竹迫牧師の通信説教
『ひとつになるため』
ヨハネによる福音書 第17章20-26 による説教
1997年11月2日
浪岡伝道所永眠者記念礼拝にて

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」。(24)

イエスが逮捕される直前の祈りを読んでいる。イエスは最後の晩餐において、弟子たちに向かい最後の教えを述べた。その締めくくりとして、造り主なる神と対話するのである。

始めにイエスは、自分のために祈る。それは、我々がよくするような、自分の望みをかなえて下さいというものではなく、あるいは逮捕の時が迫る中で自分の身を護るためのものでもない。イエスの使命が「神と人との仲立ち」であることを見つめ、その使命を再確認するためのものである。これは、イエスのからだとして立てられた教会が受け継いでいる祈りでもある。神と人との仲立ちという使命を全う出来るように、と祈ることが教会には許されている。

続いてイエスは、愛する弟子たちのために祈る。イエスの死後、この世に残された弟子たちがイエスの使命を受け継いで立つにあたり、弟子たちの働きが守られるように神に願う。神の意志に敵対するこの世の勢力のただ中に置かれる弟子たちが、常に神の守りのうちに置かれるよう願う。イエスのからだとして立てられた教会は、教会に集うお互いの安全のために祈ることが許されているのである。

そして今日の箇所でイエスは、弟子たちによって福音を伝えられる人々・イエスと直接出会ったことがなくそもそも弟子たちによって伝えられなければイエスという名前すら知ることのなかった人々のために祈っているのである。それは、イエスの死後2000年近く続いてきた教会につらなる全ての人々のために、つまり今日ここに集っている我々自身のためにも、イエスは祈っているのである。我々がここに集っているというこの現象自体が、イエスのこの祈りによって支えられているのである。

イエスが、我々のために祈っている! まずはこの事への驚きを、素直に受け止めたい。我々は、遠い未来の人々のために祈れるだろうか。我々が天に召されて、ここにある(永眠者の)写真のひとつに加えられた将来の人々のために、あるいは写真すら失われて名前も忘れ去られるような時代の人々のために、祈ることができるだろうか。自分の力が及ばない未来の人々のために、我々は祈るだろうか。目に見える人々のためにさえ祈れないでいる我々が、目に見えない未来の人々のために祈ることはあり得ない。教会には、福音が伝えられようとしている人々のために祈ることが許されているのである。そのためにこそ、いま目に見える人々のための祈りが不可欠なのである。

さて、イエスは我々のために何を祈ったのだろうか。「すべての人をひとつにしてください」(21)とイエスは祈ったのだった。全てのものの造り主である神と、救い主であるイエスとが、天地創造の以前からひとつであったのと同じように、我々もひとつとされるよう、イエスは祈ったのである。神とひとつであるイエスが我々人間の世界に現われたのは、我々がひとつとなるためだったのだ、とまでイエスは語る。

「ひとつになる」とはどういうことであろうか。これを「皆が同じ者になる」と誤解してはならない。イエスは別の箇所で、「一人の羊飼いに率いられる羊達はひとつの群れとなる」と語っている。別々の存在が一体となるとき、その群れはあたかもひとつの生物のようになる。例えば、葉や茎や根など別々の部分からなっているブドウの木は、それぞれ個別に注目するならば全く異なる存在であるのに、ひとつの存在として統合されており、またそのどれがなくても実を結ぶことができなくなる。パウロはこの事を人間のからだにたとえて語った。違うものを「違うから」という理由で、また「弱いから」「醜いから」という理由で排除していくと、やがて人間のからだは生物として機能しないことになってしまう。違った者同士が、その違いを受け入れ合ってひとつになったとき、初めて人は「神(人間ではないもの)の前に立つ人(神ではないもの)」として完成されることになる。

人が、このように有機的な一体化を実現することが可能なのだろうか。むしろ、相手を自分と同じ者にするか、相手によって同じ者にさせられるかという激しい緊張関係の中を生きているのが我々の現実であろう。そうした闘争を放棄して、全く違った他者とひとつになる、というあり方は、数えるほどにしか見つけられないというのが実態ではないか。このイエスの祈りによって支えられているはずのキリスト教会自体がそういう状態であるし、場合によってはひとつの教会の中にさえそうした争いや分裂が起こることがある。そうした現実を見つめる時、イエスのこの祈りは、むなしい希望を語ったもののようにも思われて来る。

しかし「彼らが完全にひとつになるためです」(23)と訳されたこの一文は、原文を直訳するならば「彼らはひとつに向かって完成するはずである」という意味の言葉なのである。この祈りに込められたイエスの我々に対する信頼と期待を見る。

いま現在バラバラに引き裂かれていても、さらに決定的な分裂が間近であるように見える時でも、イエスの名によって集う者たち(つまり我々)は、ひとつに向かって完成されつつある! イエスは、そう確信するからこそ、ここで我らのために祈っているのである。我らにはひとつになる力があり、ひとつになっていく途上をいま歩んでいる、との希望を捨てることがないよう祈るのである。

ひとつになることで我々に示されるのは「神の栄光」である。我々人間の目には見ることができない神の「神らしさ」を、神の働きによって体験した時、それは「神の栄光」と表現される。そしてここでは、その栄光が「愛」と理解されていることを見逃してはならない。神の愛によって、我らはひとつに向かっての完成へと招かれている。この交わりの中に「愛」がある時、我らは神の栄光を見ているのである。どちらかといえば「愛」が破壊され見失われ、また正反対の動機で「愛」が利用されることの多い我らの世界である。そのただなかに教会は置かれており、また教会に連なる我らも派遣されていく。この世の力は、我らを傷つけ打ちのめし弱らせる。それでも我らがこの場のみにとどまるのでなく、この世のただ中へと送り出されることをやめないのは、神がこの世を愛してくださっているからである。

イエスは、この神の愛を示すため・伝えるためにこの世に現われ、また十字架へと向かっていった。弟子たちに対する愛、また弟子たちによってイエスを伝えられ信じるようになる後の人々に対する愛を通じ、神の栄光が愛であることを指し示し続けた。ここに並べられた兄弟姉妹たち(並べられていない人々も)は、そのイエスの愛によって神の栄光を示された人々である。また、イエスの愛を信じた人々の祈りによって支えられた人々である。これらの人々はみな、生きている時はもちろん、天に召された今もなお神の栄光を示す証しなのである。これらの人々の祈りによって支えられてきたこの教会のこの礼拝に、今の我らがある。我らもまた神の栄光を指し示す証しとされているのである。我らはイエスにあって、既にひとつとされているのである。

イエスの愛に連なる者として、新しい歩みに乗り出していきたい。たとえ躓き倒れることがあったとしても、イエスは我らがひとつに向かって完成される歩みに立っていることを信じてくださっている。また、我らのために祈ってくださっている。

そのイエスが示した神の愛に信頼して、未来への祈りのために再び立ち上がる我らとなろう。我らには、その力が与えられている。