Date: Sat, 14 Jun 97 20:31:49 +0900
From: 竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>
Subject: [ymca:0633] tuushin sekkyou
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Posted: Sat, 14 Jun 1997 20:29:00 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『時が来た!』
ヨハネによる福音書 第12章20−36による説教
1997年 6月8日 浪岡伝道所礼拝にて

(ここから)
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「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて
死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 (24)

 ついにイエスの「時」が来た。それはイエスが栄光を受ける「時」である。その
栄光は、しかし実は、十字架の死の「時」であり、それによって明らかにされる神
の栄光なのである。十字架の死は、「多くの実を結ぶ」ための死であった。神のた
め・人のために、自らの命を献げるものであった。
 これまでヨハネ福音書においては、イエスの「時」がまだ来ていないことが、繰
り返し語られてきた。カナの婚礼においてブドウ酒が尽きたことを知らせにきた母
に向かって(2:4)、また仮庵祭りに出掛けて弟子を増やすことを提案した兄弟た
ちに向かって(7:6)、それぞれ語られた「私の時はまだ来ていない」というイエ
スの言葉。そしてイエスの教えに激昂した人々が、しかしイエスを捕らえる事がで
きなかった(7:30,8:20)理由として語られたのが「イエスの時がまだ来ていなか
ったから」という説明であった。しかし今日のこの場面においては遂に、イエス自
らが「栄光を受ける時が来た!」と宣言したのである。イエスはこれまで、この
「時」のために、教えを語り、病を癒して来たのであった。この「時」を迎え、こ
れまでのイエスの働きが、十字架という完成を目指してなされてきたものであるこ
とが明らかになっていく。
 イエスによる、この「時」の到来の宣言は、イエスを訪ねてきた人々の登場をき
っかけになされている。彼らは「ユダヤ人」でなく、祭りのために集まって来た
「ギリシア人」であったとだけ説明される。彼らは、「ベトサイダ出身のフィリポ」
に声をかけてイエスとの面会を求めている。フィリポと彼らとは、あらかじめ何ら
かの関係があったのかもしれない。ともかく、このフィリポと、彼によって相談を
受けた同郷のアンデレとによってギリシャ人たちの来訪を告げられたイエスは、そ
れに「答えて」、「時」の到来を宣言するのである。
 ギリシャ人たちの来訪の意図も、実際にイエスが彼らと会見したかどうかも、実
は一切説明されていない。その上、イエスの「時」の到来の宣言と、フィリポとア
ンデレによる来訪者の報告とは、一見なんの繋がりもないチグハグな印象を与える。
ギリシャ人たちの来訪を受け、イエスは、「人の子」が栄光を受ける「時」の到来
を告げ、「一粒の麦」について語る。それは、十字架における死の説明である。イ
エスは、何を語ろうとしたのだろうか。
 弟子たちがギリシャ人(=異邦人)をイエスに引き合わせようとする姿には、イ
エスの死後に展開される、教会の働きが暗示されているのである。教会の働きは、
救い主(メシア)たるイエスを指し示すことである。それは、イエスの教えを人生
訓や哲学として伝えるものではない。イエスの行った「しるし」を思いがけない利
益が与えられる奇跡として紹介したり、あてのない約束を通じてその期待を吹き込
むものでもない。教会は、十字架で惨めに殺された犠牲の子羊・イエス=キリスト
を語るのである。その死が「多くの実を結ぶ」ためのものであった事を証しするの
である。
 そしてイエスは語る。「私に仕えようとする者は、私に従え!」。教会は、十字
架のキリストに従うよう人々に呼び掛けるのである。権力や財産など我々が夢想し
また憧れるところの「この世の栄光」ではなく、この世の力の全てを捨て去り、そ
れどころかこの世の栄光のために無力に殺されていったキリストこそが「神の栄光」
の現れなのだ、と証しするのである。競争や策略、果ては殺し合いによって手に入
れられる「この世の栄光」が、もはや何の力も持たなくなったこと! 限られた人々
のみが所有する「この世の栄光」によって大多数の人々が踏み躙られるという悲惨
が、とりわけ無力な人々ほど無残な姿を晒すという残酷な現実が、イエスの十字架
1回限りで終りにさせられたこと! 教会は、そのような十字架の出来事を語り、十
字架の救い主に従う決意を呼び掛けるのである。
 十字架の出来事は、「神の子」イエスにとっても決して平易な歩みではなかった。
「何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか」と心を騒が
せながら(それは、他の福音書に描かれる「ゲツセマネの園におけるイエスの祈り
を想起させられる)、「しかし、私はまさにこの時のために来たのだ!」と決意を
もって踏み出さなければならない険しい道であった。
「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保っ
て永遠の命に至る」。
イエスでさえ、「自分の命を憎む」者とならなければ、十字架への道を辿り得なか
ったのである。十字架の救い主に従う事もまた、困難な道程であることを悟らなけ
ればならない。「私はまさしくこのために来たのだ」と、命の意味を悟らなければ
ならない。「この世の栄光」が裁かれる「時」が来ている事を知らずに、十字架の
道への歩みは不可能なのである。
 「自分の命を憎む」! 「神の栄光」を現すためとは言え、そのような悲惨な道
を辿らなければならなかったイエスの苦悩を思う。十字架の出来事が、この世の悲
惨を精算するものであるために、イエスはこの世の悲惨の真っ直中で死ななければ
ならなかった。「この世の栄光」によって踏み躙られる現実に立たなければならな
かった。イエスの決意は、ただこの世を救おうとされる神への愛ゆえに可能となっ
たのである。そして神が造られたこの世を愛するがゆえに、イエスは十字架へと歩
みを進めるのである。
 しかし同時に我らは知っている。イエスのような決断なしに、この世の悲惨に投
げ込まれている人々が、既にある事を! 「この世の栄光」によって踏み躙られる
がゆえに、「自分の命を憎」まざるを得ないでいる人々がある事を! 差別の中に、
病の中に、虐殺の中に、はりつけにされた人々がある事を! その人々が栄光を受
ける「時」が来た! その人々は、まさしくイエスと共にある! 十字架の主と共
にある! 教会は、そのような無数のイエスたちを捜しだし、仕えなければならな
い! 共になければならない! イエスに仕える者がいる所に、イエスも共にいる
からである。
 この世に捨て置かれた十字架のイエスたちは、しかしこの世を照らす光なのであ
る。闇の中に捨て置かれた我らを照らす光なのである。
 イエスは命じている。
「光のあるうちに、闇に追い付かれないように歩みなさい!」
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(ここまで)

