竹迫牧師の通信説教
『骨の骨、肉の肉』
創世記 第2章18−25 による説教
1998年3月28日
ホテル鹿角 チャペル「クレーシス」にて

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。(18)

「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉/これをこそ、女と呼ぼう/まさに、男から取られたものだから。」

先ほどお読みした「創世記」に記されたこの言葉は、古代のパレスチナにおいて、結婚式の際に歌われた歌の1節である、と言われます。人間をお造りになった神は、しかしその人間を見て言うのです、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。人間は、独りぼっちでは人間ではない。本当に相応しい「助ける者」同士の生き方なくして人間は有り得ない、と聖書は語るのです。

では「助ける者」とはどんな存在でしょうか。何か仕事をする上でのアシスタントでしょうか。疲れた時や落ち込んでいる時の慰めとなるような存在でしょうか。

遠く離れた所に生きていて、その存在を時々確認するような存在でしょうか。

神は土から様々な動物を造り、人の所に連れてきます。人はそれらの動物を見て、それぞれに相応しい名前を付けて行きます。人間は、言葉でものを考えます。

名前をつけるとは、その存在が一体自分とどんな関係を持つのかを決めて行く作業なのです。人は、それぞれの動物たちに、相応しい名前を付けて行きます。

ある動物は、畑を耕すのに力を発揮する家畜になりました。ある動物は、時々畑を荒らすような野獣になりました。ある動物は、餌を与えればなついてくれるペットになりました。そして他の大部分の動物は、自分の生活とは直接関係のない、時々その存在を思い出すような動物となりました。人はそれらの動物に名前をつけ終り、しかし自分に合う「助ける者」を見付ける事が出来なかったのです。

私達人間同士の関係を考える時、この物語は実に多くのヒントを与えてくれます。世の中には多くの人々がひしめきあっています。ある人々は、自分の仕事を支えるのに大いに協力してくれます。ある人々は、自分に害をもたらす事があります。ある人々は、見返りを期待して仲良くしてくれます。そして他の大部分の人々は、自分の生活とは直接関係することなく、出会い・別れて行きます。これらの人々は、同じ人間ではありますが、本当の意味で「自分に合う助ける者」とは言えないのです。

そこで神は、人からアバラ骨を抜き取り、それを元に女を造ります。そうして生まれた女を、人は「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と表現し、女と名付けて、自らを男と名付けます。男性主体で書かれていますから「女性差別だ」と言われる事も多い物語ですが、大切なのは「自分に合う助ける者とは、自分と同じ本質をもった存在なのだ」という点です。自分の存在を支えてくれる本当に大切な相手を見出だし、また自分も相手を支える者へと成長する決意をすること。これが、聖書の勧める人間関係であり、結婚なのです。今日結婚されるお2人が、助け合う者たちとして成長するよう、またお2人を囲む私達もそのような者たちとなるよう、決意を込めて祈りたいものです。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

説教準備にあたっていた5月9日土曜日の夜半、背中を丸めて動けなくなるほどの急な腹痛に襲われ、病院に駆け込みました。「尿管結石ではないか」「膵炎ではないか」等の予測をもとに検査を繰り返しましたが、結局は原因不明のまま、痛み止めを注射してもらって帰宅しました。薬の作用か、手足がだるく思考もまとまらなかったので、ついに5月10日の礼拝説教はギブアップし、礼拝の時間はずっと布団の上で過ごしました。浪岡に赴任して以来6年間で初めて病気で礼拝を休んでしまったのでした。

思えば、連休の最中から背中が痛かったのでありました。単なる肩こりかと思っていましたが、まさか腹痛の予兆だとは思いませんでした。地区諸教会で結成している「奥羽教区北西地区」の総会と、翌11日に開催された地区の牧師会も欠席して、さらに検査を受けましたが、いまだに原因はわかりません。

「まあ、健康診断を受けるついでに仕事も幾つか休めるからいいか」という軽い気持ちでおりますが、どうなることやら。

そこで今回の『通信説教』は、アルバイトで務めているホテルの結婚式のために用意した説教をアップさせていただきました。

次回は再びマルコによる福音書の連続講解に戻る予定です。

お互い健康には気をつけたいものですね。

(それでも高校教師たちの飲み会には出席したTAKE)