竹迫牧師の通信説教
『共に住む家族』
ヨハネによる福音書 第14章18−24による説教
1997年8月10日
浪岡伝道所礼拝にて

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23)

十字架を目前に控えたイエスが、弟子たちに向かって最後の教えを述べる場面を連続して読んでいる。イエスは、自分の死を見詰めながら、「私はあなたがたをみなしごにはしておかない!」と力強く語っている。イスカリオテのユダによる裏切りでローマの官憲に引き渡されるのは時間の間題という状態にありながらその上、裁判の最中ペトロが身を守るために「イエスなど知らない」と三度にわたって言い張る事、十字架に上げられたイエスを仰ぎながらすべての弟子たちが悲嘆に暮れる事、それらを見つめながら、イエスはこの言葉を語っているのである。「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る」。それは復活の予告であるが、同時に我らに対する慰めと励ましの約束でもある。イエスが語り掛けている弟子と、またそのイエスの言葉を読んでいる我々とを、イエスは「世」から区別して下さるからである。

しかし、「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である」とのイエスの言葉に照らすなら、確かにイエスの弟子たちも、また今日に生きる現代の我々も、到底イエスの掟である「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」を実践しているとは言い難い。我々は、本当に身近な人々を、イエスが愛したように愛し得ているだろうか。

あるいは、我々が形成する小さなグループ(例えば友人関係であるとか家族関係であるとか、教会における交わりも考えに入れて良いかもしれない)の中では、それを実践している場面がある、と言えるかもしれない。単に和気あいあいと時間を過ごすだけでなく、時には相手を戒め、また自分が悔い改め、喜びだけでなく苦しみや悲しみをも分かち合う小さな群れが実現できている事がないとは言えない。それでも、それが外の世界への広がりを持たない小さな領域にとどまっている限りは、「馴れ合いに基づいた自己満足の持ち寄り」の域を出ないのではないか。

「親の愛はどんな愛よりも深い」と一般的には言われている。もちろん、時折その言葉の通りの美しい親子愛を見る事がある。最近の飛行機事故にあって奇跡的に救出された少女の証言によれば、その母の行動は大変に深い愛に基づいてのものであることを想像させられる。イエスが神を「父」と呼んだのも、あるいは我々のそうした感覚に訴えるためのものであったかもしれない。

しかし、現実には全くそうではない「親子愛」も多数存在するのだという事実を、我々は見逃してはならない。「親の子に対する愛」という形を取りながら、実は親のエゴイズムを満足させるためだけの行為によって、子どもから人間として必要な自由が全く奪い去られている事がある。よい学校へ、よい会社へ、と「子どものためを思って」押し上げていくことに夢中なのが現代の親たちに多く見られる傾向である、とは良く指摘される問題である。そうした関係性から、数々の悲惨な事件が引き起こされている現実が、確か見てとれるのである。

こうした現象は、たとえば統一協会問題などに取り組む時、よりあからさまに見える事がある。本人を「救出」する事ができるのは、その肉親をおいて他にいない。本人を救い出そうという固い決意をなすことができるのは家族だけ、という事情はもちろんあるが、本人の閉ざされた心を目覚めさせる呼びかけは、家族以外に発することができないのである。にも関らず、「自分の生活が崩される事」と「そうやってしか救えない自分の家族(息子・娘)」とを秤にかけて、子どもを見捨てる親が圧倒的に増えつつあるのである。もちろん、自分の生活を犠牲にしてまでもわが子の救出を決意する親たちも多く存在する事実を忘れてはならない。しかしその多くも、自分の言葉を語って聞かせようとするばかりで、本人の心の言葉には耳を貸さないという習慣からなかなか脱け出る事ができない場合が多いのである。少なくとも統一協会問題に限っては、「そういう関係の家族だから被害に遭う」のではない。どんな人でも被害者となりうるのだし、たまたま被害者となった人々の場合は、他の大多数の家族と同じように親が子を貪るという構造に支配されている、ということが、よりはっきり見えやすいというだけのことである。

