣告され、処刑されたのであった。

つまりイエスは「安息日のために人がある」という価値観の下に殺害されたのである。イエスの十字架へと向かう戦いは、この弟子たちが麦の穂を摘んだ出来事において、既に始められていたのである。

これは、「自由を与えてくれた神への感謝」というユダヤ教本来のあり方が失われている事態の告発であり、「自由の象徴」という安息日本来の意味を回復せよと迫る物語である。が、それ以上に、イエスその人が全き自由を持ち行使する存在であることが示されている物語でもある。それは、「イエスがその自由に基づいて十字架にかかることを選んだ」ということである。イエスは我々のためにいやいや十字架に掛かったのではない。何かの失敗を補うためにやむなく十字架に掛けられたのではない。そうではなく、我々を愛するために、愛するが故に十字架に掛けられたのである。自由を奪われ死んだようになっている我々人間を解放するために、そして人間に対する神の熱烈な愛が我々の自由を回復するためだけに向かって来る事を表わすために、イエスは十字架に掛かったのである。

イエスの僕たる教会のことを考える。教会もまた「人のためにある教会」である。その維持の困難さから、我々も「教会が人のためにある」ことを見失い、「人が教会のためにある」かのように考える誘惑に絶えずさらされる。しかし、イエスが十字架を「自由に」選ばれた事に注目するとき、「教会に行かなければ救いがない」とする考え方は、むしろイエスが攻撃する種類のものであることを悟らなければならない。

極端に言えば、教会の一員としていることが辛くて仕方がないときには、敢えて教会にとどまることすら必要はない。そんな事で神からの愛が途絶えることはあり得ないからである。キリストが十字架にかかるために世に来られた事を思うとき、我々はむしろ、教会生活から遠ざかるような、いわゆる「罪深い」生活のただ中にある時でも、というより「罪深い」生活にあるほど、最も神の愛に深く捕えられているのだ、ということを知らなければならない。

念の為に言えば、それは「教会に来るべきではない」という意味ではない。喜びの教会生活から最も遠いような、自由が全く奪われ死んだようになっている人にこそ、神の愛は注がれているのだ、ということである。その確信を伝えるのが教会である。そして、その神の愛に「自由に」応答することを促すのが、教会の働きである。

我々の集いが「人のための教会」として用いられることを願う。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

6月14日の礼拝後、不調だった何人かの役員が元気を取り戻したので、臨時役員会を開きました。議題は「転入希望者の受け入れについて」でした。5月の時点で既にその希望者に関する薦書を受け取っていたのですが、なかなか役員会が開けなかったので宙に浮いた形となっていました。ようやく受け入れを決議したので、次回その方が来会された時に転入式を行なう予定です。これで浪岡伝道所の現住陪餐会員は12名になります。

この方はパソコン通信やFAXのやりとりができる環境にはありませんが、ある事情でかなり頻繁な連絡を取り合う関係にあり、可能な限り2週間に1度のペースで礼拝に出席する意志があることと、将来的にはパソコン通信が可能になるとも予想されることが決定打となり、遠隔地にありながらも受け入れを決断いたしました。何より転入を希望される理由が、「この教会に来て、また教会生活を続けられる、という喜びを取り戻した」というものでした。これはわたしたちにとり、とても大きな慰めと励ましでありました。

転入式は早くても7月初頭になるかと予想されますが、その時にはこの欄において自己紹介の文章を転載するつもりであります。とりたてて有名人というわけではありませんが、「えっ、この人が?」と驚かれる人もあるのではないか、とほくそ笑んでおります。そして、素性が明らかになった時点で、頻繁に連絡を取り合っている「ある事情」についても、同時に理解していただけることでしょう。

実は、この方の他にもうひとり、浪岡伝道所への転入を希望されている方があります。こちらは更に遠隔地にお住いですが、パソコン通信開始の環境を急速に整えつつあり、「いま籍を置いている教会よりも、パソコン通信でアクセスできる浪岡伝道所の方が、よりアクティブな教会生活を送ることができる」と転入の動機を語っておられます。

またひとつ新しい教会形成の道が開かれた、との思いを強くしています。どうかこの可能性が祝福されますよう、共に祈って下さいますように。

(最近「乞う、ご期待!」が増えてきたなあと思うTAKE)