Date: Sun, 25 May 97 19:25:48 +0900
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Posted: Sun, 25 May 1997 19:21:00 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『出てきなさい!』
ヨハネによる福音書 第11章28−44による説教
1997年5月11日  浪岡伝道所礼拝にて(聖愛高校入学記念礼拝)

(ここから)
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 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マル
タが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
(39〜40)

 「死の現実への勝利」の予告である「ラザロのよみがえり」の物語を連続して読
んでいる。今回は、いよいよそのクライマックス部分にさしかかった。
 イエスがラザロのもとに辿り着いた時、既にラザロは死んで四日が経っていた。
愛する兄弟を失ったマルタとマリアの姉妹を慰め励ますために、多くの弔問客が集
まっていた。しかし彼らの言葉は、肉親を失ったばかりのこの姉妹の力にはなれず
にいた。肉親を亡くしたばかりの遺族に、どんな慰めを語る事が出来るだろうか。
我々もそのような場面に立ち会うことがある。しかし我々には、またマルタとマリ
アのもとを訪れていた弔問客たちにも、遺族たちを励ます言葉は語り得ないのでは
ないか。なぜなら、我々は究極的には「死の現実を受け入れなさい」としか語れな
いからである。「死の現実」は、我々にとって動かす事のできないものとしてある。
我々は、日常において可能な限り「死の現実」を忘れていることの他、その重圧か
ら逃れる術を持たない。それ以外に、愛する人々との交わりが、いつか「死の現実」
によって奪い去られ、中断を余儀なくされる時が必ず来るという事実を受け入れて
生きる事は難しいのである。ラザロと死別したばかりのマリアたちにとって、その
事実を受け入れるには、まだラザロの存在は生々しすぎるものとしてあった。人々
は、また我々は、語る言葉を持ち得ないまま、身悶えしつつ彼女たちを見守るしか
ない。彼女たちが「死の現実」に蓋をして忘れてしまう日が早く来る事を祈りつつ。
 イエスがやってきたと聞いたマリアは、すぐにイエスのもとに行き、「主よ、も
しここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆いた。
ラザロが死に掛かっていたとき、マルタとマリアはイエスに助けを求めていたので
ある。イエスには、何十年も続く病気を癒したり、生まれつき目の見えない人を見
えるようにしたりする不思議な力があった。イエスがまだ生きているラザロを見舞
っていたら、ラザロも死ぬことはなかったに違いないのである。しかしイエスは、
その知らせを受けながらなお2日間、動く事ができないでいた。その間にラザロは
死んでしまった。(イエスがベタニアに辿り着いた時にはラザロの死後4日が経過
しており、実際には知らせを聞いたイエスが直ちに出発したとしても間に合わなか
った事が暗示されている)。
 マリアの言葉は、そういうイエスを責めるもののようにも聞こえる。しかし実際
は、この訪問はイエスの命を狙う陰謀が渦巻くさなかに実現したものであり、イエ
スは命の危険を冒してここに来たのである。不可能と思われたイエスの訪問が思い
がけず実現したこと、それも死んだラザロを含むマリアの家族への友愛ゆえの実現
であったことを考えると、マリアは決してイエスを責めるためにこう語ったのでは
なかった事がわかる。何より、マリアはイエスの足元にひれ伏しているのである。
マリアの言葉は、ラザロの生死にイエスの力が及ばなかった事への嘆きであり、そ
れも思いがけないイエス訪問の実現により、その嘆きを共有できた喜びを下地にし
ていると考えるべきであろう。
 泣き崩れるマリアと、そのマリアに言葉をかけようもなく涙をもって見守るしか
ないユダヤの群衆を見て、イエスは激しく心を騒がせた。そしてイエスは、涙を流
すのである! この涙に何を見るか。我々は、この場面においては素直な感情移入を
許される。イエスは、ラザロの死を回避できなかった事を悔しがっている。死の現
実に対する、どこにもぶつけようのない憤激の情を抱えたまま、身悶えしている。
マリアやマルタの癒されない嘆きを目の前にして、また、愛する兄弟を失った者の
一人として、哀しみと怒りを抱いているのである。
 様々な奇跡を起こすイエスの姿を、我々はこれまで読んで来た。その異能者然と
した様子に、我々はイエスの「情」について顧みる事を忘れてしまいがちではない
だろうか。イエスもまた、怒りや嘆きの涙を流すのである。それは、我々の怒りや
嘆きを、イエスが受け止めて下さることの証しでもある。内村鑑三は、自分の娘が
病死した際の葬儀において、万歳を唱えたと言う。死は、神の国における永生への
凱旋であるとの理解からであろう。我々もまた、聖書に示された復活と永遠の命に