このような時代はいつから始まったのだろうか? 親の満足を得るための行動が愛だ、とされてきた時代に生まれ育った人々が、今日様々な凶悪で残忍な事件を数多く引き起こしている。愛に育まれてきたはずの人々が、他者を破壊する行動をとるのである。イエスのように、「捨てられ十字架で晒し者にされる」人々を生み出し続けているのである。その関係性が、もはや愛と呼べるものではない事を表しているとは言えないか。

親子の愛ですらそうなのだとしたら、我々人間に、イエスが示したような「他人のために自分の命を捨てる」という真実の愛は可能なのであろうか。「そのような愛を行え」とイエスが与えた新しい掟を守り得ている人は、一体どれだけあるのだろうか。むしろ「自分のために他人を捨てる」のが我々の実態であり、まさしくそのような人々の在り方こそが、あのイエスの十宇架を引き起こしたのであった。その点で、現代の我々とイエスの弟子たちとは、ただの一点も変わる所がない。

しかしイエスは、そういう弟子たちに向かい「あなたがたは(再び)私を見る!」という約束を語ったのであった。イエスを十字架に追いやる力に飲み込まれているだけでなく、それに荷担する勢力の一員ですらある彼らに向かって、そしてまた同じく裏切り者として十字架の前に立たざるを得ない私達に向かって、イエスは「世は私を見なくなるが、あなたがたは私を見る!」と宣言して下さるのである。救い主を拒絶するこの世の直中にありまたの世の一勢力でしかない我々を、イエスはこの世から選り分け区別して下さった。そして、御自身の死が敗北で終わらず、復活によって勝利に変えられた事の目撃者として、救いを伝える証言者として用いて下さるのである。そのために、主は我らをこの世から区別し、選び取って下さった。

イスカリオテでない方のユダが質問する、「主よ、私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」。これは、私たちも主に対して問わざるを得ない事柄ではないか。なぜ、私のような者が選ばれたのか。

私よりも立派な人なら、他に大勢いるではないか。私よりも力のある人は、他にも大勢いるではないか。イエスを裏切らないどころか、イエスの命じた「愛の掟」を、しかもイエスを知らないまま忠実に行なう人は、幾らでもいるではないか。なぜこのような、みすぼらしく力の足りない私のような者を選ばれたのか。

イエスはこの質間に対して「私を愛する人は、私の言葉を守る」と答えている。

果たして我々は、イエスを「愛して」いるだろうか。そしてイエスの言葉を守っているだろうか。我々がイエスを愛しイエスの戒めを守るから、イエスは我々を選ばれたのだろうか。

事態は全く逆であると言わなければならない。イエスを知らなくても、イエスがなしたような愛を行う人・行なっている人が、少なからず確かに存在する。それらの人々が必ずしも教会に集っているのではないという事実を見るならば、我々がイエスを愛したからここに招かれているのではない事がわかる。まずイエスが、我々を愛して下さった! そうでなければ、我々はここに集い得なかったのである。その動機を知る事は出来ないが、なぜかイエスは我々を愛し、我々を選び取り、我々を招いて下さったのである。

だから我々は、自分の中に誇るべき愛がない事を悟り始めるのである。それを行う者へと変えられる事を祈り始めるのである。このような変化は、イエスが我々を愛してくださるのでなければ起こらなかった。我らが、十宇架に直面した時にイエスを見捨てて逃げ去る存在である事が示されなければ、我々は自分が日常においていかに多くの人々を見捨てて逃げているかにも気づかなかったであろう。他者を愛していない、という事実に向き合わなければ、他者から愛されていない人々の存在に気づく事はなかったであろう。

イエスを十字架へとおいやっていったあの悪魔的な力がこの世には満ちている。

その力に飲み込まれて、多くの人々がイエスと同じように苦しみを受けている。我らは彼らを十字架に追いやる力に加担しているのであり、同時に、その力によって我々白身をも十字架へと追いやっているのである。我々が、イエスを十字架に殺した! にもかかわらず、というより、だからこそイエスは我らを愛してくださった! その事実を受け止める事から出発したい。

イエスは、そして神は、そのような我らと共に住む「家族」になってくださっている。そのことに感謝し、共に住んでくださるにふさわしいものへと成長する事を願って歩みたい。神が共に住み給う平和の世界は、イエスが我らのために命を捨ててくださったあの十字架の時、すでに約束されているのである。その約束に全てを委ねつつ、証しの務めに励みたい。