Date: Sun, 29 Jun 97 22:05:00 +0900
From: 竹迫 之 
Reply-To: ymca-s@cup.com
Subject: [ymca:0679] tuushin-sekkyou
To: ymca-s@cup.com (Cup.Com ymca-s ML)
Message-Id: <199706292205.FML18361@hopemoon.lanminds.com>
X-ML-Name: ymca-s
X-Mail-Count: 0679
Mime-Version: 1.0
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
Posted: Sun, 29 Jun 1997 21:59:00 +0900
Lines: 157

竹迫牧師の通信説教
『神の国は来た』
ルカによる福音書 第17章20−37による説教
1997年6月22日  YMCA大会 聖日礼拝にて

(ここから)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言
われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言
えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(20−21)

 「神の国はいつくるのか」と尋ねるファリサイ派の人々に対し、イエスは「神の
国は見える形では来ない!」と断言する。そして弟子たちに、「『見よ、あそこだ』
『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々
の後を追いかけてもいけない」と語る。
 この箇所から連想させられるのは、オウム真理教や統一協会を始めとする「破壊
的カルト」である。今日、多くの青年たちがこうした反社会的カルト団体に取り込
まれ、マインドコントロールと呼ばれる教育テクニックにより「善を行っている」
と錯覚させられたまま、詐欺や暴力行為などの悪事に従事している。オウム真理教
については裁判が進行中であり、統一協会についてもようやくその組織的犯罪行為
にメスが入ろうとしているが、一方で類似の犯罪カルト集団は続々と現れる気配が
ある。
 私は10年前まで統一協会のメンバーであった。「この世では『悪』と呼ばれても、
それが神のためならば全て正義だ」とする価値観を信じ込み、詐欺を働き、共産主
義と戦うためにテロの訓練を受けた。そこから抜け出す事ができたのは、インチキ
募金の最中に事故に遭って足を骨折したという偶然と、「仲間」であったはずのメ
ンバーたちから口止めのために脅迫や暴行を受けたこと、そして家族や近所の教会
の牧師など周囲の人々の愛と思いやりに支えられてのことであった。
 カルトが流行する背景について、ある人はこう分析する。激動する社会において
は、若さは武器となる。しかし社会が安定し硬直化が始まると、若さは幼さとして
位置付けられる。社会を動かすのは高齢者となり、下ッ端である若い人々には活躍
のチャンスが回ってきにくくなる。明治維新の頃、日本を変える原動力となったの
は随分若い人々であった。今日、少し昔であれば「中年」と呼ばれた年齢となって
も「青年」と呼ぶしかないような若さにとどまる人々が増えていると言われる。し
かしそれは「青年」たちが成熟を拒否しているのでなく、「青年」が成熟を実感で
きない社会に生きていると理解するべきだ、というのである。カルト団体は、オウ
ム真理教で言うならば、ある程度の実力が認められた時、例えば「〜庁長官」と言
った具合の大抜擢が実現する世界である。そこに青年の人気が集まるのは当然だ、
とその人は説明する。
 その話を聞いて、数年前にNHKで放映された『私が愛したウルトラセブン』と
いうドラマを思い出した。これは、当時「セブン」製作に携わったシナリオライタ
ーが書き下ろした、当時の若ものであったスタッフたちの挫折を描いたドラマであ
る。「セブン」とは、ウルトラシリーズの2番目の作品である。放映は昭和42年
(私が生まれた年である)。経済成長の頂点に達しようとしていた日本の子供たち
は、宇宙人の侵略から地球を守るために組織された地球防衛軍の1隊員がセブンに
変身して活躍する姿に毎週熱中したのだった。誰よりも強く豊かであろうと競い合
っていた親たちから以上に、小さき者を見つめ他者のために奉仕しようと戦うセブ
ンから与えられたメッセージを受けた子供たちが、私自身を含めたいま現在「青年」
