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見えるようになった

ヨハネによる福音書 第9章13−23による説教
1997年3月23日 浪岡伝道所礼拝にて

「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」 彼は「あの方は預言者です」と言った。

生まれつき目が見えないために、物乞いをして生きる男がいた。イエスがこの男 を通りすがりに見掛けた時、弟子たちが問うた。「この人が生まれつき目が見えな いのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。

イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業 がこの人に現れるためである」と述べ、この人に向き合い、見えるようにされた。 唾でこねた土を目に塗って、池で洗うよう指示した。この人が言われた通り行うと、 目が見えるようになっていた。

イエスはこの時、弟子たちに「私達は、私をお遣わしになった方の業を、まだ日 のあるうちに行わねばならない!」と語っている。無論、それを読む我々に対して も語られている言葉なのである。我々は、神の業を行うよう求められている。しか し、我々に見えない人の目を開くという事が可能だろうか。我々人間に、神の業を 行う事が可能だろうか。先週我々は、少なくとも孤立した人・孤立させられた人に 近付く事が求められていると学び、神の意志が「交わりの回復」であることを知っ た。今日も引き続き「我々が行う神の業」に注目しつつ、与えられた聖書箇所を読 んでみたい。

人々は、生まれつき目の見えない人が見えるようになった、というこの出来事に 大変驚き、どのように理解すべきかを判断してもらうために、彼を指導者の所へ連 れて行った。ここで初めて、イエスがこの人を癒したのが安息日であったことが語 られている。命に関わる場合の他は、安息日に病人を癒す事は禁じられていた。ま た安息日に禁止される労働の1つに「練り粉をこねる事」が含まれている。イエス は、その日が安息日であるにも関わらず「生まれつき目の見えない人(さしあたっ て生命の危険がない)」を「唾でこねた泥(練り粉をこねている)」によって治療 しているので、この癒しの業は2種類の律法違反を含んでいると考えられた。「そ の人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という指導者たち の言葉の根拠である。他方、イエスがこの人の目を見えるようにしたという事実も 動かす事はできなかった。そこで「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行う ことができるだろうか」との意見を述べる者もいた。

両者の意見が分かれたままなので、本人の意見が求められると、彼は「あの方は 預言者だ」と証言した。しかし指導者たちは、彼自身の証言は余り重要視しなかっ たようである。そもそもこの人物が生まれつき見えなかったと言うのが事実なのか どうか確かめるために、彼の両親に証言させる。両親は、「彼は生まれつき目が見 えなかったが、今は見えるようになった。なぜ見えるのか、誰が目を開けてくれた のかは知らない」と語るに止まり、息子が成人である事(即ち証言能力を持ってい る事)を理由に、事実上証言を拒否している。

ユダヤ社会において権力を独占していた当時の指導者たちにとり、イエスが葬り 去るべき危険分子である事は、既に動かせない決定事項であった。イエスが、社会 の秩序を乱し兼ねない・悪くすれば完全に破壊し得る人物だからである。そしてイ エス逮捕に1度は失敗しているために、イエスを葬り去る手段を具体的に検討する 段階に差し掛かっていた。彼らはイエスに注目し、イエスの情報を集めていた。そ こに飛び込んで来たのが、今回の出来事だったのである。イエスの「癒し」は2種 類の律法違反を含んでいた。大半の者は考えた、「イエスが秩序を乱している事は 明らかであり、秩序を乱す者が神の使者ではありえない」・・・しかし彼らは、そ う思い切るには勇気が欠けていた。確かに見えない者を見えるようにするなど、普 通ではない。それが事実ならば、イエスが神からの使者である事もあり得るのでは ないか。

またごく少数の者たちは、逆の考え方をしていた。イエスが神の名をかたる罪深 い詐欺師だったとして、しかしそんな男にこのような力を振るう事が可能だろうか?

