Date: Sun, 29 Jun 97 21:58:20 +0900
From: 竹迫 之 
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Subject: [ymca:0678] tuushin sekkyou
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Posted: Sun, 29 Jun 1997 21:53:00 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『栄光を証しする分裂』
ヨハネによる福音書 第12章36−43による説教
1997年6月15日 浪岡伝道所礼拝にて

(ここから)
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 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このよ
うに多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
(36-37)

 すでにイエスが十字架に向けての最後の1週間に突入している様子を描いている
箇所にさしかかっているが、しかしここでイエスは一般の人々の前からは姿を隠し、
逮捕されるまでの数日間、弟子たちの前でしか語らない。人々は、イエスその人を
直接見ることなしに、イエスが行った「しるし(奇跡行為)」の意味を判断しなけ
ればならなくなる。そして人々は、「しるし」を見ながらイエスが救い主である事
を信じなかった。人々の目からイエスが隠された今、なおさら、人々がイエスを信
じる可能性は小さくなった。
 今、我々の目の前にもイエスはいない。そして、イエスの「しるし」を書き留め
た聖書が与えられているきりなのである。イエスに何を見るか。イエスを何だと思
うか。そしてイエスを何だと告白するか。イエスと私たちとの間に、どんな関係を
見出だすか、という問いが、我々に向けても投げかけられている。
 ヨハネ福音書は、人々がイエスを信じなかったことについて、旧約のイザヤ書を
引用して説明する。それはすなわち、神ご自身が人々の目をふさぎ心をかたくなに
させたためである、との理解であった。神がご自分の計画を進めるに当たり、むし
ろ人の心をかたくなにして拒絶を促す、という在り方は、実は旧約の中にも見られ
ることである。出エジプト記において、イスラエルを解放せよ、と呼び掛けるモー
セに対し、エジプトの王が繰り返しそれを拒絶した様子が描かれている。神はあら
かじめ、モーセにこう語っている、「あなたはイスラエルの解放を王に向かって語
る。しかし、私は王の心をかたくなにするので、王はあなたの言う事を聞かないで
あろう」。これは、矛盾であるように感じられる。始めから王の心を柔らかくし、
物分かりの良い人にしておけば、イスラエルのエジプト脱出はすんなりと片付くは
ずではないか。しかし神は、繰り返し王の心をかたくなにし、モーセは何度も王と
交渉しなければならなかった。そして王が拒絶するたびに、エジプトの国には様々
な災いが下され、多くの人々が迷惑を被ったのである。イスラエルの人々自身も、
度重なる交渉の失敗に疲れたのではないだろうか。その後も、神によって何度も計
画が妨げられ、イスラエルの人々の中には旅の間中、内紛が絶えなかったのである。
 しかしこうした出来事は、後になって最も大いなる成功を生み出すのに、なくて
はならないプロセスだったことがわかるようになった。それは、神の計画は、神ご
自身が中止しない限り、必ず実現するのだ、という証しであった。いくら王がその
圧倒的な権力や軍事力でもって反抗しても、また救われるべきイスラエルがどれだ
け反抗しても、エジプト脱出の出来事は「起こった」のである。それはイスラエル
に働く神の姿だけではなく、イスラエルの敵すらも手の中に収めている神の支配の
絶大さを明らかにする結果を引き起こしたのであった。
 イエスを信じていながらも、その信仰を公に言い表さなかった人々が存在した事
を、ヨハネ福音書は告げる。それは、「神からの誉れよりも、人間からの誉れを好
