Date: Thu, 10 Apr 97 23:28:08 +0900
From: 竹迫  之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>
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Subject: [ymca:0481] tuushin sekkyou
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Posted: Thu, 10 Apr 1997 23:19:00 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『もうその人を見ている』
ヨハネによる福音書  第9章35−41による説教
1997年4月6日  浪岡伝道所礼拝にて
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  「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われ
た。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」

  イエスが生まれついての盲人を癒したという奇跡物語と、それに伴って起こった騒
動の場面を連続して読んでいる。
  イエスはこの癒しの働きを行う際、これがイエス自身のみでなくイエスに従う者す
べてが行うべき業である事を語っている。イエスは我々に、医療行為を命じているの
か? あるいはイエスのように奇跡を起こせと命じているのか? 我々はこれまで、それ
らの問いを手掛かりとして、治療行為そのものだけが神の業ではなく、「癒し」が必
要とされる現実に飽くまでも向き合う事、そしてイエスとの出会いによって知ること
になった「罪」の苦しみから目を逸らさない事、つまり救い主を殺害するという「十
字架の出来事」の目撃者であり続ける事が、既に神の業なのであると学んで来た。ま
た、「悪」の現実に絶望することなく、救い主の復活に勇気を得ながら、神への背き
の現実を告発し続ける事、「悪」によって身も心も苛まれ何度くじけても、闘いを挑
み続ける事が「神の業」である事を学んで来た。今日でこの盲人の癒しの記事を読み
終えるが、イエスが「日のあるうちに行え」と我らに命じた「神の業」についての理
解を、最後にもう一度整理しておきたい。
  イエスを抹殺しようと陰謀を巡らすユダヤの指導者たちは、イエスが生まれつき目
が見えなかった人を癒したという出来事を前にして、この働きが律法違反を含んでい
る点に注目し、イエスの有罪性を立証しようとしていた。そこでイエスに不利な証言
を引き出すために、「イエスをキリスト(=救い主)であると考える者は会堂から追
放する」という脅迫を加えながら、関係者を尋問した。会堂からの追放は、ユダヤ社
会においては「社会的な死」と同義であった。背教者・裏切り者というレッテルを貼
られ、それまで親しく交わっていた人々から断ち切られ、場合によっては生活の基盤
を失う事もありえたのである。そしてまた、会堂からの追放は「宗教的な死刑」の宣
言でもあった。会堂から追放されるという事は、神の救いから締め出されるという事
でもあったのである。神の守りの内に歩んでいるとの希望によって生きていたユダヤ
の人々にとって、それは死ぬよりも恐ろしい事と考えられていた。つまり「イエスを
救い主と考える」と証言できないような状況を作り上げてから、癒された本人に対す
る尋問を行った。指導者たちは、その権威を脅迫的に押し出しつつ癒された男に向き
合い、「イエスは詐欺師である」と語らせようとしていたのである。
  しかし彼は、イエスが安息日規定に違反している事を立証しようとするその尋問の
意図が良く「見えていた」。そこで彼は、「あなたがたもあの方の弟子になりたいの
ですか」と逆に問い掛け、更に「あの方は神から来られた方だ」とはっきりと告白し
た。この証言が命取りになると知りながら、彼はイエスに対する信仰を告白したので
ある。彼は、自分の目を開けてくれたという事実以外に、イエスが何者であるか、ど
この誰であるか、を知らなかった。しかし彼は、それまで隠されたものとしてあった
「悪」の現実を凝視するために自分の目が開かれたのだという事、そしてそれまで見
えないものとしてあった「正義」を発見するために癒されたのだという事、を理解し
たのである。同時に彼は、「自分に起こったこの一連の出来事が、神の働きである」
