竹迫牧師の通信説教
『神の国の福音』
マルコによる福音書 第1章1-15 による説教(3)
1998年3月29日
浪岡伝道所礼拝にて

それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。(12−13)

これまでマルコによる福音書の主題が、「十字架へ向かうイエス=キリストの物語」(=即ち「十字架から読み直すイエスの物語」)を描き出す事である、ということを見てきた。マルコ福音書記者は、圧政者であるローマ帝国と近隣の諸国民・およびかつての同胞であるユダヤ人たちから、二重に憎悪されながら生きていかなければならなかった初期キリスト者たちに、全く同質の「二重の憎悪」に追い立てられて十字架に絶命したイエスの姿をもってそのキリスト性を論証する逆説を語るために福音書を構想したのである。

マルコ福音書記者は、当時のユダヤの人々が熱望し、またその期待に応える者が続出した「政治的・軍事的メシア」に対するはっきりした拒絶を、この1:1-15において既に展開している。人々の「二重の憎悪」を跳ね返し屈伏させるために栄光・権力・支配を求めることは、神の与えようとした救いとは何の関係もない、と訴えようとしているのである。この後十字架の死に至るまで語り続けられるイエスによる宣教内容の要約である「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉も、「二重の憎悪」を引き受けることによって(即ち十字架にかかることによって)イエスのキリスト性が明らかにされる、という文脈から読まれなければならない。

さて、イエスは宣教活動に乗り出していくに先だって、荒れ野に出てサタンからの「誘惑」を受けた、と記されている。ここでは「誘惑」の内容は明らかではない。マルコ福音書を直接の下敷きとして書かれたと言われるマタイ・ルカ両福音書においては、空腹のイエスに「石をパンに変えてみよ」、イエスを神殿の屋根に立たせて「ここから飛び降りてみよ」、そして世界中の国々とその繁栄ぶりをイエスに見せて「わたしに平伏すならこれら全てを与えよう」と迫るサタンの姿が描かれる。マタイとルカでは、その順序や細部に若干の差異があるが、イエスが旧約聖書の言葉を引用しつつそれらを退けたと記されている点では共通している。この「サタンの誘惑」については既に、当時の人々によく知られた伝承が存在していたのであろう。その細部がマルコ福音書に採用されていないことに注目する人々もあるが、「政治的・軍事的メシアの拒絶」というマルコ福音書の主題に照らして考えるならば、マルコ福音書記者もその伝承を当然知っており、それだけでなく福音書に反映させていると考えるべきである。

例えば、イエスは数々の奇跡を起こしてみせた、とマルコ福音書には記される。

そしてその奇跡の多くは、病に苦しむ人々に対する治療行為であった。しかしこれらの奇跡行為は、十字架の場面においては全くイエスのキリスト性を証拠立てるものとは受け取られていなかった事が暴露される。十字架上のイエスに向かい通りがかった人々は「十字架から降りて自分を救ってみろ」と罵り、祭司長や律法学者たちも「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とイエスを侮辱したと記されている。そして、「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶイエスを見た人々が「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか見ていよう」と語り合う姿が記されている。ここでは、キリスト性を証拠立てる奇跡が「自分の命を救えるか」という視点で評価されるのだということが明らかにされているのである。

その事を踏まえてマタイ・ルカの「サタンの誘惑」を見るならば、サタンは明確に「人々の求めるメシアとして立て」とイエスに語っているということがわかる。サタンは単純に、イエス(そして初期クリスチャンと現代の我々)が空腹の中でも頑張れるか、人々に尊敬されるような期待だとか信念を曲げてでも権力者になろうとする欲望を持っていないか、という、「謙遜さ」だとか「神への服従の度合の深さ」だとかを測るためにイエスを試しているのではない。イエスがメシアであるのなら、いったいそれはどういうメシアなのか、ということを明らかにするために、イエスに誘惑を呼びかけるのである。

それは、マルコ福音書記者が直面していた誘惑であり、また初期クリスチャンや現代の我々が絶えず直面させられる誘惑である。それはすなわち、我々は「自分の命を何に使おうとしているのか」という問いかけである。そしてその問いは、我々が苦難の中にある時ほど我々を激しく痛めつけ、我々を転向させようとする力を発揮する。

