竹迫牧師の通信説教
『あなたが信じるために』
ヨハネによる福音書 第20章30−31による説教
1998年2月1日
浪岡伝道所礼拝にて

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ヨハネ福音書の結びの言葉である。ご承知のとおりヨハネ福音書にはもう1章続きがあるが、それは後に追加されたものであって、元来はここで終わっていたものと考えられる。21章の末尾にも第2の結びの言葉がある。

ここには、ヨハネ福音書が書かれた目的について記されているのである。それは即ち、これを読む人々にイエスが救い主である事を信じさせ、イエスの名によって命を受けさせるためにこの福音書が書かれたということである。

良く誤解しがちな事であるが、福音書は決してイエスの伝記なのではない。この福音書が歴史上実在したイエスという人物のコトバや行動を逐一伝えるために書かれたのではないことは、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」という一文からも明らかである。福音書は、イエスがすごい力を持っていた、ということを語ろうとする試みではない。それならば出し惜しみせず、その力あるしるしを全て漏らさず書くべきである。つまりイエスについて我々を感心させるため・あるいは尊敬させるために書かれているのではない。

イエスが神の子であり我々の救い主であること・それが既にイエスの生涯に表されていたことを伝えるのが福音書なのである。我々読者がこれを読んで「イエスとはこういう人であったか」と知識を得る事が福音書記者たちの目的ではなく、「イエスはわたし(たち)の救い主である!」という確信(信仰)を得る事が目的なのである。特にヨハネ福音書の場合は、これが書かれた当時の教会が直面していた危機 ―迫害と分裂― 

を乗り越えるため、見た目には厳しい困難があろうとも教会に先だってイエス自身が勝利を収めていることを信じさせるために書かれているのである。

このポイントを外して福音書を読んでも殆ど意味がないということを、まず心に刻みたい。「あなたがたが信じるため」、つまり今日ここでこれを読む我々が「イエスが救いを完成させたこと」「イエスにつながっているべきこと」を信じるために、ヨハネ福音書は書かれたのである。

この事は、我々教会に連なる者たち・イエス=キリストの福音を宣教する者たちの生き方について、重要な方向性を示している。それは「我々が宣教するのはイエス=キリストただおひとりである」という単純な命題である。この事はとても当り前のように理解されているが、しかし一番実行しにくい事でもある。我々は、イエスという救い主を人々に伝える事よりは、自分自身が真っ先にその恵みにあずかる事に夢中であり、「イエスは正しい方である」と証しする事よりは「イエスを信じているのだから、わたしは正しい」と自分を正当化するので精一杯の毎日を送っている。他人の平和よりも自分の満足のためにイエスを引き合いに出すのは、今日の短い聖書箇所に示された宣教の方向性とは随分異なっている。我々もその事は十分自覚しているが、日々の歩みにおける疲れや無力感・傷つく事の痛みなどの大きさに押し潰されないようにするのに懸命にならざるを得ない日常がある。「信仰」以前の悩みが多くあり、「教会」以前の敵は多い。

そもそも我々はあまりにも弱い肉体を与えられており、まず闘わなければならないのは自分自身ですらある。そのような我らだからこそ、イエスとの出会いが与えられその喜びのうちに生きる決意をしたのである。自分の生活を支えてくれるという期待があればこそ、イエスとの出会いにまで導かれた我らではあった。

だが、ヨハネ福音書において、イエスの口を通して繰り返し語られたのは「互いを愛し合いなさい」という命令であった。イエスに見出され、イエスに愛され、ようやく「自分であること」に誇りを見出しうる我らは、そのイエスによる愛を分かち合うべくこの世へと送り出されるのである。

我らはむしろ、自分に与えられたこの喜びを語りたい。弱さを負う我らをこそイエスが愛された! 正しくないどころかエゴイストに過ぎない我らをこそイエスは立てて下さった! この世の余計なお荷物としか思えない我らの命を、キリストはかけがえのないものとして選び出して下さった! 

