竹迫牧師の通信説教
『天使のうた』
ルカによる福音書 第2章15−17 による説教
1997年12月19日
弘前市民クリスマス開会礼拝にて

馬小屋の飼葉桶に寝かされた生まれたばかりの赤ん坊を、若い両親と共に羊飼いや馬たちが囲んでいる。クリスマスがイエス=キリストの誕生のお祭だということを改めて踏まえると、多くの人がこのファンタジックな場面を思い起こすのではないでしょうか。

しかしわたしには不思議に思われます。家畜小屋で生まれた赤ん坊を、どうして救い主だと信じる事ができるのだろうか。旅の途中で産気づいた妻を抱えて若い夫が転がり込んだ宿屋は既に満員、やむなく家畜小屋で出産がなされた。その旅も遊びに出かけたものではなく、新たな税金を納めるのに必要な住民登録のための強いられた旅行だった。さらにこの女性の妊娠は、結婚によらないもだった。そして、聖書の別の箇所には、それは同じ年頃の幼い子ども達が一斉に虐殺される事件があった頃だった、とも記されています。どうして、そのような状況に生まれたその赤ん坊を、「救い主」として受け入れることができたのだろうか。「こんな時代に生まれてしまって可哀想」と気の毒がられるならともかく、不安と恐れに覆われた時代に、その上母親にとっては将来に対する不安が激しさを増している最中(そしてあるいは両親にとっては大きな恥ずかしさの中)、誕生した赤ん坊がイエスだったのです。「これこそが救い主」と証言してもらわなければ、誰もこの赤ん坊がキリストだとは分からなかったはずです。

この生まれたばかりの赤ん坊が救い主である事を証言したのは、その地方で野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちであった、と記されています。彼らは野宿をしている時に天使に出会い、「馬小屋の飼葉桶に寝かされた赤ん坊が救い主だ」と知らされ、さらに「天には栄光が神にありますように、地上には平和が人々にありますように」と夜空に響き渡った天使たちの歌声を聞いて、救い主を捜そうという気持ちになった人々でありました。彼らがこの惨めさのただ中に生まれた赤ん坊を「救い主だ」と証言できたのは、この天使の告知を聞いていたからであります。この羊飼いたちもまた、明日の生活の不安を抱え、住む家もないままに仕事に追われ、また人々から差別される日々を生きていた人々でありました。

社会の主流でない、むしろすみっこに追いやられた人々のただなかで、救い主が誕生したのです。人々から蔑まれるような現実を生きざるを得なかった人々だから、救い主の誕生を知らせる天使の歌声を聞く事ができたのであります。

いやな事件の続く1年でありました。ここに集まっている私たちもまた、多くの悲しみや不安に囲まれてこの1年を過ごしてきました。「せめて美しい音楽でクリスマスを祝い、この1年の憂さを晴らしたい」と感じている人も多いに違いありません。

しかし、ちょっと立ち止まってみたいと思うのです。世界を救うために生まれたキリストが、このような不安や恐れや悲しみのただなかに生まれてくださったという事を、こういう時だからこそ心に留めたいと思うのです。

天使の歌声は、私たちの頭上にも鳴り響いています。その歌声に耳を傾けつつ、私たちもまた「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と決意したいと思うのです。隅っこへと追いやられた人々の中で(それもひょっとしたらあまり歓迎されない仕方で)、救い主が生まれた。人々は隅っこにいたからこそ、そして将来の生活に対する不安に押し潰されそうな人々だったからこそ、それを目撃する事ができた。それが救いの訪れだと知ることができた。そうして希望に満たされ、その希望を人々に語る事ができるようになった。そのことを心に留める時、このような時代に生きている私たちだからこそ、生活に疲れを感じ将来への不安を抱いている私たちだからこそ、その仲間に加わることができるのではないか、と思うのです。

今夜のこのコンサートが、そのような機会として用いられる事を願っています。