竹迫牧師の通信説教
『十字架につけられた王』
ヨハネによる福音書 第19章16b−22 による説教
1997年12月14日
浪岡伝道所礼拝にて

イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。  (17-18)

いよいよ、イエスが十字架につけられる場面である。「十字架につけろ!」との叫びに押されたピラトからイエスを引き取った人々は、『されこうべ(ゴルゴタ=ラテン語ではカルヴァリア)』と呼ばれる場所までイエスを連れて行った。死刑囚に十字架の横木を背負わせて刑場に引いていくのがローマの慣習であったという。イエスもまた十字架を背負ってゴルゴタを目指したと説明されている。他の福音書すべてには、たまたまそこに居合わせたキレネ人のシモンに無理矢理この十字架の横木を背負わせたと書かれているが、ヨハネ福音書においてはそれがない。ヨハネ福音書記者が「キレネ人シモン」の話を知らなかったとは考えにくいので、恐らくは「イエスが自分の意志で十字架にかかった」と強調するために省略したのだろう、とも言われている。

他の福音書に共通して書かれていながら、このヨハネ福音書には全く書かれていない事が他にもある。それは、イエスと共に十字架につけられた他の2人の素性についてである。十字架刑がローマへの反逆者に対する死刑法であることを考えれば、あるいはイエスの代わりに釈放が要求されたバラバの仲間であるような印象を受ける。あるいはこの省略も、「人々が自分を王にしようとするのを知って退いた(6:15)」ことや、「おまえがユダヤ人の王なのか」というピラトの訊問に「わたしの国はこの世には属していない」と答えた(18:33-36)イエスのあり方を強調するためのものかもしれない。

逆に、他の福音書にはないのにヨハネ福音書だけに報告されているのが、ピラトの書いた「罪状書き」を巡るやりとりである。ピラトは、ヘブライ語・ラテン語・ギリシャ語の3つの言語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記された罪状書きをイエスの十字架にかけた。ヘブライ語は、もちろんイエスが処刑されたその地方で使われているユダヤの言葉である。ラテン語は主にローマ人によって使われる政治用語であり、ギリシャ語は現在の英語に匹敵する当時の世界共通語であった。つまりこの罪状書きは、ユダヤ人であれギリシャ人であれローマ人であれ、すなわちそこを通りかかる人なら誰でも意味がわかるようにと配慮されたものであり、当時においては全世界に向けて書かれたものでもあったのである。ユダヤ教の祭司長たちは「『ユダヤ人の王』と自称した」と訂正するよう求めるが、ピラトはそれをはねつけて「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えたのであった。

この記述に、「キリストを十字架につけた男」として使徒信条にも名前が残されているピラトの、もうひとつの姿が見えて来る。彼は確かに、イエスの無罪性を確信しながら自己保身のためにイエスを十字架刑に処したのであった。ローマの総督として、ローマとユダヤが衝突しないように万事を丸く収めるため、ローマへの反逆を企んだという事実がないにも関わらず、ユダヤ独立を目指した革命家としてイエスを処刑することを選んでしまったのである。

しかしそのことで、最も傷ついていたのはやはりこのピラト自身だったのではないか。「世界に通用する言葉」で記されたイエスの罪状書きに、ピラトの静かな(しかし抑えきれない)怒りを見る。支配下に置かれているはずのユダヤ人たちの圧力を跳ね返す事ができなかった。そして、ナザレ出身の(たかだか30代を迎えたばかりの)若造に過ぎないイエスの信念すら変える事もできなかった。この時ほど自分の無力さを痛感させられたことが、ピラトにはなかったのではないか。せめて、「イエスを有罪にしたのは自分だ」と世界に通用する形で宣言する事が、ピラトの意地の表われだったのではないか。「この屈辱を、決して忘れない」というピラトの決意が、そこから読み取れるのである。

そのように考えつつ、もう1度今日の箇所を読んでみると、ユダヤ教側の指導者たちの方は、実はイエスを闇に葬って忘れ去ろうとしていた、と言うことができる。

ローマとユダヤとの間の和平を維持するために、イエスという存在を利用しつくした上で人々の記憶から消し去ってしまう事、それがユダヤ教指導者たちの目論見だったのである。ピラトは、そのように自分が利用される事を拒絶したのであった。利用される事を知り尽くしていながら、自分で十字架を背負って刑場へと向かったイエスとは、極めて対照的であった。

