竹迫牧師の通信説教
『イエスの使命』
マルコによる福音書 第1章29−39 による説教
1998年4月26日
浪岡伝道所礼拝(東奥義塾・聖愛高校入学記念礼拝)にて

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである。」(38)

今日の聖書箇所は、様々な病を治療するイエスの働きから始まっている。始まりは、弟子となったシモンのしゅうとめが熱を出して寝込んでいる所に、イエスが滞在したことであった。既にイエスは、大勢の人々が見ている前で悪霊に憑かれた人を癒しており、それを見たシモンが自分のしゅうとめの病気であることを思い出してイエスを連れてきたのであろう。イエスは早速シモンのしゅうとめを治療したが、これを見た人がウワサを広めたのか、たくさんの人々が続々と病人を連れてイエスを訪ねて来る事になった。

直前の「汚れた霊に取りつかれた男」の癒しの場面と対比すると、イエスはユダヤ教の会堂という公的な場所で男を癒した直後に、シモンの家という私的な場所で女を癒した、ということになる。イエスは、あらゆる場所であらゆる人に向き合って下さる方だ、ということが示されているのである。そこで、身分が低かったり貧しかったりして、公の場所で発言したり希望を述べたりする事ができないでいた人々がイエスの所に集まって来る事になった。中には、当時は治療が困難であると考えられた「悪霊に取りつかれた(=今で言う精神病)」人々も多くあった。イエスはそれらのひとりひとりに向き合って、治療を施したのであった。

人々は夕方になって日が沈んでから病人たちを連れてきたと記される。この日は日没まで「安息日」であり、治療のためであっても病人を連れて歩くことは禁じられていたのである。従って、イエスの治療活動は深夜にまで及んだものと想像される。

さて、翌朝まだ暗いうちに、イエスは人のいない淋しい所に出かけていって、独りで祈っていた。この時、イエスは何を祈っていたのだろうか。深夜にまで及ぶ治療の後であった事を考えれば、恐らくは様々な病気に苦しみ悩む人々のために祈っていたのである。探しに来た弟子たちに「近くのほかの町や村へ行こう」と語るイエスは、その直前まで、イエスが現われるまで病気の苦しみを抱えたままじっと耐えるほかなかったこの地域の人々の事を思い、同じような境遇の人々が他の町や村にも大勢いる事を考えていたのである。イエスは弟子たちに、「ほかの町や村でも宣教する。わたしはそのために出てきたのである」と語る。弟子たちは、シモンの家がある町(カファルナウム)にイエスを連れ戻そうと考えていたのだが、イエスは他の町の人々をも救う事を考えていたのであった。

興味深いのは、イエスがここで行なった事の大部分は「治療行為」だったにも関らず、イエスがそれを「宣教」(=教えを宣べ伝える事)と言っている点である。マルコ1:15を読むと、イエスの宣教は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という内容であったことがわかる。ここで言う神の国とは、神が支配する世界の事である。神が支配する、というのはどういう事なのか。当時、イエスが活動した地域に住む人々は皆、この世界は神が支配するもの、と考えていた。しかし実際には、ローマ帝国という巨大な国家が支配していたので、イスラエルの人々の間には不満が溜まっていた。イスラエルの人々にとっては、ローマ帝国の支配から脱出して、イスラエル王国が独立する事が「神の支配」だと考えられていたからだった。そこで、ローマ帝国から国を独立させる人物が現われる事が望まれていたのであった。

しかし、イエスが宣べ伝える神の支配は、人々が期待するものとは違っていたのである。イスラエル王国が独立する事ではなく、全ての人々が、神以外のものによる支配から解放される事が、イエスの語る神の国の福音であった。貧しさや身分の低さや病気や差別などで何重にも縛りつけられている人々が、神によって解放されることが、イエスの宣教する神の支配だったのである。

だから、イエスの宣教は、ことばによる教えにとどまらなかったのであった。

病人や悪霊に取りつかれて苦しむ人、その上更に、身分が低かったり貧しかったりして、その苦しみから解放される希望を失っている人々に対する癒しを伴うものであった。イエスにとり「神の国の福音」は、具体的な現実として現われるべきものだったのである。イエスの働きは、希望の回復を目指したものだったのである。

だからイエスは、言葉で教えるだけでなく、癒しの働きにも力を入れた。というより、癒しの働きそのものを「宣教」と考えたのであった。癒しとは何か。失われた希望を回復することはもちろん、そもそも希望を奪い取るような原因と対決する事でもあるのである。病気そのものよりも、病気を理由に人を痛めつけること。貧しさそのものより、貧しさを理由に人を排除すること。身分そのものより、身分の違いを理由に人を押さえつける事が、イエスの戦うべき相手だったのである。

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」とイエスは語った。イエスが戦いに乗り出していくという決意を、ここで宣べているのである。

教会は、このイエスの使命を受け継ぐ共同体である。教会がイエスの宣教を受け継ぐ時、「神の国の福音」を具体化する働きが求められる。それは、イエスの戦いに加わる事なのである。病気や貧しさや差別など、闘うべき相手は現代にも多く残っている。わたしたちの住むこの社会にもイエスの力が現われるよう、祈ること、そして実際にイエスの使命を受け継いで戦いに加わっていく事が、教会に求められている働きなのである。