と呼ばれる人々なのである。
 大江健三郎は70年代当時から、「セブン」を始めとする怪獣映画に熱中する子供
たちへの危惧と不安を表明していた。毎週々々街を破壊しに怪獣が現れる。無力な
人間は、セブンの登場を待たなければならない。そしてセブンは、必ず怪獣を退治
する。こうした作品世界は核時代における不安と絶望感の反映だが、一方で「大い
なる超越者が全てを解決してくれる」という無責任な楽観と依存を子どもに植え付
けるものだ、と批判したのである。
 その批判は、一面で当たっている。硬直した社会システムの中で「何を言っても
無駄」と諦めを抱く青年が増えるのはやむを得ないとしても、私を含めた「青年」
の多くがそれだけで片付けられない無責任な楽観主義や依存体質を備えているのは
事実だからである。それは大江の予測を越えて、「自分の内側にはセブンに匹敵す
るような力が眠っている(自分も変身できる)」という、根拠のない自我を肥大化
させた「青年」を育てたのであった。その、何か失敗したり責任を果たさなかった
りしても「本当の私はこうではないのだ」と合理化してしまう心理と、その裏返し
である「変身できない自分」を発見した時のショックと苛立ちが、カルトに付け込
まれるスキとなっている。『サマリア人のたとえ』に登場する、自分を正当化する
ために「私の隣人とは誰ですか」と質問した人物は、ウルトラ世代としての「青年」
そのままの姿でもある。
 『私が愛した〜』は、そうした批判に対する制作者側の言い分のように思えた。
ドラマは「セブン」を企画した沖縄人青年が登場する。「セブン」は言ってみれば、
怪獣という異者(エイリアン)を排除して秩序を回復するという「怪獣殺し」エン
ターテイメントである。しかし沖縄人という「異者」であった彼は、むしろ排除さ
れる怪獣に感情移入し始める。時はベトナム戦争の真っ最中。アメリカの支配を受
ける祖国「沖縄」がベトナム攻撃の基地とされている。彼は、「怪獣殺し」セブン
に守られる地球の姿に「アメリカに守られ依存する日本」を投影した作品を書き始
める。当然、勧善懲悪モノであった作品世界は混乱し、視聴率は低迷。自分達の作
品に込められた夢が、現実を撃つ力になり得ない現実に、彼と彼に共感するスタッ
フたちは意気消沈して行く。そんな折、主演女優が反戦脱走米兵を援助する組織に
接触し、スタッフたちは1人の脱走米兵の亡命を企てるのである。米兵をセブンの
ヌイグルミに押し込めてロケ地に連れて行くスタッフたちは、セブンに助けられて
ばかりだった人類が、今度はセブンを助けようとしていると感じるのである。そこ
には、閉塞した現実を打ち破る希望が見えるかのようであった。
 しかし、亡命は失敗してしまうのである。警察に包囲された兵士は、やがてセブ
ンのヌイグルミを脱ぎ捨て、「僕はまだ負けていない。今度は法廷で戦う!」と力
強く決意する。しかしその宣言は、英語の分からないスタッフたちには伝わらない。
「どうして現実はうまくいかないんだ!」と嘆きながら、連行される兵士を見送る。
彼らは再び、無力なセブンを見せつけられたのである。
 このドラマには、ウルトラ世代としての「青年」が抱えるフラストレーションが
語り尽くされているように感じた。「ぼくらには夢がある。夢が消えそうになった
時、セブンがやって来て、きっと僕らを助けてくれる。でなければ、ぼくがセブン
になるんだ・・・」。そう素朴に信じた子ども時代の思いは、しかしその後、成長
するにしたがって次々に裏切られて行くのである。
 その結果、セブンに変身できない「青年」は、セブンがみせてくれた勇気と正義
を愛する心さえ夢物語として手放さざるを得ないのである。子ども時代に「セブン」
を映したテレビは、平和が破壊され正義の失われた世界の姿を暴きたてる。あの
『サマリア人のたとえ』において、「だれがその人の隣人になったか」とイエスに
問われた律法学者は、「断腸の思いを押さえ切れずに助けた人こそが隣人となった」
と応えた。その彼にイエスは言った、「あなたも、行って同じようにしなさい!」。
「青年」も、正しい応えをセブンを通じて知っている。今こそセブンが必要なこの
時に、「私も同じようにしたい!」と心から願う。しかし「青年」は変身できない。
何と情けない、私の姿! 「セブンなんて存在しない」・・・それは「青年」にと
って、「自分には可能性がない!」「わたしには未来がない!」という宣告に他な
らなかった。私を含めて「青年」は言う、「ならば私をセブンにしてください!」。
しかし、変身は起こらない。せいぜいカルトの使い走りが関の山である。「青年」
