Date: Sun, 2 Mar 97 15:42:57 +0900
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『自由に辿り着く』

ヨハネによる福音書 第8章 31−47による説教
1997年3月2日 浪岡伝道所礼拝にて

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどま るならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、 真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブ ラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」

イエスとイエスに敵対する人々との論争が続く。これまではイエスに公然と敵 対する人々との論争が綴られていた。しかし今日の箇所は、イエスを「信じた」 人々との論争が展開されている。自分を信じる者たちさえ敵にして語らざるを得 ないという深い孤立の中で、イエスは宣教したのである。究極的には十字架によ る処刑へと結び付くその孤立は、イエスに敵対する人々ばかりでなく、「あなた のために命を捨てます」と告白しながらもイエスを捨てて行く弟子たちをも含め た、一時的にイエスを受け入れイエスに従った人々によってもたらされるもので あった。イエスを受け入れ信じた人々が、イエスを十字架につける最大の力とな ったのである。イエスが、自分に敵対する人々に対してでなく、「ご自分を信じ た」人々と論争せざるを得ない姿には、十字架が何かの失敗によって起こった偶 発的な事故ではなく、イエスその人が最初から十字架を目指していること・つま りイエスの本質が我らの住むこの世界の本質と全く相容れないものであることが、 既に示されている。

我々の中にどれだけ、このイエスに見るような孤立に耐える者がいるだろうか。 自分を支持する者・自分を受け入れる者との密接な関係において、我らは、最も 充実して生きる実感を得るのではないか。そうした関係を不要だと言うのではな い・それはむしろ必要不可欠である。自分を支持する者がないだけでなく、自分 を排除する人々の中に置かれる時のことを想像してみる・・・そこで生き延びる のは難しいと、誰もが思い当たるはずである。我々もまた、イエスが体験したよ うな孤立に襲われる事がしばしばある。人によってその場面は様々であるに違い ないが、最も典型的に思われるのは「いじめ」現象である。「いじめ」による自 殺が後を絶たず、時に自殺者の弱さが論じられるが、それは弱さでも何でもなく、 我々人間の本質に対する攻撃が行われた結果なのである。「いじめ」は昔からあ るが自殺者はほとんどなかった、という言い方が事実ならば、それは「いじめ」 が行われる空間以外の世界に、その人を受け入れ支持する関係があったからに他 ならない。そして、「いじめ」が行われる空間以外でのそうした関係が加速度的 に失われている事態をこそ問題にしなければならないはずである。もし、その人 を支える人が1人でもいたならば、命の全てを放棄する「自殺」という結末は回 避できたに違いなく、回避できた実例も多くある。そして、そうした支える者と の関係を持てない人々の集団であるからこそ、「いじめ」の標的が自分以外であ る時、無関心を装うかいじめる側に回るかの2つしか選択肢がなくなるのである。

世に横行する悲劇の本質は、大半が「いじめ」現象に見る構造と同質ではない だろうか。我々は、自分を阻害する関係の中では生きられないのである。阻害さ れるか阻害するかの二者択一を迫られたら、我々は自分が生き延びるために阻害 する方を選ばざるを得ない。この点では、我々は罪の奴隷として生きている事を 自覚しない訳にはいかない。悪が行われており、その悪を阻止するために立ち上 がるには孤立を覚悟しなければならない時があるならば(そして現にあるのだが)、 「いじめ」に苦悩して命を絶つ人々と同じ様に、我々は「十字架に向かう」とい う自殺行為に踏み入らなければならなくなる。「命の奴隷」たる我々は、大抵そ のような決断をすることができない。無関心にとどまるか、自覚しながらなおい じめる側にとどまるのである。

イエスがそのような孤立の中で、また十字架の死に至るまで、自分の使命を見 失うことなく生き抜く事が出来たのは、彼が独りではなく、彼を支持し受け入れ る神と共にあり続けたからである。十字架において、全ての人々の罪の身代わり として死ぬことが、イエスの使命であった。それは、偶然に悪と出会った我々が それを阻止するために歯を食いしばって命を危険にさらす「自殺行為」とは異な り、命の全てを放棄する自殺そのものでもない。イエスは十字架の死のために世 に現れたのである。