その誘惑は、例えば「自分が救われずに、何が神の救いか!」という問いに結実する。

我々の背負っている苦難は多様である。貧困から来る生活苦であったり、周囲との軋轢から生じる孤独であったり、過去の記憶や将来への不安に由来する苦悩であったり、病がもたらす激痛や死への恐れだったり、時にはそれらが複雑に入り混じっていたりする。初期キリスト者たちにとっては、我々が普遍的に抱えるそうした苦難の他に、国家や地域住民から、そしてかつての同胞たちから、「イエスの名によって憎まれる」という状況があった。そうした苦難が消し去られることなしに、どうして「神の救い」が語れるだろうか。我々はまず「自分を救う」ための力を手に入れてから、「世界の救い」を考えるべきではないのか。自分の生活さえ成り立たない者が、どうして他人の平和を語れるであろうか。自分の病さえ癒せない者が、どうして社会の病を癒せるだろうか。自分の苦悩を解決できないうちに、他人の痛みを構うことはできないではないか。

これらの言い分に、首肯けるものが多くあるのも確かである。我々はこの種の批判に大きく動揺する。自分のやっていること・自分の信仰の一切が無益ではないかと脱力するのである。

しかしマルコ福音書は、そのような問いを退けて十字架に果てたイエスこそがキリストであると証言するのである! 他人を救ったが自分を救えない者として、神の子・イエス=キリストを描くのである! 

マルコ福音書に、荒れ野の誘惑においてサタンを退けた、という直接の記述は見られない。しかし荒れ野にいた四十日の間、「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と記されている。ここには、イザヤ書に示された「平和」の表象が見て取れる。『狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く』。(イザヤ11:6-10)

イエスは、サタンの誘惑を退けて十字架へと走るのである。その十字架において「その日」の到来が実現するからである。イザヤが書き記した「神の国」は、イエスが十字架への道へと歩み出した時に「近づいた」のである。

荒れ野にイエスを送り出したのは聖霊であることに注目する。我々が苦難の中にあるのなら、我々もまた、教会を立て、イエスがキリストであると信じる信仰を起こさせる「聖霊」によって荒れ野へと派遣されているのである。我々もまた、「野獣と一緒に」いるかのような現実のただ中を歩んでいる。時に「わが神、なぜわたしを見捨てたのですか!」という絶叫を聞き、また我々自身もそう叫ばざるを得ない現実を歩む。

しかしイエスは、サタンの誘惑を乗り越えたのである。「神の国の福音」を語ったのである。我々が呻き、また叫ぶその時こそ、十字架のイエスは我らと共にあるのである。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

『現代のエスプリ』という雑誌(1998年4月号)で「マインドコントロールと心理学」という特集が組まれました。社会心理学者たちを中心に、いわゆるマインドコントロールがどのような仕組みで引き起こされるのか、またそれが人格や記憶にどのような影響を与えるのか、という問題を扱っています。芸能人信者が統一協会から脱会する際の騒ぎやオウム真理教による無差別テロ事件などを経て一般にも広く知られるようになったマインドコントロールですが、その法的な定義は依然として整理されておらず、また危険度に対する認知や対処法などもほとんど行き渡っていないという実態があります。そうした現状に警鐘を鳴らすべく企画されたこの特集は、それぞれの専門分野でマインドコントロール・カルトの問題に取り組んでいる第一人者たちによって書かれた、比較的読みやすい記事がまとめられた秀作であったと感じました。

また、並行して『それでも生きていく−地下鉄サリン事件被害者手記集−』も読みはじめています。オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害を受けた人々によってまとめられたこの本には、突然もたらされた悲劇から3年を経ても、なお癒されない傷を抱えた人々の想いが込められています。被害者への救済策は、弁護士たちを始めとする民間活動に限定されており、警察も報道も、むしろ被害者たちを痛めつける力にしかなっていない現状が生々しく記されています。被害者たちの苦悩の深さ・重さに、なかなかページをめくる勇気が湧いてこないのですが、もっと多くの人々に読まれるべきものという印象を強くしています。

名古屋地方裁判所で争われていた統一協会脱会者による「青春を返せ!」訴訟において、請求棄却(原告敗訴)の判断が下されました。霊感商法を始めとする裁判で「宗教活動であっても、その行為は法律の枠内で評価されるべきであり、違法性が確認されたら処罰の対象となる」という判断が主流になってきた現状に逆行するかのような判決でありました。

「まだまだ先は長いな」という思いでおります。

(またも家庭内引っ越しを始めているTAKE)