彼こそは神から遣わされた、特別の異能者なのではないか。神の力を受けている のでなければ、この出来事の説明は不可能だ。・・・しかし彼らも、そう思い切る には勇気が欠けていた。イエスは確かに律法に違反している。それも神を礼拝すべ き安息日に関わる二重の違反である。神の使いが、神を崇めるための律法に違反す るだろうか。その点に注目するならば、イエスが単なる詐欺師で、これ以上秩序を 乱さないために抹殺するというのも必要な措置ではないか。

権力者たちは、どちらにも態度を決め兼ねていたのである。様々な方法で、イエ スが神の使いでない事を証明しようとし、それが出来ないでいるうちはイエスが神 の使いでもあり得るためにイエスを殺す事も出来なかった。逆に、イエスが神の使 いである事の証明がなされない限り、イエスを「預言者」として受け入れるのは、 それが万一間違いであった時に自分が社会的に抹殺される原因となってしまう。そ んな危険を冒す訳にはいかなかった。

従って、イエスを預言者と告白する本人の証言は、最初から当てにできなかった のである。イエスを抹殺したい者にとってはもちろん、イエスの神との関係にすく なからぬ期待を持っていた人にとっても、事情は同じであった。というのも、この 本人は自分の目を開いてくれた人の顔すら見ていないのだから。間違いであったり 騙されていたのだったりする可能性もある。両親まで呼び出して、なるべく客観的 に事態を解明しようと試みるのだが、うまくいかない。彼らはイエスが何者である かの証明をできないままである。

しかし、イエスによって癒されたこの男には、明らかになった事があった。それ は、目が見えるようになって「交わり」が回復されているにも関わらず、依然とし て自分を「交わり」の外へと追いやろうとする人々が存在するという事実である。 イエスという人物は、「交わり」から孤立していた自分に近付いて来た。そして自 分を「交わり」の中に連れ戻してくれたのではなかったか。しかし、目の前の彼ら はどうだろうか。彼らは再び自分を「交わり」の外へと置こうとしている。その証 拠に、自分がここに存在するのに、あたかも自分に存在する価値がないかのように 振る舞っているではないか。彼は人々に求められるまま、いかにしてこの癒しが起 こったか、それがどういう意味を持つ出来事だと考えるかについて、体験と意見を 述べた。しかし彼の言葉は、証言として力のないものと見做され、全く無視されて いるのである。目が見えるか見えないかは、既に大事な問題ではなくなっていた。 これまで見えないがゆえに「交わり」から遠ざけられていたとばかり思っていたが、 実は、見える見えないに関わらず彼は疎外されるべき存在とされている事が明らか になってきたのである。

目を開かれた彼は、彼を取り巻く「悪」の現実を見る事になったのであった。そ れは、「権力者のエゴイズムが支配する」現実と言い換えてもいいかもしれない。 たとえそれが神に由来する出来事であったとしても、自分の利益に反するならば遠 ざけ退けようとする意志と力とが引き起こす現実が「悪」である。それは、究極的 には救い主を十字架へと追いやる罪の力である。彼はイエスと出会い、イエスによ って目を開かれることによって、「悪」が「悪」であることが見えるようになった のである。イエスによる癒しは、見えないものとして隠されていた悪の姿を暴露し たのである。

見えない目が見えるようにされるという奇跡自体は、必ずしも彼に平安をもたら さなかった。むしろ「退けられ打ち捨てられる」という現実が見えないままでいた 方が、あるいは彼に平安を約束したかもしれない。自分が罪の中におり悪に囲まれ ているという現実に気付かなかった方が、あるいは楽に生きられたかもしれない。 まさしく彼の目は、救い主を十字架にかける人間の「罪」の目撃のために開かれた のである。


「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。/なぜ、膝 があってわたしを抱き/乳房があって乳を飲ませたのか。/それさえなければ、今 は黙して伏し/憩いを得て眠りについていたであろうに。/なぜわたしは、葬り去 られた流産の子/光を見ない子とならなかったのか(ヨブ記3:11-16)」。


悪の現実に直面し罪の姿を目撃するとき、我々はしばしばあのヨブのように自分 の生を呪う、「光を見ない方が、どんなに良かったか!」。それはイエスによって 見えるようになった、この男の叫びでもあったのである。

受難週である。我らもまたイエスの十字架への歩みに思いを馳せ、十字架の目撃 者となるよう招かれている。我々を打ち砕く悪の現実と出会う時、我々は十字架の 出来事の前に立たされている。聖書は、十字架の死を乗り越えた復活の救い主を証 言する。我々は復活に希望を置こう! 呪いに結び付くこの苦しみが、復活に至る十 字架の主の苦しみと共にあることを知ろう! 我々が罪と悪との目撃者として魂の奥 底から悶える時、我々の上にも目を開かせるイエスの奇跡が及んでいる。救い主を 殺害するという悪を目撃するために! そして救い主の受難は、我らの悶えと共にあ るのである、我らに復活の希望をもたらすために! 復活の希望に支えられてこそ、 罪を凝視する勇気が与えられる。その勇気を保つ事こそが、我らの行うべき「神の 業」なのである。