先日私は、礼拝をお休みさせていただき北海道へと出かけた。その帰り道、札幌の千歳空港から青森空港へと飛ぶ飛行機を利用したところ、機内でクリスマスカードが配られた。スチュワーデスの手で差し出されたそのカードにはサンタクロースのかわいいイラストが描かれていたが、私はそのカードを受け取る気になれなかった。クリスマス商戦たけなわの商店街から追い出されたホームレスの人々の姿を目撃して以来、クリスマスを無邪気に喜ぶ人々の輪の中に入れなくなっている。自分でも「こだわりすぎだろうか」と考える事があるが、『クリスマスの出来事=救い主の降誕』を宣べ伝える教会は、だからこそこの時期に「救い主は十字架にかかるため、この世に来られた」ということを覚え、祈りをもって歩むべきではないのか、とも感じるのである。この迷いには未だ結論が見えないので、毎年のこの時期を自問自答しながら過ごす事が習慣になってしまっている。

ちなみに、その飛行機が着陸寸前に事故を起こしそうになった。航法機器の不調だったという話を後で聞いたのだが、着陸成功に歓声こそ上がったものの、ついさっきまでにこやかにカードをやりとりしていた人々が一様に重苦しい顔で機を降りる姿が印象的だった。

本当に、嫌な気分になる事件が続く1年であった。あの神戸の「酒鬼薔薇」事件を始めとして「異常!」と声を上げざるを得ない出来事が続きすぎた。テロにまつわる悲惨な事件も多かった。著名な2人の対照的な女性が相次いで天に召された。年末になって、将来の不況を予感させるような大手証券・金融業者の廃業が起こった。多くの人々が職を失うだけでなく、その中の1社は数百名に昇る新入社員採用の内定者たちも抱えており、それらの人々は将来の見通しを奪われることになった。また一方で、餓死している母娘が発見されるという信じ難い出来事も起こった。浪岡町のすぐ隣にある黒石市では、別々の自動車に2度も轢かれて死んでしまった中学生がおり、ワシントンで強行された統一協会の合同結婚式をきっかけに眠れない日々を過ごしている家族たちも、我々の身近にいる。

人々が、まるでこれらの出来事がなかったかのようにこの時期を過ごそうとしているように見えるのは、私だけなのだろうか。或いは重苦しい不安を吹き飛ばし、新しい年への希望を培おうとする人々もあるのかもしれない。しかし多くの人々は、『いつもと変わらぬクリスマス』を迎えることで、この1年の間に蓄積した不安を見ないように・思い出さないように願っているのではないだろうか。そこから、果たして本当に希望を汲み出す事が可能であるかどうか。思い詰めて暗い顔をしていれば、希望が手に入るというわけではもちろんない。しかし、この1997年という年をあたかも何事もなかったかのように過ぎ去ろうとする態度もまた、同様の結果を引き起こすにとどまってしまうのではないだろうか。

ピラトの態度は、決して賞賛されるべきものではない。イエスを殺してから意地を見せても意味がないからである。恐らくピラトは、自分を翻弄し続けたイエスをも憎んだのであろう。だからこそ「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(19:37)というイエスの抗弁を打ち消すかのように「ユダヤ人の王」と全世界に告知するのである。しかしピラトの意地は図らずも、「神が選びとった民」であるユダヤ人の「王」がイエスである事を、当のユダヤ教指導者たちの反発をさえ退けて全世界に告知する事に用いられたのであった。

人が他人に利用され捨てられて、しかも忘れ去られることほど、悲惨な出来事はない。そしてこの悲惨は、抵抗する力を持たない弱い人々に向けられる圧力である。イエスは、神と等しい力を持ちながら、自らその悲惨へとまっすぐに歩んでいった。それは、この世の最大の悲惨を身に受ける事によって(そして後には復活する事によって)、この世の悲惨が神の前に無力であること・我々の罪が神の支配に打ち勝つ事ができないということを示すためである。我々は多くの場合、この世の悲惨に対して無力である。だが、イエスの十字架の出来事は、我々がその無力感に負けて、この世の悲惨から目を背ける事を許さない。イエスの後に続いて、あるいはイエスの両脇にかけられた者たちのように、その十字架を自ら背負って歩むよう招かれている。教会における「献身」とは、十字架を自ら背負ってゴルゴタを目指す歩みに行き着くのである。これから洗礼を受けようと考える人々があれば、この事は覚えておいた方が良い。

しかし同時に我々は、それが絶望と諦めの歩みではなく、復活に基づく希望を指し示す歩みであることも知らなければならない。イエスの十字架と復活が、我々がまるで特攻隊員でもあるかのような悲壮な決意や自棄的な勢いでその歩みに立つ事を許さない。イエスの味わった悲惨は、まさしく復活が起こったゆえに、我々に対しても無力である事を心に刻むべきである。

その希望を得る事が難しいのならば、我々が無理に十字架を負おうとすることさえ必要ないのである。我々の身代わりに、イエスが十字架を負って下さったからである。我々に代わって苦しんで下さったからである。従って、飽くまでもイエスを拒絶したピラトのような歩みさえ、我々には許されている。イエスを拒絶する我らの思いをも、神は勝利を証しするために用いてくださるからである。

