竹迫牧師の通信説教
『教会の栄光』
ヨハネによる福音書 第16章 12-15 による説教
1997年9月21日
浪岡伝道所礼拝にて

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて、真理をことごとく悟らせる。」(13)

東奥義塾高校の聖書の授業で、2年生に創世記を教えている。1章から始めてようやく辿り着いた第5章では、アダムからノアに至るまでの10代にわたる系図が記されている。毎年のことだが、そこを始めて読む高校生たちは、記された人物たちの年齢があまりにも大きいので驚く。短くても300年、長いと900年以上生きたと記されているのである。驚きを通り越すと、「こんなに長く生きられるはずはない。聖書はやっぱりでたらめだ」と、みな一様に考え始めることになる。

確かに、人間はそんなに長く生きられるはずがない。そこに記されているのは事実の記録ではないだろう(登場する人物名自体、実在の人物である保証はない)。この常識はずれの長寿について、ある人は「長生きする事が神の祝福である、という考えが背景にあるのだろう」と述べている。確かに、今ほど医療も行き届いておらず、また栄養や衛生についての認識が浅かった大昔には、ある程度の年齢以上に生きることは難しかったのかもしれない。殊に大きな戦争が頻発する時代には、若い者しか生き残れないような制約があったことだろう。それだけに年老いた人々の経験の蓄積は、今では考えられないほど貴重な資料だったのに違いない。年老いた人々の記憶は、歴史を受け継ぐためになくてはならない大切なものであった。「長寿は神の祝福」と考える事ができた時代、「老いる」ことは必ずしもマイナスのこととしては捉えられていなかったのではないあ。若い人々は、「老いる」事をも成長の目標として捉え、その日1日を「成長の1歩」として捉える事ができたのではないか。

「超高齢化社会」と言われるようになってきた。働く事ができる若い人に比べて、社会の第一線を退く時期にさしかかった人々が圧倒的に増えているという。そうした時代、年を重ねる事が必ずしも祝福だとは考えられなくなっている現実がある。「トシですから」という言葉が、「もう役には立ちませんから」という意味で使われるようになったのはいつからの事なのだろうか。老いた人々の方が増えているというのに、社会はいまだに若い人々を中心に動いている。いわゆるアイドルタレントは低年齢化の一途を辿り、それにつれて老人蔑視の風潮はますます激しくなっているような印象を受ける。

高校生たちの言葉から感じられるのも、年齢を重ねること(すなわち生きること)に対する空しさの蓄積が蔓延するという予感である。若い者が年長者に阻まれて活躍しにくくなっている今日のような時代には、「いつかは俺も」という成長の目標を見出しにくくなっているのかもしれない。実現するかどうかわからない(というより実現しない可能性の方が高い)遠大な理想や夢を掲げて追求するより、自分が歩む日常としての「今」だけに安楽や快楽を求める方が現実に即した生き方であるように感じられるのは無理もない。「結局、自分が生きている間に手に入れられるものは限られているのだから」と。

「老い」を恐れ嘆くのは、今日においては年長者ではなく、むしろ若い世代の方なのではないだろうか。いま現在手に入れている安楽や快楽が失われる事を、若い人々こそが恐れている時代なのではないだろうか。

浪岡伝道所は、比較的若い人々が集まっている教会である。これは北東北地域に限らず、日本基督教団全体としても珍しい事であるらしい。しかしそれを、ただちに喜ばしい現象であると結論付けて良いものだろうか。献身の誓いも新たにこの世へと一歩を踏み出す時、しかし我らはすぐにも世の若者たちと同一の虚無感に飲み込まれて行かざるを得ないでいる現実があるからである。その我らに、いかにして生きる事の素晴らしさや喜びを語ることができるのだろうか。

今回の聖書箇所は、十字架の死を目前にしたイエスが弟子たちに聖霊の働きを語っている部分である。直接的な言葉では述べられていないが、「十字架におけるイエスの死」の本当の意味が、聖霊の到来によって初めて理解できるようになる、とイエスは語っているのである。使徒言行録によれば、教会は聖霊の働きによって誕生した共同体である。それは使徒言行録だけに見られる解釈ではなく、教会の始まりから今日まで受け継がれてきた理解である。教会は聖霊の果実なのである。聖霊は、イエスがキリスト(救い主)であることを教え、それへの信仰を引き起こす。人を集め、ひとつにまとめて教会とする。イエス=キリストの救いを証しするという教会の働きは、聖霊の働きの結果なのである。そして聖霊は、十字架でイエスが死ぬのと引き換えにこの世に与えられたのであった。イエスは弟子たちに「聖霊」を語ることで、自分の死を越えた遠い将来のことを、つまり今日に生きる我々のことさえも包み込んで語っている。

教会に集う我らは、聖霊の導きによって集められているのである。その働きは目に見えないものであり、信仰によって後から確かめられる他はない。我々の宣教は、すなわち聖霊がいかにして我々を教会に集めたかを証しする働きに他ならない。我々の証しは、現在までの道のりが、神の定めた計画の一部を形成している事の確信に基づくものである。そして同時に我々は、近い将来から遠い未来に至るまで、また我々の生の時間をも越えた我々が見る事のできない世代をも包括している事への信仰なしには成立しない言葉を語るよう召されているのである。

「我々が教会にある」という出来事そのものが、既に聖霊が到来している事の証しとして、我らの手に委ねられている事実である。ここに我らがある・我らの交わりが形成されているという事実が、そのままイエスの予告した聖霊の働きを指し示している。

「その方(聖霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」とイエスは語った。聖霊がイエスに栄光を与えるのなら、教会の存在はイエスの栄光の証しである。我々の日々の歩みが、そしてそれを持ちよる教会の歩みが、イエスの栄光を証しするのである。

聖霊によって押し出される歩みは、1日1日の積み重ねを感謝する歩みに変える。今日ここにある事が祝福なのだ、ということを我らに教えてくれる。全てを投げ出してしまいたくなるような落ち込みに襲われる時、この事を思い起こしたい。未来に向かって進められる我らの歩み・すなわち「老い」が祝福とされる事を心に刻む事から、この週の歩みを始めたい