竹迫牧師の通信説教
『罪を赦す権威』
マルコによる福音書 第2章1−12 による説教
1998年5月17日
浪岡伝道所礼拝にて

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」 そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。(10−12)

今日の聖書箇所から、イエスの「戦い」が開始される。イエスは多くの病人を癒すが、それをユダヤ教の指導者たちが問題として取り上げ、やがてイエス殺害を計画し始める。「治癒の奇跡」を読む時、我々はイエスの力の偉大さに目を留め、時にそれが自分の身にも起こることを願う。イエスの物語が伝えられる背景には、人々のそうした願いが大きな動機であったことは間違いない。神のもたらす救いが社会的な拡がりを持つばかりでなく、ひとりひとりの「個人」を見つめるものである事も、やはり読み取られるべき重要な要素ではある。

しかしマルコ福音書記者は、イエスの行なう奇跡が、癒されない苦しみから人を解放したばかりでなく、その力がイエスとユダヤ教指導者たちとの衝突を引き起こすきっかけとなったのであり、やがてイエスが、イエス自身の力によって「十字架」に押しやられていく経緯を描き出そうとするのである。

イエスによる「癒しの奇跡」は、イエスの「戦いのための武器」であった! 

この事を心にとめつつ、今日の箇所を読みたいのである。

イエスはガリラヤ地方を巡回して、再びカファルナウムへ戻ってきた。イエスがあちこちで病人を癒したという評判が知られていたのか、以前にも増して多くの人々がイエスの下に集まってきた。イエスはここで「御言葉を語って」いたと記される。イエスの「宣教」が、言葉によるものだけでなく治療行為をも伴っていたことは以前にも見てきたが、ここでは逆のこと=イエスの活動は治療行為だけに還元されるのではない事を確認したい。たとえばマタイ福音書にはいわゆる「山上の説教」が収められているが、同様に「神の国」の接近に関する言葉による教えもまた、イエスの宣教活動であった。「イスラエルのエジプト脱出」の昔から囚われの民を解放してきた神の力が、今や全面的に現わされる時が近づいている! そのための備えをせよ! とイエスは教えていたのに違いない。それは、抑圧されている人々にとっては解放が与えられる希望の約束であり、逆に抑圧を与えている人々にとっては没落の警告である。同時に、両者にとって「自分は神から見て、どのような立場にある存在なのか」を問われる問題提起である。

今日にも至る所に見られる差別問題に注目する時、多くの場面で「抑圧」の関係が構造的なものであり、また重層的なものであり、そして連鎖的なものであることに気付かされる。差別する人は、別の局面では差別されている者であったりするのである。限定された場面では、一方を被害者・一方を加害者に位置づけることは可能である(多くの場合は簡単である!)が、別の場面では、加害者であったはずの者が実は被害者であったり、また被害者であったはずの者が加害者に転じていることすら少なくない。

わたし自身はかねてから統一協会問題に関っているが、統一協会教祖=文鮮明という人物の生い立ちに着目すると、彼をあれほどまでに怪物的な人物にしてしまったのが、他ならぬ我らの国=日本である、という事実に気付かないわけにはいかない。日本が朝鮮半島を侵略し、植民地として支配していた時代、青年であった当時の文鮮明は、実にはらわたの煮えくり返る思いを日本人によって味わい続けたのである。彼が日本人信者を奴隷のようにこき使う背景に、当時から蓄積していた怨念が渦巻いていることは間違いない。無論、そのことをもって彼の犯罪を赦免することは、今日においては不可能なほど、その被害は深刻であり甚大である。だが、彼ひとりを断罪することも、やはり不当と言わざるを得ない歴史的な経緯があるのである。

同様のことは、いま話題となっているインドの核実験や、インドネシアで続いている「内乱」についても言える。それぞれの「限定された場面」では、核武装は許されるべきでないと言い得る(ただちに言わなければならない!)し、民衆を武力で抑えつけてはならないと言い得る(これもただちに言わなければならない!)が、それぞれの背景に目を向ける時、それだけを言った所で正当なさばきとはなり得ないのである。問題はもっと重層的であり複雑であるが、より重要なことは、今日の事態を迎えるまで、わが国がそれぞれの事柄に大きな原因を持っており、従って責任を負うべきである、という点である。核兵器については、唯一の被爆国としての発言の責任があるが、しかしアメリカの核の傘に依存してきたというこれまでの経緯と、原子力産業におけるプルトニウム(核爆弾の主原料)備蓄(つまり核兵器保有に至り得る合法的な準備)という現在進行中の問題を棚上げして発言する資格は本来ない。民衆の弾圧についても、民主主義国家としての発言の責任があるが、しかし弾圧する側に経済協力をし続けているというこれまでの経緯と、何より国内における民主主義の空洞化(海外派遣を可能とする自衛隊の存在はその典型!)とを棚上げして介入する資格は本来ない。そうした自覚なしになされる罪の告発は、全く空しいものであると言わなければならない。