イエスの語る福音が、絵にかいた餅でなく現実を撃つ力である事が、癒しの出来事を通じて明らかにされた事が、聖書には記されている。もし我ら自身が病気や貧しさや差別による苦悩を味わう時があったとしたら、その時こそ、イエスの力がわたしたちに臨む瞬間である事を知ろう。神の支配が、わたしたちの上にも近づいている。その希望を堅く保つ事から、我らの戦いは始まるのである。我らも、祈る事から始めたい。自分・隣人・社会に神の支配が及び、全ての癒しが起こるように願う事から始めよう。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

知人から『勇者王 ガオガイガー』というロボットアニメのビデオを借りて、全52話中、36話まで観ました。テレビ放映はこの3月で終了し、ビデオもまだ全巻は発売されていないとの事でした。

久々に、合体ロボットものの王道を行くような作品です。『機動戦士ガンダム』以降、主人公が戦いの意味に悩んだり、人間型ロボットが登場する必然性を詳細に設定する「リアルロボット路線」の作品が増え、それはそれで楽しいもの(そればかりか、反戦・人権など注目するべきテーマも数多く含んでいるもの)でしたが、そうした方向性は昨年の話題作であった『新世紀 エヴァンゲリオン』でほぼ語り尽くされた観があったように思います。

『勇者王 ガオガイガー』では、事故で全身を機械化した主人公が登場しますが、この人物がそもそも悩んだりしないのです。かなり深刻なシチュエイションでも「おれは勇者だ!」の一言で乗り越えてしまいます。複数のマシーンが合体して人型ロボットになる理由も特に説明がないばかりか、そのロボットが口をパクパクさせて叫んだりするのですから、およそリアリティというものの射程外です。

続々と登場する新しいメカニックも、なぜか熱血な人格が宿る人工知能を搭載し、ひたすら勢いで敵を倒してしまいます。そういう部分だけ取り上げると、玩具メイカー主導でキャラクター商品の購買を煽るだけに専念する、かなり反動的な作品でしかないようにも感じられます。

それでもこの作品には、見逃せない新しい要素が幾つもあります。例えば主役メカのガオガイガーですが、独力では合体する事ができず、政府機関の施設に保管される合体プログラムのサポートを必要とし、その合体プログラムもその都度官僚の承認に基づいて発動しなければならない仕組みになっています(その官僚もかなり熱血な人物ではあるのですが)。そして、一旦合体してしまうと、専用の設備で解体しなければ元の状態に戻る事ができません。そればかりか、各種の「必殺技」も、特に破壊力の甚だしいものは厳重なプロテクトのもとに管理され、やはり「承認」に基づいて発動する仕組みになっています。つまりガオガイガーは、地球防衛のネットワークの「端末」として位置づけられているのです。自然にストーリィは、主人公の頑張りではなく、主人公と彼をとりまく人々のチームワークを中心に流れていく事になります。従来のヒーローものに特徴的だった、「一旦主人公が搭乗してしまえば、周囲はスーパーロボットの働きを黙って見ている他ない」という依存的な世界観とは、大きく一線を画していると言えるでしょう。

更に、この作品には従来の同一ジャンル作品には見られなかった独特の人権感覚が感じられます。主人公たちが闘う「ゾンダー(ああ、反動的なネーミング!)」は、社会生活において生じた何らかの軋轢にストレスを感じる人々が、地球外の機械生命体「ゾンダリアン」によってそのストレスを増大させられた結果、怪物化してしまったものとして設定されています(それも物語の初期の段階でのお話であり、徐々にゾンダー化させられる人々は無差別に選定されていきます。恐らく、ストレスというものが現代人の宿命だということが、暗に示されているのでしょう)。主人公たちは、幾ら町が破壊されようと、また自分たちがどんな危機に見舞われようとも、ゾンダー化したその人を救い出す事に全力を傾けるのです。

最初の頃こそ、ゾンダーの正体を見極めるために、ゾンダー化した人は拘束され検査を受けますが、怪物化の因果関係が確かめられた後には、ほとんど自動的にそのまま社会復帰さえさせるのです。

かなり反動的な作品のように見えながら、従来のリアルロボット路線において追求されていた「我々はなぜ闘争するのか」というテーマこそが、実は『勇者王 ガオガイガー』の大きな主題なのだ、と思うのです。全体のために少数を切り捨てる、という価値観の下に展開される事の多かったこれまでのロボットアニメとはまったく逆の方向性、「ひとりのために、どんな犠牲をも厭わない」というあり方が全面に打ち出されているのです。

地下鉄サリン事件から3年が過ぎましたが、オウム真理教の中で展開されていた「ポアの論理」とは、「より大きな目的のために、小さな犠牲にはこだわらない」という価値観です。無差別テロも大きな目的(新国家建設)のため、と正当化されていたのであり、また程度の差こそあれ、我々の社会でも同様の論理が流通しています(だからこそ、オウムを撃つ力を、我々は持ち得ないでいるのです)。

大抵の子どもがロボットアニメというメディアを通じた消費体系に取り込まれている現実を見る時、アニメやマンガなどの子ども向け番組を始めとするサブカルチャーが、オウム真理教の打ち出した価値観の下地を形成してきたことは間違いないように思われます。そして、例えば大きなホールに惨劇の被害者がずらりと並べられたりする地下鉄サリン事件の再現であるかのような『ガオガイガー』における描写などを見る時に、制作者たちがその事への自覚を確かに持って作品づくりをしていることを感じるのでした。

まだ16話の未見部分が残っていますが、そのテーマがどのように展開されていくかを楽しみにしたいと思います。

(むしろ『インディペンデンス・デイ』のヒドさに頭を抱えてしまったTAKE)