竹迫牧師の通信説教
『憎しみへの派遣』
ヨハネによる福音書 第15章18-27 による説教
1997年9月7日
浪岡伝道所礼拝にて

「あなたがたが世に属していなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。(19)

「キリスト教ラジオ放送局 日本FEBC(AM1566kHz 毎日夜9時30分から放送)」のインタビューを受けた(12月28日放送予定)。インタビュアーとの語らいの中で『キリスト教の土着化』の話題となり、「古来からの生活習慣や宗教的因習の強い土地柄で、何とか人々にキリスト教を受け入れてもらおうと奮闘する牧師たち」のお話を伺った。致死・地方を問わず、我々を含めた全ての人間に共通する、見た事のない人・自分たちとは違う人を追い出そうとする「異者排除」の問題について考えさせられた。

人は、他者に向かって絶えず「あなたは(私にとって)何者か?」という問いを発しながら生きている。「あなたは私の敵か、味方か」「あなたは私に損害をもたらすか、利益を与えてくれるか」…。そしてもちろん、敵よりは味方、損害よりは利益を求め、同じ味方・利益であっても、より心地好い方を選ぼうとするのである。このこと自体は、特に問題を含んではいない。人間に限らず全ての生物は、より安全でより快適な生活を求めて行動するように造られていると言ってよいだろう。人間の文明や文化も、そのための知恵の集大成であり、蓄積である。味方や利益ばかりでなく、的屋損害の可能性も隠れているこの世にあっては、「他者を容易に信頼しない」という行動様式は、生存術としては極めて有効な方法であり、元来生物学的なレベルで設定された「本能」であるかもしれない。

だから、初めて会う人や、今までに見た事の内種類の行動をとったりする人がいたら、警戒心を抱くのは極めて自然な反応であると言わなければならない。そして人間の場合、それが個人に対してだけでなく、例えば新しい宗教や外国の生活習慣など、集団や団体などにあるルールや行動の傾向に対しても起こる反応となる。キリスト教というひとつの宗教が、それまでに見た事のない習慣を持ち、また聞いたことのないルールを語る存在であるなら、それを囲む人々の中に警戒が起こるのも当然といわなければならない。

だがここで踏まえておかなければならないのは、「簡単に相手を信頼しない」という事と「どんな場合でも相手を拒絶する」事とは違う、という点である。見た事がないもの・出会ったことがない存在に対して警戒心を抱くのが本能的な反応だとしても、それは判断が保留されている状態であり、また一度確定した判断であっても待った九編かが起こらないわけではない。それが利益をもたらしたり心地好さを提供したりするものであるならば、警戒は親愛に変化し得るのである。「キリスト教の土着化」に関する試みは、多くの場合この「変化」に対する期待を基盤としてなされているものである。誤解や錯覚を修正し、同時に人々の利益になるための活動を模索する事で無用の警戒を解き、また「異者」として存在する事から見えて来る既存の秩序に生じている齟齬や矛盾の解消のために共に戦う事を通じて、世の人々の仲間として受け入れられる事を目指すのである。

その試みが実を結んだ、という報告も多くあり、我らはそれを感謝と喜びをもって聞いている。現在、八甲田伝道所の事業として進められている「農村センター」もそうした活動のひとつである。

だが今日の聖書箇所は、そのような試みの数々が全く無力であるかのような印象を与えるのである。「世はあなたがたを憎む!」とイエスは断言する。我々には、この世の誰の仲間にもなる事が許されていないのだろうか。土着化の努力や社会への貢献は、所詮無駄な抵抗なのだろうか。このイエスの言葉の真意を悟るため、我々はヨハネ福音書が書かれた頃の時代的背景に注目しなければならない。

