竹迫牧師の通信説教
『共にあるイエス』
ヨハネによる福音書 第16章 1-11 による説教
1997年9月14日
浪岡伝道所礼拝にて

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。(7−8)

キリスト教における「愛」を説明するのに、よく「エロスの愛」と「アガペーの愛」という対比が用いられる。エロスもアガペーもギリシャ語であるが、「アガペー」が「神の愛」と訳されるのを考えれば、「エロス」は「人間の愛」とするべきかもしれない。日本語においては「愛」というひとつの言葉に括られてしまうこの2つのあり方について、この所考えさせられる機会が多い。

時節柄、統一協会問題に関係する相談が増えてきた。そして、学生YMCAの集会において行われた浅見定雄先生のカルト問題に関する講演を録音テープから文章にする作業を手伝っている。そうした働きに立ち会う時、自分自身のカルト体験を思い起こす。

あの、ニセ募金やインチキ勧誘活動に不眠不休で励んでいた時の私は、しかしそこで愛を行おうと努力し、また愛を行い得ているという満足から生きる自信を掴み取る日々を生きていたはずであった。客観的には、人を騙し、また弱みに付け込んで陥れるという働きでしかなかったが、しかしそれは方法が間違っているという事であって、その動機には紛れもなく愛があったのだ、と信じている面があった。本当に、当時の私を含めたカルト信者の殆どは、人々を愛していた! ただ、想像力が少し足りず、自分の姿を客観的に見るという発想と努力が奪われていたに過ぎなかった。その熱烈で純粋な思いをもって、詐欺的な反社会的な活動に没頭していたのであった。その行為が間違っていたからといって、あの思いが「愛ではなかった」と言う人がいたら、私は真っ向から反論する。あれは愛であった!問われるべきなのは、恐らく「そこにあった愛が本物か否か」「それは愛であるか否か」ではない。「それがどのような種類の愛であったか」である。

イエス=キリストの姿に表されているのが「アガペー」であるのなら、それは「与える愛」「捧げる愛」である。イエスは、自分の能力を与え命を捧げた。他者のために自分の存在を投げ出すのがイエスの愛であった。すると、「エロス」はどういう愛なのか。それは多分「所有する愛」と言うべきである。何ものかを自分の物にしようとして、自分だけのものにしようとして、それに固執すること。それが「エロス」ではないか。

カルトの中での生活というものは、本当に禁欲的で厳しいものであった。睡眠時間は長くて4時間。自分のための収入は、あっても月に2万円弱。休憩は1週間に半日。恋愛は禁止。食事も少なく、着るものも髪型も殆ど決められた形でなければならず、何より決められた事以外を行う自由が取り上げられていた。それはおよそ人間の生活とは程遠い(あれを人間の生活と呼んではならない!)、教祖に全てを捧げ尽くし、向き合う人(客観的には騙す標的にする人)に熱烈な愛を傾ける日々であった。にもかかわらず今あの生活を振り返ると、私を含めてその中にいた人々が持っていたのは、間違いなく「所有する愛」だったのである。何を所有したのか。それは「自分はよい事をしている」「自分は良い人間になった」「自分は生きがいを手に入れた」という、自分の存在の事実に対する満足を所有したのだった。行動としては捧げる事の連続だったが、「捧げる」という行為と引き換えに「満足」を所有していた。自分が満足しているものだから、自分の行為によって何かを奪われて行く人への思いやりはひとつもなかった上に、自分では自分の事を「思いやり溢れる愛の人だ」と錯覚していたのである。事実は、自己満足を所有するための愛にすぎないにも関わらず、その愛によって世界を変革できると信じる事が、カルト信者の「罪」である。具体的な行為が犯罪であるとかそうでないとか以前に、「エロス」を「アガペー」であると錯覚するあり方が罪なのである。

「所有する愛」それ自体は、罪でも何でもない。それは、カルトからの脱出に成功した人々の証言によって明らかである。カルトからの脱出は、殆どの場合その家族の「所有する愛」によってきっかけを与えられる。「私の息子が奪られた!」「私の娘が、別人にさせられた!」という衝撃から、家族の活動が始まる。「私の子どもを取り戻す」という執念から、本人を脱出させるためのあらゆる努力が始まるのである。それが本人をカルトという牢獄から脱出させる原動力になる。それはやはり「愛」であり、その愛なくしてカルトからの脱出は起り得ない。したがって、「所有する愛=エロス」それ自体は罪ではあり得ない。むしろ罪を食い止め、人を解放する有効な力となり得るのである。

ただし、両者の「エロス」が衝突しているだけでは、解放は決して起らない。エゴイズムとエゴイズムの衝突が生み出すのは勝敗の結果に過ぎず、決して和解は起らない。

一方のエゴイズムが消滅したとしても、それは解放ではないのである。むしろ、自分の「愛」がエゴイズムであり「エロス」に過ぎないものであること、自分の「愛」が有限であり無力である事を両者が悟る時、本当の解放がもたらされ和解が始まるのである。

