竹迫牧師の通信説教
『喜びに変わる』
ヨハネによる福音書 第16章 16-24 による説教
1997年10月5日
浪岡伝道所礼拝にて

「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。(24)

『水戸黄門』の主題歌では「人生楽ありゃ苦もあるさ」と歌われる。「涙の後には虹も出る/歩いて行くんだしっかりと/自分の道を踏みしめて」。

我々は通常、苦難と喜びを対立する概念・感覚として理解している。苦しい事は避けたい。しかし、人生において苦難は避けられない。そこでこの歌は、「苦難」を「喜び」と対置させる事よって相対化しようとする。

主題歌は続いて「人生勇気が必要だ/挫けりゃ誰かが先に行く/後から来たのに追い越され/泣くのがいやならさあ歩け」と続く。相対化された結果、平等の可能性となった「苦難」と「喜び」という人生の一場面だが、「苦難」に足を取られていると、誰にも平等に訪れるはずの「喜び」に気付かない事がある。そこで、「苦難」に負けずに先へ進む勇気が必要だ、と説くのである。その勇気を、この歌は人生の旅路における「他人との競争」という視点から語ろうとしている。

『水戸黄門』とキリスト教の共通性を語る人は多い。本来は「高貴な」身分であった超越的な主人公が、その身分を隠して「世の中」に降りて来る。悪事を働く個人や集団の正体を暴き、制圧する。かくて平和が回復され、主人公は再び旅立って行く。確かにストーリィには似通った部分が多い。讃美歌にしても、『水戸黄門』の主題歌に似通った信仰のあり方を歌うものが多いのではないか、と感じられる。

しかしよくよく考えてみるならば、キリスト教と『水戸黄門』には、本来相容れない根源的な差異がある事に気付く。その最大のもののひとつは「平和の理解」であろうと思う。『水戸黄門』の世界においては、水戸光圀以下数名の旅団が平和を回復する人々として描かれている。幕府や藩主という特権的な支配者階級の世界の中にとどまるだけでは決して知る事のなかった庶民の暮らしの中に、自分たちの身分を隠して入り込む。すると、「武家による庶民の支配」という構造の中で行われている「不正」が見えて来る。そういう「不正」の決定的な証拠を掴んだ時、はじめて「縮緬問屋のご隠居」以下数名という仮面を脱いで(変身して)正体を現した水戸光圀が審判を行う。かくて、「不正」によって失われていた平和が回復されてお話は終わる。

よく考えてみれば、ここで語られる平和とは「武家による庶民の支配」というシステムの回復なのである。武家と庶民という身分制の是非はもちろん問われないし、むしろここには「お上が正しければ世の中は平和である」という積極的なメッセージが隠されている。『水戸黄門』の世界観は、水戸光圀に代表される「正しいお上」による支配の徹底が実現するならば平和が取り戻せるという考え方に貫かれているのである。「本来、お上となるべきでない人物がお上になっている」という点が争われて、「お上」が存在するというシステムそのものの是非は問われない。あの主題歌の本当の意味は、「そういう『正しいお上』が登場するまで、じっと我慢せよ」という所にあるのではないか。つまり、「良くない世の中だからと言ってジタバタするな。『正しいお上』の登場までじっと我慢して、辛い事も『辛くない、辛くない』と言い聞かせなさい」ということでしかないのではないか。裏を返せば、幸せは「正しいお上」に依存する事で与えられるのであって、自の力で手に入れるなどとは言語道断である、という価値観だとは言えないか。

イエスは「苦難が喜びに変わる」と宣言する。それは、十字架における処刑が数時間後の決定的な事実として始まっている最中、逮捕されるまでの秒読み状態の中で語られた言葉である。「苦難と喜びがあるから、苦難の中でも喜びを待て(処刑されても必ず復活するからそれまで待て)」と言うのではない。「苦難そのものが喜びになる(イエスの処刑そのものが救いなのだ)」と語っているのである。『水戸黄門』との決定的な差異はここにある。

「苦難」がすなわち「喜び」であるとの発見が、ここには促されている。画家の星野富広氏は、体育教師であった時代に体操中に首の骨を折るという事故に遭い、首から下の全身が麻痺状態に陥った。その後様々な努力が重ねられて、口にくわえた絵筆で花を描き詩を添えるという活動を続けている。あるテレビ番組のインタビューで、彼がこう述べるのを聞いた。「ケガをして『もうダメだ』と投げかかった時期もあったが、このケガを通じて与えられた貴重な出会いがいくつもあった。苦労をかけた人を思えば、こんなこと本当は言ってはいけないことだとは思うが、やっぱり『ケガして良かった』と思う」。それを聞いて、以前に私自身が支えられた詩を思い出した。

『苦しまなければ  聞き得ないみことばがある

悩まなければ  ささげ得ない祈りがある

痛まなければ  知り得ない悲しみがある

おお 病まなければ わたしは神にお会いできなかった』

人によっては「信仰を持てば、何か良い事があるのではないか」という期待を持っている人があるかもしれない。そう願わずにいられない苦難の中に置かれている人も、確かに存在する。それらの人々に対して、我らは語る言葉を持っていない現実がある。しかしイエスは、十字架の直前に立ちながら「苦難の意味を悟れ!」と我々に呼びかけるのである。

「苦難の生活が実は喜びのただなかに置かれている」ことの再発見を促すのが福音のメッセージである。この再発見は、苦難と喜びとを切り離して並べ相対化する『水戸黄門』の価値観からは生まれない。苦難の中で喜びをじっと我慢して待ち続ける受動的な生き方とは、決定的に別物である。この世のものでなかった存在が、この世の中に現れた。そういう存在であるイエスのみがもたらす転換であり、そのイエスと共にあるという確信から生まれて来る能動的な生き方の先にのみ開けて来る世界である。

だから我らは、イエスの名によって祈るのである。