神と共にあることが、イエスが語りまた行った「自由」の根源であった。与え られた命を、自分が生きるためでなく、他者が生きるために自在に用いる事が、 イエスにおいて示された「自由」なのである。それは、人との関係のみに生きる 事によっては得られない「自由」である。この世の一切の人に拒絶されても揺る がない自由とは、この世にない「神との関係」なしに手に入れることは出来ない。

人々はイエスに向かい、「私達は今まで、誰かの奴隷になったことはない。私 達はアブラハムの子孫だからだ」と言い切っている。アブラハムが神ではなく、 自分たちと同じ様に地上に生きて死んだ存在である事・つまり自分の生きる根拠 が神ではなく人である事を告白している。それでいて「自分たちは神の子である」 と信じているのである。ここで、彼らの信仰が偶像崇拝にすぎない事が暴露され ている。彼らが、神と契約したアブラハムの子孫であるのはイエスも認める事実 であるが、しかしその事実に生きる根拠を置いている限り、その中で孤立して生 きる事が困難であるという限界は変わらない。神とイエスに見る関係は彼らには 起こっておらず、むしろイエスの十字架に見るように、彼らは自分が生きるため に他者を殺す事さえしなければならない「命の奴隷」に止まっているのである。 自分の命のために他者を殺す人々を、そしてそれを「やむを得ぬこと」と正当化 する人々を、イエスは「悪魔」と呼んだ。

我々もまた「悪魔」の子である。「こういういい所があるから、私は悪魔の子 孫ではない」という類いの思考法は、ここでイエスに批判される「私達の父はア ブラハムです」と反論する人々のものと同じなのである。また「キリスト者であ る」という事実性のみに立脚する生き方も、同様の限界を帯びているという自覚 の下に絶えざる検証や更新を踏まえなければ、やはり偶像崇拝に堕する危険と無 縁ではありえない。

「自由」に辿り着かせて下さる「真理」。不自由の中にあるほど自由のイメー ジは明確となる。しかしその自由すら、「真理」が辿り着かせる「自由」ではあ りえない。我々は総じて「非自由」に生きている。そこでは、まさしく悪魔的な 社会に生きる今日の我らのために命を投げ出したキリストという「真理」に出会 うよう、祈りを深めたい。そこから「神と私」という対面する関係が生れ、人と 人との関係をも支え豊かにされるのである。


願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。


この通信は、NIFTY−Serveを経由して、以下の人々に同時発信されてい ます。

上原 秀樹さん  木村 達夫さん  長倉 望さん  水木 はるみさん   山田 有信さん  YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん


(追記)
カルト体験を踏まえると、今日のような聖書箇所に対して、実は身の毛 のよだつような嫌悪感を拭い切れませんでした(・・・牧師でありながら!)。 信じる者と信じない者を神と悪魔と言う二項対立に配したり、「教祖」の語る事 は一般人には理解できないと突き放したり、またそれを「罪」としてみたり。 「ムチャなのはイエスだ!」と心の底から思っていました。しかし破壊的カルト の指導者たち(または個々の信者)は、世間からの孤立を誇ったり分析したりみ せながら、実は世間的な意味でのパワー(多くの場合はお金)に依存しており、 被害者も世間における孤立状態に付け込まれる場合がほとんどである事を改めて 確認する機会となりました。大勢に依存する心の在り方を「命の不自由」と表現 し、真の孤立にありながら孤独に陥らなかったイエスの在り方に自由を見出だす 論理は、今回の大収穫でした。
今日の礼拝には8名の高校生が出席。偶然でしたが、信徒にも非信徒にも「いじ め」体験者が含まれており、彼らに解放への約束を届ける言葉として用いられる 事を祈っています。

竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>