このような現実に目を留める時、イエスの宣教に向き合う我々がまず受容しなければならないのは、解放への希望よりも、没落への警告ではないのか。もちろん個人・社会レベルで考える時、我々の周囲(日本国内)には抑圧されている隣人が多く置き去りにされているという現実がある。その隣人のために祈り闘う人々の存在がある。神の国の福音は、その人々に希望をもたらすものとして届けられるべきである! しかし同時に、「この国の住民である」という事実が示す『罪』の問題を避けて通ることは許されないのではないか。

イエスの宣教する「神の国の接近」に、我々は希望を見る。希望は福音の本質だからである。だがその希望は、同時に神のさばきに対する恐怖が伴うものであることを、我々は忘れてはならないのである。

イエスの言葉に聞き入る群集の後ろに、「中風」(脳に起因する疾病を思わせるが、どのような病気であるかは限定できない)で寝たきりの人をベッドごと運んできた4人の人物がいた。この4人と病人との関係は明らかではないが、病気に苦しむその人を放置できないという、止むに止まれぬ思いに突き動かされての事だったのだろう。4人は人々がひしめく戸口から入ることが出来ないと知ると、屋根に登り屋根板を剥がして病人を室内に吊り下ろすという、常識を疑うような行動に出たのであった。

イエスは、この4人の信仰に目を留め、「あなたの罪は赦される」と宣言したのである。ここに、今日における抑圧と闘う人々にとっての慰めがある。「本来ならば、自分たちにその資格はないかもしれない。しかし、やらなければならない!」と走り出していく人々を、イエスは祝福するのである。病気というものが「神への背き」という罪の結果であると考えられたこの時代にあって、この「やむにやまれぬ行為」は、「神の支配を宣べ伝えるイエスになら、癒せるかもしれない」という希望を目指して実行された信仰的行為であった。しかしこの4人は、イエスの宣教の「コトバ」に感心して病人を連れてきたのではなく、イエスの癒しの力の評判に突き動かされて行動したようにしか思われないのである。今日、不正や抑圧と闘う人々は、必ずしも「イエスによる癒し」に信頼していないかもしれない。しかし、「放置できない!」という止むに止まれぬ思いは、「ひょっとしたら解決できるかもしれない」と思われる突破口を目指して突進するのである。それは、まだ見ぬ希望を目指して行われる信仰的な行為であり、祈りに基づく行為である。イエスは、そのような信仰を祝福したのである。

(「あなたの罪は赦される」というイエスの宣言は、「全ての病気は罪の結果である」という普遍的な真理を指す言葉ではない。まさしく「自分の病気は、人々に言われている通り罪の結果だ」と思いこまされているこの病人の、解決されない苦しみによる絶望を打ち砕くために語られた希望の宣言である。)

そこに座っていた律法学者たちが「イエスは神を冒涜している。神以外に罪を赦す権威を持つ者はいない」と心の中で呟いた。「罪を赦す権威を持っているのは、神おひとりである」という律法学者たちの「神観」は、もちろん正しい信仰理解である。しかしそれは、同時に「罪をさばく権威を持っているのも、神おひとりである」という理解に結びつかなければならないはずであった。「罪を赦す権威」を持っている、ということは、「罪をさばく権威」をも持っているということなのである。

だが彼らは、「この人の罪は赦されなければならない」と考えて病人を連れて来ることはしていなかった。むしろ、癒しを求めて駆けつけたこの4人を阻むかのように、群集の最前列に座りこんでいたのである。彼ら(そこには、マルコ福音書成立当時のユダヤ教指導者たちが重ねられていたことだろう)は、今日を生きる我々一般の「普通人」と同様に、「罪を赦す権威」のみを神に帰し「罪をさばく権威」は自分たちの特権として保留し、独占していたのであった。彼らの心の内には、人々を救わなければ、という「止むに止まれぬ思い」がなかったのである。祈りもなく、希望が実現されるという信仰もなかったのである。

