Date: Sun, 9 Mar 97 17:30:57 +0900
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『栄光を体現する』

ヨハネによる福音書8:48−59による説教
1997年3月9日 浪岡伝道所礼拝にて

「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄 光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたた ちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らな いが、わたしは知っている。」

イエスがユダヤ人たちと論争する場面が続く。イエスは人々に対し、「人は罪の 奴隷として生きており、神は人を解放する」と語ったのだが、それを聞いた人々は 「私達はアブラハムの子孫だ! 今まで誰かの奴隷となった事などない! 」と一斉に 反発したのだった。特に我々が留意しなければならないのは、この論争がイエスを (1度は)信じた者たちとの間で行われている点である。自分に好意的な人に対し て良い顔をするのが人間の常であるが、イエスが立脚していたのは「人間の解放」 という神の意志であった。人に好かれる事(人から栄光を受ける事)でなく、人の 救いのために身を献げることが、イエスの使命だったのである。

(私がネパールを訪れたときのこと。現地の1人の子供が足に小さな傷を作り、そ こに雑菌が入って炎症を起こしてしまった。その村に医者はおらず、その子供の状 態は徐々に悪くなった。その子の父親の承諾を得て、同行していた日本人の1人が 持っていた消毒用アルコールを傷口に振り掛けた所、その子供は痛みの余り猛烈に 暴れ始めた。我々は傷口を悪化させないために彼を押さえ付けなければならなかっ たが、その子はたまたま彼の腕を押さえていた私に怒りの目を向け、私の手の甲に 思い切り爪を立てたのだった。その傷跡は今でもうっすらと残っているが、時折そ れを見て、イエスとイエスに殺意を抱いた人の関係を、またイエスが十字架で受け た傷と我々との関係を連想する時がある)

さて、アブラハムは、神との契約を生きユダヤ人の祖先となった人物である。創 世記によると、アブラハムは75歳で「新しい土地を与えて、子孫を大いに増やす」 という神の約束の言葉を聞き、それが本当に実現するのかどうかも判らないままに 故郷を捨てて旅に出た。彼はその旅の途上で様々な事件に出会い、神(の約束)に 対する信仰はその都度ゆらいだが、結果的に神の力の偉大さを知る経験を重ねて、 「神は契約した者を見捨てずに、常に共にいてくださる」という強い信仰を培う事 になった。アブラハムが死ぬ時、彼は死んだ妻を葬った墓地と8人の息子を得たに とどまったが、しかし非常に満ち足りた気持ちであった。神が、必ず自分の子孫と 共にいてくださると信じていたからである。事実、数百年してから、大いに増えた アブラハムの子孫たちは、神が与えると約束した土地でイスラエル王国を建設した のだった。神は、神への信頼を失わなかったアブラハムとの契約通り、土地を与え 子孫を増やすと言う約束を忠実に守ったのであった。今日の聖書箇所でイエスと論 争するユダヤ人たちは、このアブラハムの子孫であり、また先祖にアブラハムがい るという事を民族的な誇りともしていた人々であった。「我らは契約の民である。 神は我らと共にいる。神は、我らの先祖がエジプトで奴隷とされていた時も共にお り、解放へと導いた。以来、イスラエルは誰から支配されても奴隷となることはな かった。我ら契約の民と共に、解放の神があるからだ」

彼らがそれまでイエスを「同じアブラハムから生まれた者」として受け入れ、し かも「同じユダヤ人でありながら人間以上の力を持つ者」として尊重して来たのは、 イエスが「私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる」と語ったからであ り、彼らがその言葉によって神が自分たちと共にあるという誇りを確認し慰めを得 る事が出来たからである。神から与えられる栄光が、決して失われてはいないと感 じる事が出来たからである。この時の彼らは、長期にわたりローマ帝国の支配を受 けるという屈辱的な状況に置かれており、「共にある神」を語るイエスは神の力を 受けた預言者に間違いないと感じられたのだった。だからこそ彼らは、「あなたた ちは罪の奴隷である」「あなたたちは悪魔を父とする民である」「あなたたちは神 に属していない」と立て続けに語るイエスを、同じアブラハムの子孫として受け入 れることはできなくなった。

もはやイエスは、同じアブラハムから生まれながらも途中で外国人との混血が行 われたとして彼らが切り捨てて来たサマリア人に等しい存在であり、人間以上の力 を持っているのは神によるのでなく悪霊の仕業だった、と考えるようになった。自 分たちの栄光を傷付ける者が、神からの使者であろうはずがない。そこで彼らはイ エスに向かい、「あなたは自分を何者だと思っているのか」と罵るのである。

神との関係によって自分の栄光が増し加えられることを求めていた彼らの信仰は、 神の栄光が現されることを待ち望んで約束の実現を信じたアブラハムの信仰とは、 大きく変質していたのである。彼らがイエスを信じたのも、イエスを通じて自分の 栄光が与えられると考えたからに過ぎなかった。イエスが、イエスを信じた彼らを も敵にして論争しなければならなかったのは、このためである。

オカルトがブームである。また、潜在能力の訓練や大脳操作のための意識集中に よって成功が約束されると説くビジネス書に人気が集まっている。こうした流行の 背景に、「今の自分は本当の自分ではない」「こんな終り方をする自分ではいたく ない」という人々のフラストレーションが見て取れる。私達の祖国は、戦後そのよ うなフラストレーションをバネにして類を見ない経済成長を成し遂げた。「栄光を! 栄光を! 」と求めるその過程で、多くの弱いものを切り捨て、または弱いものから むしりとり、今日見る社会を作り上げたのである。そしていま多くの人々は「今度 は自分が切り捨てられるのではないか」との不安に怯えているのである。その不安 を遠ざけるため、弱いものに対してはますます尊大になり、歴史さえも歪めようと している。

神は、ご自身の全能である事を示すために、ご自身の栄光を明らかにするために、 敢えて地上では何の力をも持たないイスラエルを解放する神となられた。アブラハ ムも神の約束なしには、また神の約束を無条件に信じて委ねることなしには、イス ラエルの先祖となりえなかったという点で無力であった。問われたのは、「神の栄 光が現される事を信頼して待ち望む」という信仰の有無である。イエスもまた、ア ブラハム以前から神と共にある「神の子」でありながら、十字架上で処刑される無 力な存在として、そしてその無力さによって神の栄光を明らかに示す者として、こ の地上に現れたのである。

無力さを痛感する時がある。負わされた病に対して、担わされた働きの重さに対 して、癒し得ない他者の痛みに対して、あまりに何ごともなしえない無力な自分を 発見する事がある。だがそれは、我らの存在の無価値さを表すのではない。わたし の栄光が消え去る時、そこに神の栄光が現される舞台が完成するのである。我らに はただ、そこに神の栄光が現される時が必ず来ると信じ、委ねて待つ信仰が求めら れている。そのためには、切り捨てられて来た世界に目を向け、また身を置こう。 自らの弱さを見出だした時、それが神からの賜物である事を知ろう。神の栄光を現 す器として用いられる日が来る事を信じ、感謝してそれを待とう。神の栄光を体現 する者としての道を、イエスは先だって歩まれたのである。


願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。

この通信は、NIFTY−Serveを経由して、以下の人々に同時発信されてい ます。

上原 秀樹さん  木村 達夫さん  長倉 望さん  水木 はるみさん   山田 有信さん  YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん


竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>