その喜びによって我らは、自分がイエスによって助けられている事実を感謝する。自分の日常が余りにも重くまた痛みを伴うものであるならば、そのことを正直にイエスに祈り求めたらよいのである。その苦しみを押し隠して他者に尽くす必要は何もない。他者の苦悩にとりあえず見ぬふりをしても構わない。貪欲に自分の恵みをイエスにおいて追求するべきである。余りにも自分の正しくない姿に幻滅するならば、イエスにあって正しいものとされている事を他人に誇ってよい。いくら誰かに「お前は間違っている」と指摘されても「わたしはイエス様に選ばれたのだから!」と胸を張っていて構わない。自分が満足し、自分が喜びを持つのでないかぎり、他人にそれを伝える事などできない話なのである。

我らに与えられたこの命を、他の何物にも替え難い財産として感謝したい。それを誇りに日常の闘いへと乗り出していきたい。「イエスは、このわたしのための救い主である!」という喜びは、そのようなわたしたちによって世の人々と分かち合われるのである。互いに喜びを持ちより、また分かち合うことから、「イエスはわたしたちの救い主である!」との確信が生まれる。その時に初めて、我らは「イエスはあなたがたの救い主である!」と語る根拠を手に入れる。そして我らの生の歩み全てが、「あなたが信じるために!」「あなたがたが信じるために!」と拡がりながら用いられるのである。

もう自分の弱さを嘆いたり醜さを恥じる事も必要ない。それらがまるごと我らの命であり、イエスが愛して下さった姿である。その単純な発見の出発をもって、この週の歩みに乗り出していきたい。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)今年度も多くの方々から浪岡伝道所へのクリスマス献金が寄せられました。会計役員の報告によれば、献金して下さったのは次の方々です(順不同 敬称略)。

三浦克子渋谷昭則竹迫之竹佐古真希野呂みつゑ古舘恒
匿名氏野呂寿子佐藤和彦佐藤優子湯沢教会一関教会
弘前西教会五所川原教会瀬口昌久吉田直子遠藤龍彦
長谷川精一須藤昇渡辺ちせ真壁巌真壁恵子
東北学院大学(計 151500円)
以上、感謝をもって御報告申し上げます。
なおこの献金は、10万円を牧師冬期謝儀として、残額は教会の諸活動費として用いさせていただきました。
ありがとうございました。

(記載もれがありましたら下記まで御連絡下さい。
 電話 0172-62-5763 FAX 0172-62-8506
 E-mail CYE06301@niftyserve.or.jp
 〒038-1311 青森県南津軽郡浪岡町浪岡平野147-26
 その他、『通信説教』に関するご要望・お問い合わせなどもどうぞ。)

浪岡伝道所の今年度財政には30万円前後の赤字が見込まれています。また、現在年間45万円をいただいている日本キリスト教団奥羽教区北西地区からの援助金は、非公式にではありますが、削減を求められる傾向にあります(わたしが兼務している八甲田伝道所の会堂建築への協力のため)。それほど教会としては無駄遣いしている事はないと思いますが、ひょっとしたらわたしのような牧師を招聘していることが最大の無駄遣いかもしれないな、と弱気になっております(それでも今年度は給与をだいぶ減らしたのですが)。次年度において展開する(できれば収益を生むような)事業の案をいくつか検討しておりますが、どれも「皮算用」の域を出るものではありません。

特に心が痛むのは、対外献金がほとんどできなかったことでした。多くの団体・個人から献金依頼が届けられています。「そのぐらいの金額は自分たちで何とかせい」という気持ちで割り切れないものばかりです。どれも緊急であり、重要であり、意義のあるものです。それらに教会として全く支援することができなかったというのは、浪岡伝道所の反省点でありました。

お金の心配ばかりしたくない、というのが本音ではありますが、お金がないと物事が動いていかないのも事実であります。聖書には「主よ、どこからパンを買って来ましょうか」とイエスに問う弟子たちの言葉が記されていますが、それが妙なリアリティを持って迫って来ます。

そういう状況で、今回のクリスマス献金の報告を受けたのでした。これだけ多くの人々に覚えられ、支えられている。この事実が、何よりわたしたちを励まし、勇気づけました。「分かち合いの奇跡」を見たように思います。本当に感謝なことです。

(「これがブラックホールです」と自分を指差してみるTAKE)