Date: Mon, 2 Jun 97 00:14:23 +0900
From: 竹迫 之 >CYE06301@niftyserve.or.jp<
Reply-To: ymca-s@cup.com
Subject: [ymca:0619] tuushin-sekkyou
To: ymca-s@cup.com (Cup.Com ymca-s ML)
Errors-To: ymca-s-request@cup.com
Message-Id: >199706020014.FML5101@hopemoon.lanminds.com<
X-ML-Name: ymca-s
X-Mail-Count: 0619
Mime-Version: 1.0
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
Posted: Sun, 01 Jun 1997 23:50:00 +0900
Precedence: list
Lines: 154

竹迫牧師の通信説教
『ロバに乗る』
ヨハネによる福音書12:12-19による説教
 1997年6月1日  浪岡伝道所礼拝にて

(ここから)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおり
である。「シオンの娘よ、恐れるな。/見よ、お前の王がおいでになる、/ろば
の子にのって。」(15)

 ついにイエスは、エルサレムにやって来た。十字架に向かうためである。ラザ
ロの蘇生に示された「死の現実」への勝利が、ラザロ1人にではなく、全人類に
実現するために、イエスは十字架を目指したのである。そのイエスを大勢の人々
が熱狂的に歓迎した。イスラエルの王がやってきた、と受けとられたからである。
 エルサレムには、大勢の人々が集まっていた。イスラエルのエジプト脱出とい
う古事を記念する「過越祭」を目指して、多くのユダヤ人が巡礼のため世界中か
ら集まってきていた。ラザロの蘇りを目撃した人々からイエスの働きについて聞
かされていた彼らは、熱狂的にイエスを出迎えた。イエスを「イスラエルの王」
と呼び、なつめやしの枝を打ち振りながら「ホサナ!」と叫び続けた。それは、
「どうか、今お救いください」の意味のヘブル語(もしくはアラム語)であると
言われる。偶像を崇拝するローマに支配されたイスラエルを解放するため、真の
神から遣わされた救い主が、ついにエルサレムに現れた、と考えたのである。ロ
ーマの軍勢は強大な力を誇っていたが、死人を蘇らせる程の力の持ち主であるな
らば、きっとローマを蹴散らす事ができるだろう。異民族によって支配されてき
たイスラエルは、きっとこれで再び独立する事ができるだろう。そうした期待を
イエスひとりに寄せて、人々は大いに喜んだのである。
 この喜びの背景には、特にギリシャ世界に散らされていたユダヤ人たちが置か
れていた境遇が反映されているのではないか。もちろん、真の神を拝する自分た
ちが、偶像を拝する異民族の支配を受けるという傷付いた民族的なプライドは背
景にあった事だろう。しかし、諸外国に散らされ異民族の直中に生活していたユ
ダヤ人たちは、異民族の様々な生活習慣の中で信仰が相対化される圧力を感じて
いたのである。絶対的なただ1人の神に仕えて生きるというユダヤ人の生活習慣
は、周囲の人々からは偏狭な生き方のように感じられ、またそのように非難され
たのではないか。その中でユダヤ人たちは、自分のプライドに反して周囲に妥協
するか、あるいはますます偏狭な生活に引き籠もることによってさらに孤立を深
めるかの選択肢しか与えられなかったに違いない。実際、多くの散らされたユダ
ヤ人は、孤立を深めるかのように過剰にユダヤ人であろうとしたと伝えられる。
いつでもエルサレム近辺が世界の中心であり、一生に1度でもエルサレムへの巡
礼を実現しようと務めたのである。実際にエルサレムに来てみれば、エルサレム
に住むユダヤ人に対しては「世界の中心に住む者」に対する引け目を感じるまで
になってしまっていたのではないか(東北の若い人々の「中央」志向に、共通の
痛みを感じる。もちろん彼らにとって最も重要な「中央」は東京に集約されるの
だが、それ以前に、東京文化との接点を持つ地方都市にどれだけ密着して生活し
ているかが価値判断の基準になる。また、戻って来ても、東京にいたことを1つ
のステイタスと見做す)。そうした人々は、イエスの登場を目撃して「生きてて
良かった!」との感慨に震えた事だろう。憧れのエルサレムが解放されるその時
に、居合わせる事が出来るからである。
 いじめられっ子としての幼児体験に注目する文筆家・切通理作氏は、大阪の万
国博覧会に行った時が、自分の「生きてて良かった」体験であったと述べている
(『怪獣使いと少年』宝島社)。万博のシンボルであった「太陽の塔」の内側に