対決する証言者

ヨハネによる福音書 第9章24−34による説教
1997年3月30日 浪岡伝道所礼拝にて

「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これま で一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、 何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれた のに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

復活日である。イエスが対峙した「悪」は巨大であった。闇を照らす光として来 られた救い主を十字架に追いやって殺害するほどに、強大で破壊的だった。にも関 わらず、イエスは復活したのである。手足や脇腹にむごたらしい傷跡を残しながら、 しかしその傷はイエスの生命を消し去りはしなかった。重い石で蓋をされた強固な 岩穴に葬られながら、しかしその墓はイエスという存在を飲み込み尽くす事ができ なかった。この復活は記念されなければならない。神の意志を退け他者の生命を利 用し尽くそうとする我らの世界の罪が、決して無限の力を誇るものではないことが、 この復活の出来事に示されているからである。巨大な悪の力に囲まれている時も、 またその悪を支える「罪」が自分の内側に存在する事実を発見する時も、我々は絶 望しなくて済むようになった。それらの「悪」も「罪」も、我らと共にある神の力 を打ち負かす事が出来ないと知らされたからである。

この事は我々に希望を与えると同時に、我らの責任の重さをも指し示す。即ち、 復活を知った我々は、最早いかなる現実に置かれようと「絶望しない責任」を負わ されているのである。頼りにする身近な隣人が永遠に離れて行こうとも、長年積み 重ねて来た努力の一切が捨てられ否定されるとも、出口の見えない広大な迷宮に迷 い込んだような無力感に襲われても、復活は我々に一切の絶望を禁じたのである。 今や我々は、闘うべき最大の敵を知らされた。あらゆる意味での破局は、既に我々 の敵ではない。カルトは相変わらず猛威を振るい、差別は深刻で根深く、繰り返さ れる戦争の悲惨を食い止める術を持たない、そうした「悪」の現実は依然として我 らの闘うべき相手であり続ける。こうした「悪」の現実と闘う事が必要でなくなっ た、という事では決してない。しかしそれらは、究極的には復活を知る我々にとっ て最大の敵ではありえなくなったのである。そうした闘いにあって襲いかかって来 る「絶望」という名の誘惑こそが、我らの一騎打ちの相手とされたのである。希望 を奪い去ろうとする悪の現実に直面しつつ、救い主の復活によって与えられた「絶 望しない責任」を全うする事こそが、我らの最大の闘いとなるのである。

イエスが生まれついての盲人を癒した場面を連続して読んでいる。イエスは、こ の目が見えなかった人の目を開くという奇跡的な働きについて、イエス自身のみで なくイエスに従う者すべてが行うべき業である事を語っている。我々にイエスのよ うな神の業が可能だろうか? 我々はその問いを手掛かりとして、治療行為そのもの だけが神の業ではない事、「癒し」が必要とされる現実に飽くまでも向き合い、イ エスとの出会いによって知ることになった「罪」の苦しみから目を逸らさない事、 つまり十字架の目撃者であり続けることが、既に神の業なのであると学んで来た。 今日はそれを踏まえ、復活において示された我々の「絶望しない責任」を手掛かり に、我らが行うべき「神の業」について、もう一歩踏み込んで考えたい。

イエスを抹殺しようと陰謀を巡らす人々は、イエスが生まれつき目が見えなかっ た人を癒したという出来事を利用する事を考えていた。一方ではその働きが「イエ スが神の使いである」という事の証拠ではないかと恐れながら、この癒しの業が律 法違反を含むものである点に注目し、イエスの有罪性を立証しようとしていたので ある。そこでイエスに不利な証言を引き出すために「イエスをキリスト(=救い主) であると考える者は会堂から追放する」という脅迫を加えながら、関係者を尋問し ていた。会堂からの追放は、ユダヤ社会においては「社会的な死」と同義であった。 背教者・裏切り者というレッテルを貼られ、それまで親しく交わっていた人々から 断ち切られ、場合によっては生活の基盤を失う事もありえたのである(ある女性の 告白を聞いた。この人は自身の体験から、「人から無視されるという事は、自分の 存在を否定される事だ。私は無視されるという体験を通じて、非常な苦悩を味わっ た」と語った)。つまり「イエスを救い主と考える」と証言できないような状況を 作り上げてから、尋問を始めたのである。