ただ我らは、それらのいずれの道を進むにしても、イエスが負って下さった十字架の悲惨を忘れてはならない。イエスが自ら選びとった苦しみが、2000年を経ようとする現在も相変わらずこの世で繰り返されている事実から、目を逸らしてはならない。祈り続けなければならない。そして、イエスがその悲惨のただなかに立っておられる確信を捨ててはならない。

いま苦しんでいる人・いま悩みの中にある人・いま悲しんでいる人、その人々と共に、イエスがおられる。それが、我らの宣教するクリスマスの出来事なのである。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)中学生に教師が校内で刺殺されるという衝撃的な事件が起こりました。新聞やテレビでは「キレやすい(逆上しやすい)現代のこども」考が展開されております。それらに目を通しながら「まったく人事じゃないよな」と呟きます。

わたしも週に2日間、高校で先生をやっております。中学生の時のある体験から「死んでも学校の先生にはなるまい」と誓っていたにも関わらず、来年度はひょっとするともう1日分授業時間が増えるかもしれないところに来ています。あれほど学校教師を憎んでいたわたしが教壇に立っているのですから、「人を呪わば穴二つ」的なめぐり合わせの皮肉を感じます。殊に「聖書」などという、いったい何の役に立つのかわたしにも分からない教科でムチャな要求を生徒諸君に課す時に向けられるあの視線には、命の危険を感じる事が実際しばしばあるのです。

しかし「人事ではない」と感じるのはその点ばかりではなく、むしろ「キレやすい」と言われる現代の青少年の内面についてであります。この「キレる」という現象がわたしにもよく起こります。わたしの場合は人間相手の時にはあまり起こらないのですが、しかし一旦テレビゲームなどを始めると簡単にキレてしまうのです。格闘ゲームなどをやっていてコンピューターに「十年早いんだよ!」などと罵倒されると、もう手がつけられません。文字どおり七転八倒して悔しさに身もだえしてしまいます。わたしの経済的な状態からはかなり高額な部類に入るゲーム機ですから、本体への攻撃は辛うじて思いとどまりますが、コントローラなどの周辺機器への八つ当たりといったら…。人間相手には「なぜそこまで寛容なのか」と無気味がられるほど忍耐強いのが密かな自慢なのですが、テレビゲームには小学生が呆れ果てるほど短気に振る舞います。

わたしなりの自己分析では、ある道筋を忠実に辿れば勝つことが十分可能なテレビゲームでは、自分がその通り振る舞えなかったから負けたということが明らかになるので、「どうしてうまくできないんだ!」という苛立ちが爆発的な怒りに直結してしまうようです。コントロールが可能(なはず)なのにコントロールできない事が我慢できないのです。「おれはもっとうまくやれる(はずだ)!」と荒れ狂うのです。

幸いにしてわたしは、「人間」はうまくできないのが当り前(というか「うまくやる」という発想自体が不自然)ということを学ぶチャンスがあったのだと思います。

技能だとか効果だとか点数的に評価できる部分と、「そういうもの」として受け入れるしかない評価不能(評価してはならない!)の「人間性」とがあるのだ、と考えるに至る体験を与えられて来たのだと思います。キレた時の荒れ方をふり返る時、これは感謝すべき事だったと思わざるを得ません。

そんなことを伝えられる教師をやれたらいいな、と願っています。

(本業は牧師「のはず」だったTAKE)

(追記)その2

これを発信する直前に、今度は中学生が警察官を刺したという新聞報道に接しました。

その動機は「拳銃が欲しかった」!!! ますます他人事ではありません。他者をコントロールしたいという欲求が、「コントロールできるはずだ」という思い込みと「コントロールできない」という現実から受けるフラストレーションによって大きなストレスになっているのを感じます。「拳銃が存在するからだ」「ナイフ所持の規制が緩いからだ」という意見が予想されますが、原則的には同意できるものの「それを言っても何にもならない」とも思います。現実に拳銃は存在し、刃物も売られている。そこから「誰に向かって引き金を引くのか」という方向で展開しないと、いつまでたっても原則論を振りかざす事で(自分には責任がないという意味での)アリバイ工作に精を出すにとどまり、問題解決には結び付かないことにしかならないと感じています。

わたしの来ている学校では、早くも所持品検査の徹底が検討されています。学校の中で事件化する事態は避けられるかもしれませんが、良くてそこまで。悪ければいたずらな反感を煽るだけです。むしろ、反発を行動化する生徒を増やす結果さえ予想されます。

子どもを怪物扱いする報道には警戒したいものです。また、一刻も早く対話の糸口を手にしたいものです。

(「先生もナイフ好きでしょう」と生徒に指摘されてドギマギのTAKE)