列王記に示された『ソロモンの知恵』。「私こそがこの赤ん坊の母親だ」と主張して引かない2人の女性を見たソロモンは、「子どもを半分に裂いて両方が手に入れたらよい」と剣を用意する。一方は「この子をその人に上げてください!絶対に殺さないでください!」と叫び、他方は「この子を裂いて、どちらのものにもしないで下さい」と冷然と言い放つ。ソロモンは、子どもを手放してまで命を守ろうとした女性を母親にふさわしい者として認定する。そこに「エロス」を超えた何かが認められたからである(結局どちらが本物の母親だったのかが明らかにされず、母にふさわしい者が母とされている点が興味深い。「血縁」が相対化されているからである。これをモデルにしたと思われる『大岡越前』では、本物の母親だからこそ子供の手を放してしまったとされている。)。

前回、ヨハネ福音書が書かれた当時のキリスト者の様子を学んだ。ローマ帝国に支配されたユダヤには次第に反ローマ感情が育っていたが、もし戦争になればユダヤの勝ち目はない。そう考えたユダヤ教の権力者は、イエスをユダヤとローマに共通の敵として処刑する事で平和を保とうと考えたのであった。そういうユダヤの権力者たちにとって、その後も次第に勢力を伸ばしていく「ナザレ派(キリスト教徒)」は脅威であり、かつローマの圧力とユダヤの反感を処理するのに都合のよい集団でもあった。そこでキリスト教徒は次々にユダヤ教の会堂から追放され、あるいは処刑されて行ったのだった。ユダヤ教の会堂から追放される事は、ユダヤ社会から締め出されるという事でもある。たちまち近所付きあいはできなくなり、収入もなくなり、その地を去らなければならない人々も大勢あった。キリスト者たちは、懐かしい人々・愛すべき祖国から追放されて行ったのである。追放される者にとっても、残される者にとっても、理不尽で耐え難い別れを強いられることになったのであった。しかも彼らは、神の名の下に追放処分を受けたのである。同じ神を信ずるはずのユダヤ教から、神の名によって追放されるキリスト者たちの悲しみと苦悩は・そして怒りは、我々の想像を超えている。

今日の聖書箇所でイエスが語る「別れの予告」は、そのような背景のもとに書かれ、また読まれたのである。「神は、なぜこのような事態をお許しになるのか!」「なぜイエスは我々のもとから去られたのか!」。この問いとも訴えとも呻きともつかない心の叫びは、イエスの十字架を目の前にした弟子たちの思いと同じである。その、弱り果て苦しみ抜くキリスト者たちに向かい、イエスは「私が去って行くのは、あなたがたのためになる」と語るのである。「私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。弁護者とは、イエスが救い主(キリスト)である事を証しする「聖霊」のことである。後にイエスの弟子を集め、教会を立てる神の力の事である。イエスは、十字架において世の罪を背負って死ぬという究極の愛の行為によって、神が人間を心から愛している事を、その愛が「エロス」ではなく「アガペー」である事を表した。人間を所有するのではなく、人間のために自分を捨てる愛である事を示した。神が人間の解放と和解とを求めている事を示したのである。

そのために、イエスは弟子たちに別れを告げたのであった。それは、弟子たちのそばを物理的には離れて行くが、しかしそれは遠くへおいやられバラバラに分断されて行く人間たちと本当の意味で共にあるために、離れて行くのである。

この夏、大変懐かしい再会を果たした人々が幾人かあった。お互いがお互いの支えになっており、とても大切な関係である事を確認しあうことが出来た。また、新しい出会いも幾つかあった。これから実現するに違いない可能性に、大変な希望を感じている。

これらはとても感謝なことであった。しかし同じに、大変悲しむべき出来事も多くあり、私の身近にも亀裂が生じた関係が幾つかあった。これは大変に辛く、哀しい出来事であった。 何らかの形でひとときを共に過ごす人があったとしたら、それは神の導きによって与えられた出会いである。お互いが神によって造られ、神によって出会わせられた事を感謝しうる交わりである限り、その出会いは宝である。与えられた「共に過ごす時」は、我らの魂の糧である。それだけに、出会いに必然的についてまわる「別れ」の現実は耐え難く辛い。大切な人との別れはもちろんのこと、お互いに怒りをぶつけて別れる時も内蔵がねじれるような辛さを感じるものである。

しかし、そのまま物理的に一緒にい続ける事だけが、「共にある」という事なのではない、とイエスは教えるのである。一緒にいようとするばかりに、それまでの自分をやめてしまわなければならないとしたら、それはもはや与えられた出会いを骨抜きにする事でしかない。どちらかが、あるいは両方が「自分である事」をやめなければ共にいられないとするならば、それは既に「その人」と共にいるのではなくなってしまうのである。

その人と別々の場所で生きるべく別れて行かざるを得なかったとしても、それが「自分が自分として生きる」ためであるならば、体は離れていたとしても「共にいない」という事ではあり得ない。そこにあるのが、お互いを求め合う喜ばしい気持ちだけでなく、お互いを呪い合うような不快なものであっても、それぞれの命は神によって造られ与えられたものなのである。別々の場所へと歩んで行く事は、神から与えられた命を最も良く生かす道へと送り出されて行く事に他ならない。そしてその事が、神から与えられた宝としての「出会い」を無にしないための唯一の道なのである。お互いが、お互いの更なる成長のために別れて行くならば、その時「私」と「その人」は、より一層「共にある」ために別れて行くのである。まさしくイエスは、そのようにして「共にある」ために別れを告げたのであった。全てが我らの利益のために与えられている事を信じ、感謝を絶やさずに歩みたい。イエスは、遠く神のもとへと行かれたからこそ、我らと「共にある」のである。