通ったエレベーターは、上へ上へと上昇する時に、三葉虫から恐竜、そして猿か
ら人類まで続く進化の過程を見る事ができたそうだが、彼はその様子に「自分は
万物の霊長なのだ」という心からの感動を覚えた。しかしその後、学校生活が始
まった途端に彼はいじめられっ子に転落するのである。「万物の霊長」「未来を
担う子ども」というスローガンと、「えんがちょ切った」と遠ざけられる自己像
との間に引き裂かれた自我を抱えたまま、次第にテレビの怪獣モノにのめり込み、
街が破壊される様子を胸のすくような思いで見つめるようになる。その体験を振
り返り、彼は「いじめや差別などの辛い目にあった者ほど、世の中が平和になれ
ばいい、などとは考えない。絶対に、あいつぶっころしてやる、という気持ちに
なるものだ」と述べる。そうした心理から、オウム真理教を始めとするカルト団
体が唱える終末観や、カルト化しないまでも今日の若者の心をとらえる「ハルマ
ゲドン」的終末の待望を説明する事ができるかもしれない。
 イエスを熱狂的に出迎えた人々の心に、このような衝動を見出だすのは無理な
事ではないだろう。彼らはまさしく、彼らを押さえ付け縛り付ける世界の転覆を
夢見たのである。
 しかしイエスは民の期待を拒否するかのようにロバに乗るのである。王の凱旋
は、力強い軍馬に跨がり甲冑をきらめかせて、大勢の捕虜を引き連れるというス
タイルでなされるのが通常であったと言う。軍馬は、特殊な訓練の必要性や使う
状況が限られている事などを考え合わせれば、相当に高級な部類の家畜となる。
かなりの金持ちでない限り、個人が所有することは難しいであろう。他方、ロバ
は人々の生活に密着したありふれた家畜に過ぎなかった。従順であるがゆえに調
教も易しく、もともと同じ所をぐるぐると回る習性を持っていると言われる。イ
エスは確かに、世を救う王であった。しかしそれは、力によって相手をねじふせ
る王ではなかった。暴力を必要としない王! ゼカリヤ書において預言されてい
た救い主の到来は、今ここに成就したのである。
 この場面からは、イエスが暴力を放棄した・この世の力を放棄した、との読み
方がなされる。もっと突き詰めて言えば、それは他者や自己をコントロールする
事の放棄であると言い換えて構わないだろう。暴力を頂点とする支配=コントロ
ールの下に抑圧された者は、逆に相手をコントロールする日が来る事を夢見る。
それは、熱狂的な群衆を目撃して「もはや何をしても無駄だ」と嘆く宗教指導者
たちの在り方と表裏の関係にあるのではないか。彼らもまた群衆へのコントロー
ルを狙って、イエスの処刑を計画していたのである。だからこそ熱狂する群衆も
指導者たちも、後には手を取り合ってイエスを十字架に追いやるのである。
 だがイエスは、ここで彼を取り巻く人々に、ロバに乗る以外の意思表示をして
いない。人々の破壊的な意志さえも受け入れて、十字架にかかるからである。イ
エスはロバのように、人を操作によって支配しないだけでなく、逆に人の支配に
身をまかせることで、その罪を背負うのである。
 福音は、「十字架により、人が罪あるままで神に受け入れられた」と語る。そ
れは、「その人がその人のままで生きる」ことを可能にしたのである。キリスト
者として生きるという事を意識する時、我々は何か自分でない者に変わらなけれ
ば、と強迫的に念じる事がある。あるいは人に福音を伝えようとする時、相手が
思うように変化しないために苛立つことがある。実は、宣教やキリスト者的な生
活を離れても、我々はそのような強迫的な思いや苛立ちを日常的に経験している
のではないか。他者や自己を操作し支配しようとする欲求とそれがかなわない事
へのフラストレーションが複合化した苛立ちによって、必要以上に他者や自己を
傷付けているのではないか。それが「罪」と呼ばれるのは、それこそがイエスを
十字架に追いやる力だからである。それを「罪」だと知っているのは、十字架と
復活において「罪」が赦された、と知っている教会である。教会は、人への支配
を離れなければならない。赦しの告知のためだけに「罪」を告発するのでなけれ
ばならない。そうでなければ、教会は、赦しを知りながら救い主を十字架につけ
る「罪」を繰り返すことになる。
 また、教会は闘わなければならない。「その人がその人のままで生きる」こと
を妨害する支配が行われているとき、まさにその「罪」が赦されていることを知
るがゆえに、それを告発し終了させなければならない。「罪」による支配は、十
字架において終らされているのである。
 「私が私である」ことを可能にして下さったキリストに感謝しよう。そして、
その感謝を分かち合う歩みに進み出して行こう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(ここまで)
願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。

