Date: Sun, 23 Feb 97 13:50:12 +0900
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『光の行方』

ヨハネによる福音書 第8章 21−30 による説教
1997年2月22日 浪岡伝道所礼拝にて

そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたし を捜すだろう。だがあなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行 く所に、あなたたちは来ることができない。」

闇に輝く光としてのイエス!

行き先を見失い目の前の困難に立ち向かう力を取り戻せずうずくまる者にとり、 この世において見出だす慰めと希望とを予感させるような「輝き」は、救いの神 からの光を受けるものである。その「輝き」とは、ある者にとっては他者との語 らいであるかもしれず、ある者にとっては音楽かもしれない。実際その「輝き」 は、人の成長を見守る時に感じられ、また困難にあるときの具体的な救済の働き にも見る事ができるだろう。我らがそこに救いを直感し、再び立ち上がる手掛か りを見出だしうる限りにおいて、それらは神が備えたもう光の反射なのである。 そこから希望を受けとる事は、絶対に間違いではない。仮に、信仰者であるから と言って、聖書のみからその輝きを受け取ろうとするならば、その態度は間違っ ているとは言えないが、しかしこの世に多く備えられている神の光の反射を見落 としてしまうことだろう。病人が見舞い客の花束によって慰めを受け、あるいは 他の病人が治癒する出来事に直面して自らの喜ばしい将来について予感し、いつ かは自分の病気が癒される日が来るとの希望を取り戻す時、それは神がイエス= キリストにおいて行われた救いの業を反射させる輝きであると理解して構わない。 また、常識的には悪徳であって他の誰1人としてその美点を納得できないような 事柄であっても、その当人の勇気や希望を回復するのならば、それは確かに「神 からの光」を反射する輝きに間違いないのである。

しかし我々は、それらがいかに慰めと希望とをもたらそうとも、反射は反射に 過ぎず「神からの光」そのものではない事を知らなければならない。その事は、 それが道徳にかなっているとか美しさを備えているとかいう事とは全然関係がな い。いかに人が賞賛し、あるいは歴史に残るような偉大な出来事であっても、そ していかに我々がそこから多くの慰めと希望とを与えられようとも、それは依然 として「神からの光」を反射する輝きであって、「神からの光」そのものではな いのである。我々はその日常において、多くのものから希望や活力を受けとって いる。愛しい隣人との関係や、芸術的な作品との触れ合いや、自分の努力の実り などから、命の充実を感じとり、明日への活力を受けとっている。それはまた、 日々の生きる糧として向き合う聖書の言葉それ自体もそうであろう。・・・しか しそれら輝くものたちは、決して永遠のものではあり得ない。いつでも壊れ得る ものであり、いつでも奪われ得るものである。そこに我らの生きる根源を置くな らば、それらが我らにとってかけがえのないものであればあるほど、我らはそれ が失われた時にたやすく絶望の奥底へと突き落とされてしまうであろう。それら を愛すれば愛するほど、我らは致命的な弱点を抱え込むことになる。そしてまた、 「それらは有限なものである」との認識を深く持てば持つほど、我らはそれを深 く愛する事が出来なくなってしまう。「それらが失われる日」への予感が、それ らを心の底から愛する事を躊躇させてしまうから。希望や癒しや慰めをもたらす それらを愛せなくなったら、我らが生きる意味は全く失われるだろう。

イエスは、自分を証しして「私は世の光である!」と宣言した。神は、イエス の十字架の死と復活において、我々の救いを完成させた。イエスこそが「神から の光」なのである。そして、我らが日常において愛する「輝き」は、このイエス =キリストという「神からの光」を反射させるために備えられたものなのである。 そうした認識は、決して我らの愛するものの価値を貶めはしない。「いつかは失 われるものである」と知っていたら、我らはそれが実際に失われても回復不能な までに叩きのめされることがない。また、それが「神からの光」の反射であると 知っているならば、永遠でないからといって半端に愛したり距離を保ったりとい う注意の必要が全くなくなるのである。そこには、永遠への架け橋や入り口が確 かにある。それが永遠を指し示すからこそ、我々は日常で向き合うそれらを、心 から愛し心から受け入れることが出来るようになる。それらは、自らの命を投げ 出して我らの救いとなられたキリストの愛を指し示す輝きである! 我らはその愛 に支えられて生きている! その信仰をもってこの世にあるとき、この我らにも愛 が可能になるのである。

だが今日の聖書箇所では、そのイエス自身が「わたしは去って行く!」と予告 するのである。そして「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない!」 と宣言しているのである。