と証しする事が、自分に課せられた使命だ、と確信したのである。
  指導者たちの意に沿わない証言をしてしまったために、この男は遂に会堂から追放
されてしまった。彼は、社会的にも宗教的にも抹殺されてしまったのである。この事
件が彼に与えた衝撃は、我々の想像を遥かに越えていることだろう。今日の我々の中
に、宗教的信念を理由とした迫害を受けた経験を持つ者がどれだけいるだろうか。教
会に行くことを家族から反対されたり、友人から軽蔑の目で見られたこと位はあるか
もしれない。近所で噂されたりする事もあるかも知れない。そうした状況が起こる事
を恐れて宣教の働きを鈍らせるくらい、社会的な拒絶は堪え難いものである。
  しかしこの男が置かれたのは、それらの拒絶がほんの些細なものでしかないと言わ
ざるを得ないほど厳しいものであった。彼は、「国家」を追放されたのである! 頼り
にするべき人も財産も何もなく、今夜からの食事や寝床の心配から始めなければなら
なくなったのである。それは、わが国の歴史に則していうならば、戦時中に思想的な
理由で弾圧を受けた人々と同じ境遇とは言えないか。また、あの震災によって、また
サリン事件によって、一切を失ったまま放り出された人々と同じ状況と言えるのでは
ないか。また、国家によって捨てられ続け、今また「合法的」に土地を奪われ続ける
事が確定しつつある沖縄の人々と、そしてまた、あれだけの事故が起こりながらそれ
をなかったことのように核廃棄物の搬入を受け入れなければならない青森県の我々と
同じ立場に立たされているとは言えないだろうか。わが国に限っただけでも、この男
の味わった孤立は、そこかしこに転がっている。隣人の多くは見て見ぬ振りをし、圧
倒的大多数の人々はその事件すら知らないで済んでしまうという、恐るべき国家から
の孤立! この男の「追放」は、そういう種類の出来事なのである。
  イエスは、彼が追放された事を聞き、彼に出会う。それは道端で偶然に出会ったの
ではない。イエスは、追放されたこの男を「捜し出した」のである! この世の国家が
見捨てた、この世の国家によって孤立させられた人々に、神の国家を宣教するイエス
が自ら接近する! 神の国から、近付いて来て下さる! そしてイエスは我らに問い掛け
る、「あなたは人の子を信じるか」! 神の国をもたらす救い主を信じるか。それが人
となって現れた事を信じるか。彼は応えた、「主よ、その方はどんな人ですか。その
方を信じたいのですが」。好みで選ぶのではない。生きやすいから、安らぎが与えら
れるから、その方が楽だから信じるのでもない。もう彼は、他に行くところがないの
である。この世の国家に捨てられた彼は、この世の国ではない「神の国」を望む他な
いのである。
  その彼に、イエスは言う、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話してい
るのが、その人だ!」。この世から捨てられ追放された者は、既に神の国の住民とさ
れている! 我々がイエスその人を前にして、それが誰であるかを悟る事が出来なくて
も、我々は既に神の国の住民とされているのである。
  我々はもう、何が「神の業」であるか、十分に知らされている。治療行為そのもの
はもちろんのこと、「癒し」を必要とする現実的な局面にとどまりつづけることを通
じて十字架の目撃者であり続ける事。また救い主の復活に希望を得ながら「悪」の現
実と闘い続ける事。これらは皆「神の業」である。しかし、それらが「神の業」たり
うるのは、それらの行為が正しく「イエスは救い主であること」の発見に向かってい
る時なのである。イエスは、追放され身寄りをなくした者の前に立たれる。自ら寄り
添って下さる。そして問い掛ける、「あなたは人の子を信じるか」。そして宣言して
下さる、「あなたと話しているのが、その人だ!」
  我々は、我々の生きる現実の実相を知らなければならない。端的に言えば、「この
世に神はない」!  この世にあるのは、神を十字架へと追いやる罪の力のみである。
だからイエスは、この世から追放された・追放されつつある人々に向かって歩まれる。
だから、神の前に生きる決意を固める者は、この世の力によって追放される道を歩む
のである。
  何より、主を見失う我らである事を知らねばならない。「私は主を知っている」と
自認する人が、かえって審きの座に立たされている。罪の世にあって、罪と救いとが
同居できる道理はない。我々がこの世の力に絶望する時、それは我々が「救い主に」