は「主よ、私たちが変身できるのは、いつなのですか。綺麗事で生きられれば苦労
はありません、主よ!」イエスを揶揄する衝動に駆られてしまう。
 「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人々の質問には、「神の国は近
付いた」と宣言するイエスへの揶揄が込められている。それは、律法から外れずに
生きる、という約束事に縛り付けられ、半殺しにされた同胞を「それに触れると汚
れるから」と見捨てざるを得なかった彼らの呻きの、裏返しの感情である。「サマ
リア人のたとえ」を読む時、我々は素朴に、強盗に襲われた人を見捨てずに助ける
者になりたい、と願う。しかし我々は同時に、諦めのため息をつかざるを得ない。
捨て身で人のために尽くせたら、どんなにか素晴らしいことだろう! しかしそう
するためには、我らは既に多くの守るべきものを抱えてしまっている! その人を
見捨てた祭司やレビ人は、確かに心がさびついていたかもしれない。だが、その心
には疚しさがなかっただろうか。変身できない自分の姿に断腸の思いを抱く「青年」
のような辛さを味わっていたのではないだろうか。だからこそ人々は、自分を正当
化しようとして「私の隣人とは誰ですか!」と問い、「神の国がいつ来るというの
ですか!」と言い放つのではないか。
 果てしなく依存的で無責任な楽観主義者であると言われる今日の「青年」も、
「変われない自分」への嘆きを「はらわたの痛み」として抱えている。「私は所詮
セブンではない」と諦めざるを得ない「青年」は、「神の国など実現するはずがな
い!」との呟きを抱えて遠回しに揶揄するような情けない姿を自己像として凝視し
ている。いま救いを必要とする世界を目撃しながら見て見ぬふりをする「青年」の
心は、確かにさび付いていると言わなければならない。しかし、「困っている人を
助け、互いを愛し合いながら生きる」という夢を抱きながら、それを実現できない
現実を意識する「青年」は、すでに内臓を切り裂かれるような痛みを抱えているの
である。阪神大震災において一時的に青年ボランティアが盛り上がり、「ボランテ
ィア元年」という言い方がなされたが、ある時期を過ぎると「青年」のボランティ
ア熱は急速に冷めたと批判される。たとえば「24時間テレビ」への批判として語ら
れる「援助のイベント化」は、そこに諦めざるを得なかった「変身」の夢が実現で
きる可能性を見るからこその現象である。その意味で、一過性「青年」ボランティ
アという現象は、変身を夢見てカルトの餌食となる「青年」のもうひとつの姿でも
ある。
 しかし、今日の聖書箇所においてイエスは言う、「神の国は、あなたがたの間に
ある!」と。それは、変身できない自分に断腸の思いを抱える「青年」たちに対し
て、イエスは「もはや変身なしで、あなたはセブンである!」と語っているのと同
じである。「青年」が変身できない自分に苦しむのは、「セブンになりたい」とい
う祈りを捨てていない証拠なのである。我らが神の国を求める限り、神の国は我ら
の間に「ある」! 「青年」は、セブンでありたいと願う限り、セブンなのである。
 夢は、信じれば夢で終わらない。信じている限り、夢は力である。神の国を求め
る限り、神の国は我々の間に「ある」のである。
 イエスは『サマリア人のたとえ』において命じている、「行って、同じようにし
なさい!」。断腸の思いをもって「同じようにできない!」と悶えるその時にこそ、
我らはそれが「できる」者に変えられているのである。なぜならその悶えこそが、
我らが「同じようにしたい!」と願い求める祈りを捨てていない事の証拠に他なら
ないのだから。その思いを抱く限り、我らはそれが「できる」ものとされている!
とイエスは語っているのである。神の国が来ますように!と祈る時、神の国は、も
う来ている。神の国は、それを求める私たちの間に、既にある! イエスの約束と
励ましに、応えていきたい。祈り、求め、信じれば、それは既に起こっているので
ある!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(ここまで)

(注)『私が愛したウルトラセブン』は、ウルトラセブン制作時にシナリオライタ
ーとして参加していた市川新一による書き下ろし作品ですが、その中に出てくる
「反戦脱走米兵亡命への協力」のエピソードはフィクションです。
ただし、当時のスタッフたちの間では、ウルトラセブンの無力を嘆き、「脱走米兵
でも助けてやりたい」という冗談が交わされていたのは事実だそうです。