竹迫牧師の通信説教
『イエスに従う』
ヨハネによる福音書 第21章15-19 による説教
1998年2月15日
浪岡伝道所礼拝にて

ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(17)

今日の聖書箇所は、「わたしを愛するか」と3度にわたって問うイエスに対し、ペトロが応える場面である。それは十字架に際し、「お前もイエスの仲間だろう」と詰め寄られたペトロが3度に渡ってそれを否定したという出来事を踏まえての問答である。3度目に問われてペトロが「悲しくなった」のは、否応なくあの否認の出来事が思い起こされるからであり、イエスがそのことでペトロが感じている痛みを見据えながら問いかけていることが感じられたからでもある。

わたしたちの教会では、あのペトロの3度の否認が、他の福音書に描かれるような信仰的な弱さに基づくものではない事を読み取って来た。自分も仲間だと思われて処刑されるのが怖いから否認したのではなく、逮捕されたイエスを何とか奪い返せないものかと考えて敵地に侵入したにも関わらず、そうしたイエスの捉え方(人間が自分の力でキリストを守るという考え方)そのものがイエスに対する反逆でしかなかった、とヨハネ福音書が語ろうとしているのを読んだのだった。

それを踏まえて今日の箇所を読むとき、「わたしは自分の弱さを乗り越えてキリストに従うのだ」とペトロが決意した物語としてこれを理解してはならないことになる。どれほどの困難が押し寄せていかなる恐怖に駆られても、それを乗り越えてイエスに従い通せ、という意味に読んではならないのである。

もしそのように、このエピソードがいかなる場面においても勇気を奮い起こせ、というメッセージを伝えようとする物語であるのなら、イエスの3度の問いに対し「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えるペトロの言葉はとんでもなく不遜なものと考えなくてはならない。ペトロは既に、3度にわたってイエスを否認していたからである。ペトロはもっと具体的に「今度は恐れずあなたの弟子であり続けます!」と答えなくてはならない。そしてイエスは、そのような悔い改めを含んだ決意表明がなされない限り、この問答を中止してはならなくなる。しかし、イエスが受け入れたペトロの応えは、あの場面で奮い起こせなかった勇気を今度こそは、と誓うものではなかった。そしてペトロの殉教(十字架刑とも逆さ十字架刑とも伝えられる)の伝承を踏まえて書かれているとされる18節では、「両手を伸ばして(十字架を暗示する言い回し)、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と記されている。自分で勇気を奮い起こして乗り込んで行くというのではなく、他人の力に引きずられて無理矢理な形で望まないところに引き出されていくと述べられているのである。そこには、ペトロの主体性だとか勇気だとかが入り込む余地はない。このエピソードが「かつて発揮できなかった勇気を今度こそは」というメッセージを含んでいないのは、この点からも明らかである。

それでは、イエスが問おうとしたこと、そしてペトロが応えようとしていることは、いったい何だろうか。それはイエスによる「わたしの羊を飼いなさい」との命令への服従である。そして、その服従の「仕方」についてである。

ここでイエスが「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」と述べるその羊とは何のことだろうか。ヨハネによる福音書10章に記される羊飼いの例えでは、羊と羊飼いとの関係について述べられている。羊飼いは羊の所に行くのに、門から入る。門を潜らず他の所から入ろうとするのは、羊を愛さないどころか害をも加えようとする盗人であり、羊たちも自分たちを愛する羊飼いの声を聞き分ける、と語られる。そして良い羊飼いとは、羊のために命を捨てることを辞さない羊飼いであり、イエスが自ら「わたしは良い羊飼いである」と述べている。また、イエスには「囲いの外にいる羊」を導く使命をも負わされていると語られている。そして「囲いの外にいる羊」もイエスの声を聞き分けるのであり、囲いの内の羊も外の羊も、ひとりの羊飼いに導かれてひとつの群れとなる、と宣言されている。

ここには、「羊」はイエスに養われ導かれる「教会」のことである、との理解がある。そして「囲いに入っていない羊」という言い方で、教会の外にいる「イエスによる救いを待ち望む人々」をも含んでいる。しかし、この羊飼いの例えがイエスと対立する当時のユダヤ社会の指導者に向けて語られるという状況設定を考えるならば、「自分こそが羊飼いだ(=自分には羊飼いは必要ない)」と考える人々もイエスに養われ導かれるべき羊なのだ、というメッセージまでが含まれていると言える。この10章においては、「わたしは良い羊飼いである」という宣言に先だって、「わたしは(羊の)門である」とのイエスの言葉がある。「良い羊飼い」であるイエスからその使命を託されていない者は、羊飼いではあり得ない、と述べられていることを読むべきである。

これまで今日の聖書箇所は、牧師の負う使命について説明しているところ、として理解されることが多かった(わたし自身、按手を受けるときとこの教会の牧師として就任するとき、この箇所に基づく勧告を受けている)。ここで初代教会の中心的な指導者であったペトロが取り上げられていることを思えば、教会指導者に負わされる使命について特に語ろうとしているという著者の意図ももちろん含まれているに違いない。だが、「イエスの羊を飼う」という形で「イエスに従う」ということが説明されているのを読むとき、ここには教会の指導者が負わされている使命だけではなく、「教会」そのものが、そして教会から派遣される「信徒」のひとりひとりが、この世にあって果たすべき使命について語られていることをも読み取らなければならないのではないか。