ここで言われる「あなたたち」とは、誰のことか。直接には、「彼は自殺でも するつもりなのだろうか」と囁き合っている一部のユダヤ人たちの事である。当 時、ユダヤ人の中では「自殺する者は陰府(よみ)の国に下り、永遠にそこから 抜け出せない」と信じられていた。「わたしの行く所に、あなたたちは来ること ができない」と宣告された彼らが「イエスは陰府の国に行くに違いない」と結論 できたのは、ユダヤ人たちの中でも特に「私達は決して陰府の国に行くことはな い。律法を守って生活している私達は、神の国に行くのだから!」と信じていた 人々であった。それは、イエスが「神からの光」である事を悟らないでも生きて 行ける(と思っている)人々であった。「神からの光」であることを知らないま まこの世の「輝き」を愛し、生きる根拠と出来た人々であった。それは、1つ2 つが失われても大差ないほどたくさんの「輝き」を所有できた人々である。それ らがイエスという「神からの光」を指し示す「輝き」である事を知らないから、 彼らにとってはどれ1つとしてかけがえのないものではあり得ず、従ってその結 果どれをも心から愛する事がなかったのである。何かを失っても、それに代わる 別の何かを絶えず持っていられる人! それは幸運ではあるかもしれないが、所有 するどれへも心からの愛を抱けない点で孤独であった。

しかし、それは当時のユダヤの人々の事だけでなく、同時に今を生きている我 らの事でもあるのではないか。我らもまた、何物かを破壊してはその次を求め手 に入れる。または破壊される事を見越して、その次のものを予め手に入れようと する生活にある。それは決して目の前のものを心から愛するやりかたではない。 「神からの光」であるイエスを、不要として十字架につけるその罪は、我らが日 常の・目前の・具体的な事柄を(それが「神からの光」を指し示すかけがえのな い存在であると悟らないゆえに)心から愛する事がない時に、確かに我らにも宿 っていると言わねばならない。

しかしイエスは、そのように愛されず十字架において捨てられるものとして、 この世に来られた! キリストを除いては、我らがこの世の「輝き」をも心から愛 する事ができないと悟らせるために! しかもそのような我らであるにも関わらず 愛して下さる神が「ある」事を示すために! イエスは自らの命を投げ出したので ある。

十字架において、我らにとっての究極の「光」は破壊された。破壊したのは我 ら自身である。この世の輝きが「反射」に過ぎない事を悟らず、従って深く愛さ ないまま使い捨てて行く我ら自身が、「神からの光」キリストを十字架に捨てた のである。

しかしキリストは、破壊されなかった! 復活によって、キリストこそが永遠で ある事を示すため。神が、愛するにふさわしくないままの我らを、それでも心か ら愛して下さっていることを示すため。神はキリストの十字架と復活によって、 我らがこの世の「輝き」を、真に輝くものとして受け取る事を可能にして下さっ たのである。

キリストは、この世にはない。しかし、目の前に・身近にないからこそ、我ら は光が光であることを悟る事ができるのである。今の我らの目に見えない光を、 見えないにも関わらず「ある」と信じる時、その光が我らを包んでいるという希 望が現れる。そのとき我らは、光が見えない闇の中に座り込む時も、必ず見えな い光を反射させる「輝き」と出会う、と信じて待つ事ができるようになるのであ る。我らが生きる希望を見失う事のないように、イエスは「私は世の光である!」 と宣言した。そして「イエスがある! 『神からの光』がある! 」と信じる我らに、 この世のすべての物がその輝きをもって「アーメン・然り。イエスはある」と合 唱するのである。厚い雲が空を覆っていても、我らは依然として星々の光に包まれて いる。その光が見えなくても消えた訳ではないのと同じ様に、神と共におられるキリ ストも、我らを照らす光であり続ける。我らはその光を受け、闇の中にいる人々と共 に生きる。キリストは、我らを通じて世を照らし続けるのである。


願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。

この通信は、NIFTY−Serveを経由して、以下の人々に同時発信されてい ます。

上原 秀樹さん  木村 達夫さん  長倉 望さん  水木 はるみさん   山田 有信さん  YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん


(追記)
 我が家にうまれた5頭の子犬のうち、未熟児であった1頭が生誕後5日目に死 んでしまいました。丸々と太り続ける他の4頭の存在と共に、死んでいったその 1頭も、その1頭にミルクを与え暖め続けて右往左往した日々も、またその死に よって受けた衝撃や悲しみをも、私達に与えられた「輝き」として記憶したいと 思います。

竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>