んだ」人々であると説明される。しかしそれは、本当に「好み」の問題なのだろう
か。彼らの中のイエスを信じる者は、「会堂から追放されるのを恐れ」たのだ、と
説明されている。ユダヤ教社会で生きて行く上での「死活問題」に根差した選択で
はなかったのだろうか。それはもちろん、イエスの無償の行為に比べるならば、
「好み」の表れとしか言えないような、些細な事に対する恐怖だったのかもしれな
い。そこには確かに「我が身を捨てる」ほどの勇気は欠けていた。だが、それ以外
の道を選ぶ事ができた人が、果たしてどれだけいたのだろうか。「心をかたくなに
し」、イエスの存在を無視するという生き方を選ばざるを得ない時、それは果たし
て楽な選択であると言い切れるか。そこにもまた、生き延びるために敢えて自分の
思いを殺さざるを得ない、という深い苦悩を見ることが出来るのではないか。当時、
イエスに対する信仰を公に言い表す事が出来た人々、また今日イエスに対する信仰
を言い表している我々、その中に「その方が楽だったから」という安易な決断を見
る事もまた、可能なのではないか。苦渋に満ちた訣別と安易な受容とを、単純に比
較する事は困難である。信仰者には、そこに神の摂理の奥深さを感謝する謙遜が求
められる。
 イエスに対する信仰を押し隠した人々はかえって、救いの手をさしのべる神の愛
と、それをかたくなに拒絶せざるを得ない人間の罪との間に横たわる、深い断絶を
見る。その断絶を埋める者として、イエスは現れたのだということを、今こそ悟ら
なければならない。人間の側からの徹底的な拒絶を解消するのではなく、その直中
に身を晒しいのちを投げ出すことにおいて、イエスはキリストであったのである。
ヨハネ福音書には、イエスが「しるし」を行えば行うほど、その断絶が広がってい
った様子が報告されている。私たち人間の神に対する拒絶は、イエスが働きかけれ
ば働きかけるほど、広く深くなっていくのである。しかし、それは神自らが、我々
の目を見えなくし、心をかたくなにされたからなのだ、と聖書は語るのである。そ
の断絶は、救いの達成の絶大な価値を明らかにするために、強調され、深められ、
注目させられるのである。
 神のみ業に信頼できないとき、むしろ神の力は私たちの間近に迫っている。神の
救いが疑わしく思えるとき、むしろ我々は神の愛の直中に置かれているのである。
不安・苦悩の中で、我々は神の愛や救いを疑わしいものと感じる。我々を神への信
仰から引き離そうとする力を感じ、その力に勝てないであろう自分の弱さを感じる。
その弱さが、我々を益々かたくなにして行くのである。
 その弱さが、神に対するかたくなさが、打ち砕かれる時が来る! かたくなであ
る事を選ばざるを得ない人、神からの誉れでなく人からの誉れを好まざるを得ない
人、そのような我々を、神は愛し救おうとされるからである。心で悟らず、立ち返
る事ができない人々。神の「癒し」から遠く隔てられて生きざるを得ないでいる我ら。
イエスの十字架が神の栄光の現れである事、イエスの十字架がこのような我々の弱
さによって引き起こされた事が明らかとなるために、神は我々に「弱さ」を授けら
れ、苦悩を備えてくださった。我々人間が不信しいくら拒絶しようとビクともしな
い、その愛の深さを示すためである。そのために、神は我らをかたくなな民として
お造りになったのである。我々を絶望させるこの弱さ・かたくなさが、しかし神の
前には簡単に打ち砕かれるものである事が示されるために、我々は弱くかたくなな
ものとして造られたのである。
 我々の不幸には、神がそれを用意した「意味」がある。我々の中にある断絶や分
裂にも、そのような深い意味が込められている。イエス=キリストの十字架によっ
て神の深い愛が明らかにされるために、我々は造られたのである。我々の生み出す
悲惨、我々の味わう苦悩、我々の不信仰。それら全てが「背く者をも救ってくださ
る愛の神の栄光」を証しするために備えられ、神の救いが絶対的である事の証しと
して用いられるのである。我らに迫る神の愛に、感謝しよう。我々を飲み込む現実
の全てが、今や神の栄光に奉仕するからである。
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(ここまで)