だからイエスは、この病人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい!」と命じたのである。癒されなければならないのは、誰なのか。赦されなければならないのは、誰なのか。それは、「止むに止まれぬ思い」に突き動かされて僅かな希望にも突進していく人々であり、「この苦悩は罪の結果だ」と悩み絶望している(自分自身をさばいている!)人々である。その事を示すために、イエスはこの病人に回復を「命じた」のである。苦悩する人への癒しを求めないという「罪」を自覚せず、その結果癒されることも癒すこともない人々(ここでは「群集の最前列に座る律法学者」たち)の悔い改めのために! 「神の国の接近」が、希望であると共にさばきであることの恐怖を知るべき人々のために! そこには同時に、神の前に癒されない苦悩は存在せず、正当な信仰とは言えないかもしれない「止むに止まれぬ思い」に突き動かされて突進する人々の祈りは必ず祝福されることが示されているのである。

病や抑圧の苦悩は、それを放置したり更に増し加えたりする人々の悔い改めのために、我らの目前に置かれた神からの賜物である。神は、それを必要な時に用いるために、回復すること・回復されることをすら、我らに命じてくださるのである。そして、罪を赦し、またさばく権威を持つ神の命令は絶対である! 神が命じる時、我らの苦悩・祈りは、たちどころに癒され・聴き入れられるのである。

「神の国の接近」がもたらす希望と恐怖を、受け止めて歩みたい。そして、我らの歩みが「罪を赦す権威」に服し、その権威を持つイエスによって用いられることへの確信を保ちたい。いかに事態が絶望的に見えようとも!

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

急な腹痛で説教をギブアップした先日の土曜日以降いろいろと検査を受けましたが、結局「原因不明」と診断されました。そうこうしているうちに痛みは消えてしまったので、学校に行きたがらない子どもが起こす体調不良に類するものだったのかな、という気がしています。

そんなに礼拝(説教)がイヤだったんだろうか…。

さて、そんな事情もあり、かねてからファンでありました山本正之さんの主宰する劇団の公演を観劇するため、思い切って東京に出かけました。山本正之さんはシンガーソングライターですが、『燃えよ! ドラゴンズ』で作曲家としてデビューし、『開けチューリップ』などのコミックソングを幾つか発表したあと、テレビアニメ『タイムボカン』の主題歌で歌手デビューしたのでした。以降、『ヤッターマン』『ゼンダマン』などを始めとするタイムボカンシリーズの音楽を担当され、『おじゃまんが山田くん』『黄金戦士ゴールドライタン』などのアニメ主題歌を作り続ける傍らでNHKの「みんなのうた」にも作品を発表して来られた方です。最近は1年に1枚のペースでソロアルバムを制作され、ここ10年は演劇作品をも手がけてこられたのでした。

「クレイジーキャッツが大好き」と自ら語る山本さんは、日本語の特性を活かした歌作りにこだわります。現在日本で主流の音楽は欧米で整えられた文化に立脚しているために、日本語特有の語感が歪められる傾向があります。英語的な発音で歌われたり、日本語の歌詞に突然サビの部分で英語の歌詞が挟まれたりするのは、そうしないと音楽体系との不整合が生じて歌詞がうまく収まらないためであろうと思いますが、山本さんは飽くまでも日本語にこだわり、ダジャレを連発する特異な作品を生み出し続けるのでした。

今回の演劇『STRANGER』は、大西洋無着陸横断に挑戦中のリンドバーグが江戸時代末期の日本にタイムスリップして不時着する所から始まりました。戦争で傷を負い「大好きな飛行機で人殺しをしてしまった」と悔やんで飛行機乗りを引退した親友が「飛行機は殺人の道具ではないということを、人類は地球のかわいい冒険者だということを、みんなに解らせるんだ」という信念に基づいて設計したスピリット・オブ・セントルイス号に乗って、リンドバーグは大西洋横断に出発したのです。

その友情に感激して、破損したパーツの修理のために自分の「武士の魂」を差し出すのが、「空から大地を見下ろして地図を書きたい」と夢を見る若き日の間宮林蔵でありました。やがて間宮とリンドバーグはバテレン狩りに燃える奉行の手に落ちますが、実はその奉行、1945年からタイムスリップしてきた日本帝国軍の特攻隊員であり、スピリット・オブ・セントルイス号を奪って自分の時代に帰ろうと狙っていたのでありました。しかし飛行機に込められた「飛行機は殺人の道具ではない」という願いに心を動かされ、2人を解放するのでありました。

青森から飛行機に乗ってこの演劇を観に行ったわたしは、何やら『STRANGER』の物語世界に引き込まれ、その中を漂っているような気分になったのです。

自分もまた「人類は地球のかわいい冒険者なんだ!」と語るために、この演劇に招かれたような気がしたのでした。

憧れの山本さんにお会いできた事もあり、とても元気になって再び青森へと飛び立ったのです。

(ところが飛行機に乗り遅れて帰宅が1日延びたTAKE)