イエスによって癒された男の両親は、会堂から追放される事を恐れて「(息子は) もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と語り、事実上証言を拒否 している(この両親の発言は、自分の身を守るために息子を差し出すというエゴイ スティックな要素を含んではいるが、イエスの働きについての証言を回避するとい う意味では、横暴な権力者たちに対する無言の抵抗にもなっている点に注意したい)。 そこで、やむなく指導者たちは、無視すると決めていた本人の証言を再び取り上げ なくてはならなかった。彼らは「神の前で正直に答えなさい。私達は、あの者が罪 ある人間だと知っているのだ」と権威を脅迫的に押し出しながら尋問を開始する。 「イエスによって癒された」と証言する本人の口から、「イエスは詐欺師である」 という言葉を語らせれば、彼らの企みは成功するからである。

しかし当の本人は「あの方が罪人かどうかわかりません。ただ一つ知っているの は、目の見えなかった私が、今は見えるという事です」と、注意深く責任を取れる 事についてだけ語っている。今や彼には、この尋問が何を言わせようとするものか 「見えていた」からである。指導者たちは更に尋問する、「あの者は、お前の目を どうやって開けたのか」。イエスが安息日にしてはならないとされていた事を確か に行った、という証言をさせようとしていたのである。この尋問の意図も、彼には 確かに「見えていた」。そこで彼は逆に問い掛けた、「一度証言したことを聞かな かったくせに、なぜ再び聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子にな りたいのですか」。彼は既に、置かれた状況に翻弄されるだけの生き方から脱出し ていた。彼はここで明確に「私はイエスの弟子になりたい」と告白しているのであ り、それは指導者たちに対する明らかな挑戦であった。追放される危険を知りなが ら、敢えてそこに一歩を踏み出しているのである。そして遂に彼は、「あの方は神 から来られた方だ」とはっきりと告白する。それは同時に、「あなたがたは神に背 いている」という権力者たちの罪の告発ともなったのである。

彼は、この時点ではイエスが十字架にかかる事を知らない。またその先に復活が 起こる事を知らない。にも関わらず、自分の目がなぜ開かれたのか、自分が何を見 るために癒されたのかを悟りつつあった。それまで隠されたものとしてあった「悪」 の現実を凝視するため、そしてそれまで見えないものとしてあった「正義」を発見 するために、あの癒しが起こったのだ、と理解したのである。それが神の働きであ ると語る事が自分に課せられた使命だ、と確信したのである。

「悪」の現実が神への背きに他ならないと証しする事。「悪」の現実を告発し続 ける事。「悪」によって身も心も苛まれ、何度くじけても闘いを挑み続ける事。そ れが我々の召されている「絶望しない責任」を果たす道を拓くのである。

復活の主を証しするとは、このような闘いなのである。そして、この闘いが決し て敗北で終わらない事を、他ならぬイエスご自身が、復活において我らに約束して いるのである。イエスの癒しは我らに、それまで見えなかった正義の発見と、今な お見えない正義の勝利を約束している。そしてイエスの復活は、その正義を宣べ伝 える事を我らに命じるのである。


願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。

この通信は、NIFTY−Serveを経由して、以下の人々に同時発信されてい ます。

上原 秀樹さん  木村 達夫さん  長倉 望さん  水木 はるみさん   山田 有信さん  YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん


(追記)最近は説教作成が大変な苦痛となっておりましたが、ついに受難週始めの 『棕梠の主日』礼拝説教は、原稿が完成しないまま礼拝に臨むことになりました。 この通信が1週間遅れたのはそのためです(今回お送りした『見えるようになった』 は、当日メモ書き程度でしかなかった原稿に、ぶっつけ本番のアドリブで語った内 容と、その後の1週間にわたる考察を経て辿り着いた結論を加えたものです)。生 来の怠け癖に加え、私が関わる諸問題の各領域において、破局的な出来事が立て続 けにおこったのも大きな原因でした。自分に対して抱いていた「もう少し他人の役 に立てる人間ではないか」「こんな自分にも良いところのひとつくらいは与えられ ているのではないか」というささやかな期待と自負とを見事に打ち砕かれる幾つか の体験がありました。毎年受難週には禁煙する習慣でしたが、今年は精神的に追い 詰められていたのでそれすらも中止してしまったほどです。本当に苦しい受難週で した。しかし、それらがマイナスの出来事では終わらず、受難と復活に関する新た な視点を与えられるきっかけに変えられたことは大きな感謝です。それほど独創的 なお話を造れたとは思いませんが、これまでの自分の在り方からは少しの方向転換 が果たせたように思います。ご批判・ご教示をお待ちします。 (TAKE)


竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>