その使命とは、「良い羊飼い」であるイエスが、命を投げ出して愛し通された「イエスの羊」である世の全ての人々を養い導くという務めである。それこそが「イエスへの服従」の唯一の形である。だがそれは、「指導者として立つ」という意味に限定されない。卓越した指導力とか、他に抜きんでた勇気が求められているわけではない。「何があっても自分はイエスに従い抜くぞ」という気合いが求められているのではない。これらは、あればあるに越したことはないが、ないからと言ってイエスに服従していない、という根拠にはならない。自分がイエスの声を聞き分ける羊とされていること! それを知り信じることが何よりも必要である。そして、イエスに従う羊でありたいと願う「祈り」を手放さないこと! 何をなしとげることができるか、が問題なのではない。

時に「こうするべきだが、そんな事はできない。できればしたくはない」と逃げ惑うことがあるかもしれない。それは、我々の目には誉められないことではあるが、決して問題ではありえない。力も勇気も気合いもなく、ただ逃げ回るだけだとしても、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」のである。

そして、我々の目にはブザマに見えるそのような姿でさえ「神の栄光を現すようになる」との約束が語られているのである。

本日、横山由利亜さんがこの教会の仲間となるべく洗礼を受ける。横山さんに求められるのは、そしてそれを受け入れる我々に求められているのは、「イエスに従いたい」という祈りである。何ができるか、何ができたか、は、我々の課題ではあるが、究極的な問題ではありえない。共に祈りを合わせる群れとなること! イエスに導かれ養われる群れとなること! それこそが、我らに要求されるイエスへの服従である。

この日が与えられたことを感謝し、祈りを新たにしつつ出発に臨みたい。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)本日洗礼を受けられた横山由利亜さんから自己紹介の文章が寄せられていますので、以下に紹介をいたします(教会機関紙『風よ吹け』第13号からの転載)

現在、日本YMCA同盟に勤務し、東京都三鷹市に在住しています。牧師竹迫之さんにはパソコンによる「通信説教」を通して初めて触れ、静岡県にある東山荘にて実際に出会うことができました。また、竹佐古真希さんとは学生YMCAスタッフの同僚として、およそ2年にわたって親しくしていただいています。関西の出身で、東北にはこれまでほとんど足を向けたことがありませんでしたが、「浪岡」はお二人を通じてすごく身近に感じられ、また実際に訪れて礼拝に出席し、教会員の方々に迎えられてからは「心のふるさと」となり始めています。

これからも、パソコンなどの通信手段や、祈りを通して浪岡伝道所とつながって行きたいと願っていますし、浪岡伝道所東京支部として、ささやかながら、いろいろな試みができたらと考えています(企んでいます)。どうぞ、よろしくお願いをします。

また、横山さんの私信から、信仰について述べられた所感の部分を、了解を得て以下に紹介をいたします。

**さんに関わらず同年代のひとたちに、自分も含めてですが、最近、「どうにもしようのないこと」を生き抜かなければならないしんどさみたいなものの気配の忍び寄りを感じます。昔、母親が遠藤周作の本の「空がこんなに青いのに私には諦めなければならないことがある」という箇所(比較的マイナーなエッセイだったかな)に、すごく感情移入していたことがあって、頭では分かったようなつもりでいたけど。今は少し分かるような気がします。

自分の意思ではどうしようもないことを本当にねばって、ねばって引き受けて、その生命力から凛とした強さ、優しさを生み出して生きて行けたらいいな、と思います。

そういう時こそわき上がってくるのが祈りだ、みたいなことを言われたりもして、受洗を決意してからは、そうかなあとも思うこともありますが、私にとっては一番しんどいと思った時にたどり着いたのは「待つ」という心境でした。

何を待つのか、とか、なんで待つなのか、ということについてはまだ整理できてないのだけれど、15日をひとつの区切りにまとめてみたいと思っています。「待つ」と決めたことが安心であり、自らに果たした覚悟であると考えるその内実をきちっと押さえておくことが、あの信仰告白を額に入れないためには必要かな、と。やっぱり、神の国はすでに来たりたもうて、未だ来たらずという、「すでに」と「まだ」というアンビバレントさ(こういう言葉はやだ)を自分の人生の中でどう生きるか……ということに関わってくるのかなあ、と予感ではありますが感じています。

横山さんのお言葉に、励ましと慰めと導きを与えられる思いがしております。

この度の受洗に際し、多くの人々からお祝いのお言葉をいただいております。感謝です。しかし受洗はある種の出発に過ぎないとも思います。これからの浪岡伝道所の交わりと働き、そして浪岡から派遣される横山さんを含んだわたしたちひとりひとりの歩みのために、ご加祷いただければ幸いです。

(大きな山場を越えて魂が抜け切っているTAKE)