竹迫牧師の通信説教
『「共働体」構築の志向性 〜神戸事件に思う』
創世記 第2章 4-5による説教
1997年 『THE YMCA』10月号 寄稿文に基づき加筆

主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。(創世記2:4-5)

冒頭に掲げた聖句は天地創造が始まる前の風景を描写したものである。ここでは、地上を雨で潤す「神の働き」と地を耕す「人の働き」との「共働」によって「創造」が実現する、という理解が前提されている。神と共に働くために造られた者という人間観があるのである。『エデンの園物語』は、「いのちを生み出し、豊かに育てる」ことこそが人間の生きる目的であり、しかもそれが神との「共働」作業であることを訴えようとしている。 この後、「人」の「助け手」として「女」が創造されるエピソードが続く。途中「人」の言葉として語られる「これこそ私の骨の骨/私の肉の肉」に始まる一文は、古代から結婚式で歌い継がれてきた詩であり、『エデンの園物語』は結婚の起源を説明する伝承をも含むものであると想像される。しかし現代の我々は、これを従来言われてきたように「結婚の推奨」というメッセージに一元化して受け取るよりも、神から・あるいは人から孤立し続けている「人間」に対する「共働」関係への招きと捉え直す必要に迫られているのではないか。

結婚に聖礼典としての意味を認めないプロテスタンティズムのあり方を考える時、この箇所から従来通りの「結婚推進のプロパガンダ」しか読めないとするなら、それは敢えてカトリックとは異なる独自の路線を貫く立場としては思想的な怠慢を感じられる。

また今日の我が国の中にあって大きな問題とされている「教育の空洞化」に鑑みる時、経済成長の動力源となった「富国強兵」路線の残滓の必然として浮上する「子どもの非人間化」に対する批判のポイントを放棄することにもなりかねない。同時に、「誤った生き方」として排除されがちな「シングル」や同性愛の人々を痛めつけ続けている結婚偏重主義的な潮流に対して全くの無抵抗状態となる事を正当化する根拠ともされかねない。

同様の事は「助け手」という訳語についても言える事であろう。「ヘルパー」や「アシスタント」を連想させるこの訳語に、女性蔑視撤廃の視点からの批判的検討が必要とされる時代であることは言うまでもない。それまで「人」と呼ばれた者は、女の登場によって「これをこそ女と呼ぼう/まさに、男から取られたものだから」と告白し、はじめて「人」が集合概念となるのである。「男」というカテゴライズが「女」の登場によって相対的に出現している順序に注目するフェミニズム神学の業績は、もっと顧みられるべきである。

もちろん、結婚という制度に認められる知恵の集積を否定するのではない。しかし、今日的な状況の中で、無批判にそれを肯定する訳にはいかないのも事実なのである。最早、結婚というあり方を絶対視するのみの狭い理解を得て満足する事はできない。女と男という異性同士の結び付きによって初めて新しい生命が誕生するという事実を一つの表象として受容する時、この箇所からは「いのちを生み出し、豊かに育てる」という神との「共働」作業に、人同士が「共働」しつつ参与しよう、というメッセージを読み取ることが可能になる。そこに、回復されるべき人間性の一端を読み取るのは不可能な事ではないし、今日ほどそれが求められている時代はないのではないか。

言い直せば、こういうことになる。

「人はパートナーとして人に結びつく存在であり、同時に、人はパートナーとして神に結びつく存在である」。

思えば聖書には、人は「神と人」「人と人」の二重のパートナーシップに生きる存在である、との洞察が貫かれている。新約においても、「1番大事な律法は何か」と問われたイエスが「神を愛せよ」「人を愛せよ」の2つを不可分のものとして挙げており、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」と勧める書簡もある。