願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。
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この通信は、NIFTY-Serve を経由して、以下の人々に同時発信されています。
上原 秀樹さん  木村 達夫さん  佐野 真さん  等々力かおりさん
長倉 望さん  水木 はるみさん  山田 有信さん  
YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん
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(追記)先日、YMCA同盟学生部メイリング・リストの代表世話人である瀬口昌
久さんが、浪岡伝道所をお訪ね下さいました。瀬口さんは通信説教に実にこまやか
なレスポンスを返して下さり、とても刺激的なコメントをつけて下さっている方で
す。実は、思い出したように特定の人々に向けてファクス等で勝手に送り付けてい
るにすぎなかった私の説教を、このような『通信説教』という定期便的な発信にま
で高めて下さった方々の内の1人が瀬口さんであったのです。
 ところが私は、今回の訪問で初めて実物の瀬口さんとお会いできたのでした。そ
れまでは、電子メールを通じた繋がりしかなかったのです。実物の瀬口さんは、こ
ちらで勝手に育てていたイメージとはずいぶん異なる方でした。「映画監督になり
たかった」という私と共通する夢を抱いており、飲むほどに酔うほどに親父ギャグ
を乱射して周囲を化石化させ、入浴回数が比較的少ないとの告白の割には大変清潔
なイメージの方でした。お会いする前に私が抱いていた想像と共通するのは「清潔
なイメージ」だけだったのです。私は大抵の場合、先行するイメージとのギャップ
に気付くとガッカリする方ですが、瀬口さんの場合は大変に気持ちのよい裏切られ
方をしたのです。初日には、やはり『通信説教』の良き読者の1人である木村達夫
さんとそのご家族もお招きし、2日目には瀬口さんと以前からお付き合いのあった
五所川原教会の小笠原牧師夫妻をお訪ねし、ライブハウス『山唄』の津軽三味線を
聴きながら地酒に身を浸したのでありました。学Yのお話・キリスト教のお話・文
学や映画のお話・津軽のお話など、ずいぶんいろいろな事を語り合いましたが、や
っぱり1番印象に残ったのは、この出会いの気持ちよさでした。
 時折、このような出会いを実現していきたいものだなあ、と思いました。

竹迫 之  CYE06301@niftyserve.or.jp