ヨハネ福音書が書かれた1世紀の終わり頃、ユダヤ教とキリスト教は対立を深めつつあった。イエス自身やその直弟子たちは皆ユダヤ教徒であり、始めのキリスト教の信者達も、ほとんどはユダヤ教徒であった。イエスが語った「父なる神」は、旧約に証しされる「ヤハウェ」であるから、ユダヤ教の会堂に詣でて礼拝する事には何の矛盾もなかったのである。元々ユダヤ人であった彼らは、仮にキリスト教徒となった事が原因でユダヤ教社会に対する何らかの矛盾を感じる事があったとしても、生活の必要上からもユダヤ教を離れるわけに行かなかったという事情もあったに違いない。しかしユダヤ教の指導者側からすると、キリスト教徒の存在は脅威であった。ローマ帝国の圧倒的な武力を背景にした支配と、民族の自主独立を求めるユダヤの国民感情との板挟みにあった当時のユダヤ教指導者たちは、イエスを帝国に対する反逆者として告発し、ユダヤ・ローマに共通の敵として葬る事で、和平を保ったのであった。その延長に立ってイエス死後も、ローマ帝国の厳しい監視の目をキリスト教に逸らせる事によって、ユダヤの延命を図ったのである。従って、ユダヤ教の会堂にキリスト教とが混じっている事態は放置できなかったのであった(当時のユダヤ教の祈祷文には「キリスト教徒は一瞬のうちに滅び去りますように」という項目が加えられ、これを唱和できない者はキリスト教徒と見なされ追放処分を受けた。ユダヤ教からの追放は、ユダヤ人にとりすなわちユダヤ社会からの追放を意味した)。このようにして、同じ神を信じるはずのユダヤ教から迫害され追放されたキリスト者たちは、人目を忍んで独自の教団(キリスト教会)を結成するに至り、自分たちを締め出そうとする圧力を身近に感じながら、しかしそれと闘いつつ「キリストによる神の救いの完成」を宣教しなければならなかったのである。土着化どころではない、生きるための闘いの中に、彼らは踏み出さなければならなかったのだった。

しかし、そのような彼らだからこそ、逆にイエスの教えの偉大さを噛み締める事にもなったのである。イエスは、キリスト者がユダヤ社会から排除されるようになるはるか以前から、当時既に排除されていた被差別者・障害者・貧困生活者・異民族に自ら接近し、「あなたがたにこそ、神の救いが与えられる!」との約束を語っていた。抵抗の術を持たない弱者を身代わりとして立てしわ寄せを強いる事で安息を確保しようと腐心する指導者たちへの異議申し立てを恐れずに行ない、「自分自身を愛するように隣人を愛せよ」という神の命令を知っているはずの彼らの信仰の矛盾を告発していた。そして最期には、そのような敵たちのためにさえ神の赦しを祈りつつ、自ら「排除される者」として十字架にかけられた。その姿には、「いま救いを求める人々を、何の理由もないままに選び、偏って愛して救おうとする」という旧約のヤハウェの愛が明らかに示されていたのである。ヤハゥエこそは、奴隷の民として苦しみを受けるイスラエルを、美しいからで立派だからでもなく(つまり助けたからといって神の利益になるような要因は全く認められないにもかかわらず)、ただその苦しみの呻きを聞き届けたというだけの理由で、偏って愛し救い出した神であった。その後、幾らイスラエルが神に背き離れ去っても、繰り返し悔い改めを呼びかけて接近し、自らイスラエルを捨てる道を決して選ばなかった神であった。始めの教会の人々は、迫害され追放される立場に立たされた事で、このような神の姿をイエスの歩みの中に再発見したのであった。そのような神が自分たちと共にあることを再確認したのであった。そのようにして、ヨハネ福音書は書かれ、読み継がれてきたのである。

土着化の試みは、捨てられるべきではない。それは無用な警戒を解くという意味で、必要な働きである。世の人々の仲間として迎えられるという理想も放棄するべきではない。神の愛を分かち合う素晴らしさを、我々はよく知っているからである。キリスト教がこの国において大きな勢力となるためのあらゆる努力は、全て有効である。無視され捨てられ踏みにじられる人々の悲惨が解消されることは、神の御心にかなっているからである。

しかしそれらの働きは、全てがイエスの歩みの延長に立ったものでなければならない! それらの働きが、自分自身の安息を得るために為されるのであれば、我らはもう一度、イエスを十字架につけて殺してしまうのである。自分の安息のためだけでなく、他者の安息をも祈り求めて歩む事、それもいま一方的に安息を奪われている人々のために、時には自分の安息さえ投げ棄てて歩む事。一切がこのために行われている時、我らはイエスの枝として歩む事になる。

世を見渡す時、喜びよりは悲しみが、愛よりは憎しみが満ちているのを、我らは観る事になる。そして、ほとんど全ての世界が喜びと愛に満たされていても、ただひとつの悲しみや憎しみが見出される時には、イエスはそこを目指して歩まれる。嘆きの呟きや苦しみの呻きのために、自ら近寄って共に立つのが神の愛だからである。神から遣わされたイエスの歩みだからである。この世から憎まれ蔑まれる人々のそばへと、我らは派遣されて行く。そこに、十字架に付けられたイエスが共に立っておられるからである。

そしてもし、ここにいる我らが苦しみや憎しみのただ中に立っているとするならば、イエスはここにおられるのである! 我らはその時、「イエスが我らと共にいる!」と大声で証しすればよい。我らの悩みや苦しみ、病や弱さは、そして我らに向けられる憎しみは、すべて我らの誇りと栄光に変えられているのである。