神は、我ら人間のパートナーなのである! 『エデンの園物語』は、「罪」を、すべてパートナーシップの破壊として位置付ける。「善悪の知識の木」をわざわざエデンの園の中央に植えておきながら「この実を食べてはならない」と命じる神の姿に矛盾を指摘することは容易である。だが、「食べる・食べない」の選択肢の狭間で、人間が取るべき態度を自己決定できるという自由が与えられていたことに、我々はもっと注目してよい。もし人間が自由を持たない神のドレイならば、神はこの木を植えることはしなかったであろう。「食べる」という選択肢をあらかじめ取り除かれた姿が正しい人間のあり方だとするならば、(それは楽なことには違いないが)そこに自由は存在しない。ドレイどころか「ロボット」である。二者択一ではあるが、しかしどちらを選ぶ自由も与えられた状態で「食べない」選択をする時、人は自由意志で神と共にある道を選び取ることになる。

互いの自由意志に基づき、ひとつの目標に向かう働きを共に担う時、両者は「パートナー」となるのである。神とのパートナーシップを放棄する(「神のようになる」事を企図して、つまり「自分は自分である」「他者は他者である」という両者の独自性を帳消しにする)事を選んだ人間は、人間同士のパートナーシップだけを選別的に保持することができず、木の実を食した責任をなすりつけ合う関係に転落するのである。結果、「男」「女」「自然界」の順で従属させられる支配関係が構築され(しかも「自然界」は食物を得ようとする「男」に反逆するのだから、厳密に言えばこれはジャンケンの関係である)、しかもそこに依存しなければ生きていけないという悲惨が生み出される事になる。

続く「カインとアベル」の物語においても、まるでコインの裏表のようにして、同様のテーマが扱われている。カインの1年に渡る労苦の実りである献げ物が退けられ、アベルの献げ物だけが受け取られる理由は、ここでは明確に語られないまま惨劇が引き起こされる。カインの神に対する熱心を思えば殺人もやむなし、との心情に、『忠臣蔵』の文化圏に属する我々は傾きがちであるが、冷静に考えるならば「アベルの献げ物が神に受け入れられた」事がアベル殺害の正当な理由には到底なりえないことに気付く。つまりカインは既に、アベルを「腹いせに殺してしまえる」ような対象として見るという歪んだ関係を構築してきたのである。殺人は、その結果的な現象であるにすぎない。「善悪の知識の木の実」において示された「神と人・人と人の二重のパートナーシップは切り離し得ない(一方が破棄されると、他方も連鎖的に破壊される)」という洞察を顧みる時、神がカインの献げ物を退けたのは、カインが人間同士のパートナーシップに生きていないという現実があったからだ、と理解することができる。カインの「信仰」は、信仰ではあり得なかったのだ。

「パートナーとしての神」という神観に立つ時、我らが「信仰」と称しているあり方の実態を検討する手がかりが与えられることになる。私が日常付き合っている高校生たちに「神」について問題提起する時、彼らは一様に「独裁的な特権を一手に握った絶対的君主」という嫌悪感を塗りたくったイメージを抱いていることに気付かされる。その裏返しとして、そのような支配者に無批判に依存する自由と主体性を放棄した「ロボット人間の集団」あるいは「ロボット的運動体」として「宗教」全般を理解する。もちろん、高校生に限らず教職員たちもそのようなものとして「宗教」を整理している。この事は、「パートナーシップ」をいまだに日本語化できずにいる我々キリスト者の働きの不十分さを指示してはいないだろうか(私は『共働性』とするが、これとて到底日常言語にはなりえない)。

日本語という言語に組み込まれた「敬語」というシステムは、世界的に例を見ない特異なものである、との指摘を読んだことがある。この指摘が妥当か否かは専門家による助言を仰ぎたい所ではあるが、「貴方」と書いて「あなた」と読ませ(そして自分を「僕=しもべ」と低く対置させる)、「公私」の対比に見る通りプライバシーを公益に準ずる一段低いものと設定する(「滅私奉公」が美徳であるという考え方は、日本のキリスト教界にも根強い儒教的伝統である)日本語の美学が、「パートナーシップ」という発想となじみにくいものであることは容易に理解できる(ちなみに、「パートナーシップを日本語に訳せ」と生徒たちに問題提起すると「相棒」と応える場合が多い。語源はともかくとして、多分に「ヤクザ」臭が漂うアウトロウ的な雰囲気を持つ言葉でしか、パートナーシップを説明できないでいるのである)。