希望をおいて歩んでいる。しかし私には、内村ほどの決然とした信仰の表明は困難
であると感じられる。また、病床において泰然と死を待つ信仰者との出会いを与え
られる事がある。その姿に胸を打たれると共に、自分の信仰を顧みる。そこに伏す
のが私であれば、なりふり構わず取り乱すのではないかと想像する。無論、彼らに
してもそのような苦悶の果てに辿り着いた姿ではあろうが、しかしイエスは、堅い
信仰に支えられた決然たる生き方のみを求められるのではない。そこに至るまでの、
本人の他は神のみが知る嘆きや怒りの激情をすら、受け止めて下さるのである。
 ラザロは、既に墓に葬られていた。それは、洞穴に岩で蓋をする形式の墓所であ
った。そこにおいてイエスは「その石を取り除けなさい」と命じる。マルタは思わ
ず「主よ、4日も経っていますから、もう臭います!」と悲鳴に近い叫びを上げる。
それは、かねてから尊敬し信頼を寄せている『ラビ(教師)』としてのイエスに、
あるいはラザロとの死別という同じ痛みを共有する友人としてのイエスに、悪臭を
嗅がせるに忍びないというだけの事ではなかった。死によって奪い取られた愛する
肉親が、墓の中で既に腐敗を始めているという現実に向き合う事への苦痛から発せ
られた叫びである。それは我々の置かれている現実と、その中で我々が選び取らざ
るを得ない態度そのものである。ラザロの死を遠い記憶として葬る事・ラザロの遺
体と共に墓穴に葬って岩で蓋をしてしまう事にしか、マルタやマリアの立ち直る手
掛かりは得られないはずであった。弔問客たちも、出来るだけ早くその時が来るよ
うに祈りをもって彼女たちに接していたのである。
 しかしイエスの命令は、「蓋をするな! 死者を、死の現実を直視せよ!」という
ものであった。それはマルタとマリアにとって、また集まっていた弔問客たちにと
って、そして我々にとっても、辛い行為を命じるものである。「失われた愛する者」
の記憶を手放してはならない! 我々を取り巻く「死の現実」を忘却してはならない! 
岩を取り除け、墓穴を直視しなければならない! 死に飲み込まれた愛する者が腐敗
して悪臭を放っている事実から、目を逸らしてはならない! イエスの命令は非情な
ものと感じられる。我々もまたマルタと共に悲鳴を上げるのである、「主よ、もう
臭います!」。その我々にイエスは語る、「もし信じるなら、神の栄光が見られる
と、言っておいたではないか」。確かにマルタは、そして我々は、「信じます!」
と応えているのである。苦渋に満ちた服従をなさなければならない。
 しかしその苦悩は、イエスによって喜びに変えられた。「出てきなさい!」と大
声で語られたイエスの命令を受け、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたま
ま、顔を覆いで包まれたまま、墓から出て来たのである。それは、十字架において
殺害され墓に葬られ、しかし3日後に甦ったイエスの勝利の予告であった。我々に
は動かす事の出来ない「死の現実」が、もはや神の前には力を失う時が来ることの
証しであった。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と語られる。
 石を取りのけることも、ほどいて行かせるのも、人間に託された働きである点に
注意したい。それらの業は、もしラザロが「出てこない」ならば、虚しい働きに過
ぎない。我々の命はいずれは朽ち果て悪臭を放つしかないものである、という「死
の現実」を確認するだけの働きにとどまらざるを得ないからである。墓を暴き死者
を引き摺り出すのは、イエスによる「出てきなさい!」との命令を軸にしない時、
全く意味をなさない行為である。「石を取り除け、ほどいて行かせる」のは、イエ
スの「出てきなさい!」との言葉が力を持つものであると信じるのでなければ、行
ない得ない働きなのである。
 従って、その働きはイエスを信じる者の群れである教会に託された働きである、
と言わなければならない。悪臭を放ちながら朽ち果てざるを得ないこの世のあらゆ
る現実が、イエスの命令によって再び命を与えられて息を吹き返すのだ! と信じる
群れによって、初めて「石を取り除け、ほどいて行かせる」という行為が、虚しさ
を確認する以上の意味を持つのである。それは、希望を打ち砕くようでいて逆に希
望を補強する。力を失わせるようでいて、逆に力を与える。我々の働きが無駄では
ないということを、我々の宣べ伝える福音が限りなく大きな力をもたらすのだとい
うことを、明らかに示すのである。
 「出てきなさい!」とのイエスの命令は、だからこそ、墓の中のラザロに対して
だけでなく、死者を布でぐるぐる巻きにし、更に岩で塞いで封じ込めるより術を持
たない我々に対しても、向けられているのである。この世の現実に諦めと絶望をも
ってしか対処できないでいる私達に、その諦めの中から出てきなさい! 絶望から
脱出しなさい! と呼び掛けるのである。元気を失わせる、希望を手放させる、そ
ういうこの世の力に負けてはならない。我々にはイエスの命令があるのだから!
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(ここまで)