ではなく「罪に」希望を置いていた事の証明に他ならない。それはチャンスである。
救いを見失った時にこそ、「その方はどんな人ですか。(他の誰でもなく)その人を
信じたいのです」と祈らねばならない。そして、救い主を見失う人にこそ、イエスは
自らその前に立って下さる。復活の力を示して下さる。我らの闘いが無駄でないばか
りでなく、それこそが神の祝福する歩みである事を明らかにして下さる。
  我らは、「もうその人を見ている」のである。
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(ここまで)

願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。

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この通信はNIFTY-Serve を経由し、以下の人々に同時発信されています。
上原 秀樹さん  木村 達夫さん  佐野 真さん  長倉 望さん
水木 はるみさん  山田 有信さん  
YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん
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竹迫  之    CYE06301@niftyserve.or.jp

(追記)兼務している八甲田伝道所の会堂建築計画が、本格的に動き始めました。
八甲田伝道所は、八甲田山系「横岳(よこだけ)」南西に位置する「沖揚平(おきあ
げたいら)」という村に置かれた教会です。沖揚平は、戦後、満州からの引き揚げ者
を受け入れて行われた開拓によって出来た村ですが、現在は戸数19戸、内17戸が
平均3000万円前後の借金を連帯保証で抱える、戦後日本の歩みがもたらした様々
な弊害を象徴するかのような農村です(今回の説教において浮上した「追放」のイメ
ージも、半分以上は八甲田伝道所との関わりから得られた着想でした)。そこに建て
られた八甲田伝道所は、現在会員15名、礼拝出席5〜6名の本当に小さな教会です
(ちなみに、この教会の中心メンバーである堀田  明さんは、北星学園YMCAのシ
ニアメンバーです)。冬季の積雪が4メートルを越える気象条件の中で築20年を経
た会堂も、無人家屋ゆえに破損が激しく、会堂建築の実現が急がれてはおりました。
  この度の建築計画は、八甲田伝道所のみの事情によるのではなく、青森・秋田・岩
手の3県からなる日本キリスト教団奥羽教区の主要課題である「農」のテーマを追及
する母体として農村センターを設立しようとの構想が発端でした。急速に工業化した
わが国の趨勢に連動して、日本の農業も工業生産的な発想が支配的になり、大規模単
作・それに伴う機械化が推進されてきました。しかし、その結果もたらされたのは、
農薬・化学肥料による生態系破壊と、規模拡大・機械化に伴う借金返済のための更な
る規模拡大という悪循環に陥った日本農業の姿でした。現在構想中の農村センターは、
有畜複合形態による小規模生産を実験的に行う事を通じ、農村「沖揚平」の復興を実
現すると共に、日本農業の来たるべき世界を全国に向けて発信するという試みの第1
歩となるのです(断るまでもありませんが、これは竹迫独自の発案ではなく、奥羽教
区内外で長年にわたって農業研究を続けてこられた諸先輩方の辿り着いた結論であり
ます。私はその尻馬に乗ってるだけ)。また、阿蘇山麓で実現した「グリーンツーリ
ズム」を基調とする農村リゾート構想(こちらの推進者である佐藤  誠さんも、YM
CA関係者であると聞いています)を導入し、「農村」のイメージそのものを変革す
ることを通じて、日本農業の復興を模索する計画も話し合われています。
  私はこの計画を、(兼務とは言え)八甲田伝道所主任牧師としてのみならず、過去
10年にわたるカルト問題への取組みを通じて、全面的に支持しようと考えています。
というのは、まさしくカルト問題の背景に日本の戦後処理の問題と急速な工業化のも
たらした精神的な歪みを無視できないものとして考えており、また、カルト脱会メン
バーや「プレ・カルト状態」にある現代青少年たちへのアプローチに、佐藤  誠さん
の提唱するグリーンツーリズムが最適であるとの印象を持っているからです。
  今後も、この通信に相乗りする形で報告を心掛けますが、皆さんの機会と余力をぜ
ひともご提供頂ければ、と願っています。お問い合わせは、竹迫まで。