一般に、日本の教育から宗教色が払拭されたのは、戦時の「国家神道」に基づく軍国主義教育に対する徹底的な反省の結果である、とは言われている。それが、彼らを(そして潜在的には我々をも!)宗教に対する一面的な警戒と軽蔑に駆り立てる大きな動力ともなっている(同時にその姿勢は、破壊的カルトが続々と出現する現代において、十全ではないにしても、ある程度効果的なスタンスの取り方である、という一定の評価を下さなければならない現実がある)。私は他の宗教のあり方について語る資格を持たないが、少なくとも戦後日本におけるキリスト教界は「生命を生み出して育てる」という働きを「共に担う」対人関係・対神関係を十分に造り上げてはこなかった、と見なすべきではないかと考えている。

我々は、依然として神を「独裁者」か「依存の対象」としてしか見ることが出来ないし、語ることができないでいる。その事情が(不可分のものとして)対人関係にも反映されていると言わざるを得ない。我々があの神戸の事件に対して衝撃を受けたのも、自分を取り巻く人間関係全般が実は「支配・依存」という表裏一体の現象にきれいに分類されてしまうだけの内実しか備えていないことを暴露されたからではなかったか。

「マインドコントロール」と呼ばれる破壊的カルトに特有の教育テクニックも、実は教祖という「支配者」への依存を加速させるものに過ぎない。そしてそれは、多分に学校的なイメージで統合できるのであるが、そのターゲットとされる青少年たちは既に、たとえば学校という時空間に典型的に表われている「支配・依存」の構造に組み込まれている。「教育」という創造的なイメージを孕んだ言葉で指し示されているものは、「飼育」「調教」という言葉で代用が可能なものがほとんどである(私自身も、その一端を担っているという点で無罪ではあり得ない)。

その視点からすれば、カルトに取り込まれた青年たちも、あの神戸の事件の容疑者も、その構造を破壊しうる可能性を無意識的に渇望していた人々であるとさえ言える。それが、現実的には形を変えた「支配・依存」にシフトしたに過ぎないでいる所に、これら一連の出来事の悲惨さの本質があるのではないか。

出エジプト記には、神の導きによってドレイとされていたエジプトを脱出した直後のイスラエルの民が、目的地までの旅の途上で食料不足にあって「エジプトでは肉鍋を囲んでいたではないか」と嘆いた、と記されている。自由を手放した方が、生活が保証され精神的にも落ち着けるような気楽さを生きる事ができる、という事実は確かにある。

しかし神は、そのようなものとして人間を造られたのではなかった。自由に付きまとう困難を担って歩む力と、何より「共に働く」パートナーとしての人間を求めたのであった。「教育」の名で行われる働きは、そうした成長を促す働きとして捉えられるべきではないか。少なくとも「聖書」を基盤に青少年に関わる者には、求められている姿勢ではないか。

エデンを追放されるアダムとエバに対し、神は皮の服を作って着せられた。また、大地の呪いによって放浪する者となったカインに対し、神は彼が殺されることのないように「しるし」をつけた。自らの意志で「背き」を選択した人間に対し、繰り返し保護を与え帰還を呼びかける神の姿が、旧約の大きなテーマである。その最後的・決定的な最大の呼びかけが、イエスの十字架に結実した。「神の殺害」というパートナーシップの決定的な破壊の事実をもって人間の救いを達成するという、大いなる逆説によって、神は「人間と共に歩む」という決意を貫いたのだった。我々はイエスの十字架と復活を通じ、「支配・依存」の構造から脱出して「神と人・人と人が、共に命を育てるために働く」関係性を回復するよう招かれている。その招きに対していかに応じるかは、飽くまでも我々人間の自由な判断に委ねられているのである。