**************************************
この通信は、NIFTY-Serve を経由して、以下の人々に同時発信されています。
上原 秀樹さん  木村 達夫さん  佐野 真さん  等々力かおりさん
長倉 望さん  水木 はるみさん  山田 有信さん  
YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん
**************************************

(追記)
NHK教育テレビで5月31日に放映された『未来潮流−オウム事件を越えて』
を見ました。作家の大江健三郎による呼び掛けで行われた公開シンポジウムの様
子が伝えられました。破壊的カルトとその他の宗教との違いについて、核の時代
における「悪」の理解と心の病について、破壊的カルトを求める若い世代の魂の
空洞化とその救いに果たしうる文学の可能性について、など興味深い話題が論議
されていました。とりわけ関心をひかれたのは、「いかに破壊的であろうとカル
トもまた宗教の一類型であり、オウムを『破壊的カルトであって宗教ではない』
と位置付けると、この問題を普遍化する力を失う」という指摘でした。これは以
前から小林よしのり氏などが言及していた事柄でしたが、私自身は異論をもって
判断を保留していたのです。たとえば「マインドコントロールは『健全な』他宗
教においても多かれ少なかれ用いられているテクニックである」とする時、我々
は統一協会などの破壊的カルト組織を告発する法的根拠を失ってしまうからです。
マインドコントロールの違法性を実証しない限り、組織的犯罪行為が末端信者の
責任にすり替えられて、結局は「トカゲの尻尾切り」に終り、被害そのものは別
のメンバーによって拡大されて行く、という現象を防げなくなってしまうという
状況があったのです。
 統一協会やオウムに限って言えば、もはやマインドコントロールの違法性は法
廷において一定の認識を得られているものと判断されます。そのような現在にこ
そ、「カルトとは何か」を再定義する必要があるのかもしれないと考えたのであ
りました。
 行動の善悪を規定する倫理が相対化されて力を失って行くのは、今や全世界的
な傾向であることが、危機意識と共に浮き彫りにされています。強力な宗教体験
に基づくオウム真理教が「地下鉄サリン事件」などの最悪の暴力を引き起こした
事実は、世界中に衝撃を与えました。しかしそれは同時に、倫理(あるいは神)
なき世界において、「悪」を阻止しうる可能性を宗教が持っているのだという事
を逆説的に証明してもいる、という見解が、このシンポジウムでは提示されてい
たように思います。私達の教会の在り方もまた、問われているのです。
 11月に予告されている統一協会の合同結婚式を前に、ぼちぼちと相談が寄せ
られ始めています。関わり始めてから既に数年を経ているケースもあります。そ
してまた、『プレ・カルト状態』にある多くの若者がひしめきあっています。彼
らに何を語りうるか。また彼らの言葉を受けとめうるか。価値観の発信にたずさ
わる人々には、大きな、しかも乗り越えなければならない課題なのです。

竹迫 之  CYE06301@niftyserve.or.jp