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Date: Sun, 19 Jan 97 02:33:10 -0800
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『この人はどこへ行くのか』

ヨハネによる福音書7:32−36
1997.1.12.
浪岡伝道所 礼拝説教

「あなたたちは、わたしを捜しても見つけることがない。わたしのいる所に、あ なたたちは来ることができない。」

エルサレムに集まっていた群衆たちの中には、イエスの行った幾つかの奇跡を見 て、「この人こそ救い主に違いない」と噂する人々が大勢あった。その噂を聞いた ユダヤ教の指導者たちは、イエスを逮捕するために神殿の警備員を派遣した。

毎年元旦になると初詣に押しかけた人々を整理するために警察官が動員される神 社があるが、同じような働きを任されていた人々であろうと思う。当時のエルサレ ムにおいて神殿は、特定のお祭りの時に外国に散っていたユダヤ人たちも集まって 大にぎわいとなった。大勢の人がばらばらに動いて怪我人が出ることのないよう、 また神を礼拝すべき神殿で盗みなどの犯罪が起きないように、警備員たちが置かれ ていたのだろう。だがこの時は、「イエスこそが救い主だ」と信じる人々が増えな いように、イエスを逮捕するために派遣されたのであった。

しかし、理由や経緯は語られていないが、この逮捕は失敗に終わった。それは、 この福音書で何度か繰り返し説明されている通り「神が定めた十字架の時」が来て いなかったからであろう。逮捕が失敗した時、イエスは「今しばらくわたしはあな たたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と語り、 冒頭の言葉を宣言するのである。それを聞いたユダヤ教の指導者たちは、「この人 はいったいどこへ行くと言うのだろうか。逮捕されないようにエルサレムを逃げ、 ギリシャのどこかで宣教するつもりだろうか」と互いに言い合ったのである。

イエスは今日の聖書箇所の直前で「私は神から遣わされている」と語った。イエ ス自らが「自分はどこから来たか」を語っている。今日の箇所では「自分はどこへ 行くか」について語っている、と言える。福音書は、イエスが神から遣わされて、 十字架で死に、復活した後に神の下へと昇って行った、と伝えている。イエスは 「自分が最終的にどこへ行くのか」を語る事を通じ、自分が救い主である事を証し している。

「自分はどこから来て、どこへ行くのか」。これは、私たち人間にとって永遠の 謎である。もちろん表面的には語る事ができる、「私は**年**月、**県に**と**の子どもとして生まれた」「私は、いつかはわからないが、死んで土に帰 るだろう」……。しかしこの「どこから」「どこへ」を、「なぜ」に置き換えた 途端に何も語れなくなってしまう。「私はなぜ生まれたのか」「なぜ今ここに生き ているのか」「私は、なぜ死ななければならないか」。自分の意思で生まれてきた という人は、普通いない。「なぜ生まれたのだろう」と考えた時には、既に生まれ て生きてしまっている。自分の意思で死ぬ人はいるが、それもほとんどの場合は 「死ぬ他はない」という状況に追い詰められての事ではないだろうか。

この事は、病気・災害・事故など、思いもかけなかった災難に見舞われた事のあ る人であればすぐに思い当たるだろう、「なぜ、自分がこんなめに遭うのか?」。

先日、いのちの電話の新年会があった。一次会で失礼するつもりだったが、藤代 健生病院の蟻塚院長に「二次会に来なかったらコブラツイストだ」と脅迫された事 もあり、二次会までお付き合いさせて頂いた(さすがに三次会は遠慮した)。そこ で、青森生れで北朝鮮に国籍を持つ女性のお話を聞くことができた。

彼女は現在も県内に住んでおり、住民の義務として税金も納めている。しかし選 挙権はなく、犯罪を犯した訳でもないのに指紋を押捺して外国人登録証を貰わなく てはならない。日本で生まれて日本で育ってきた・今でも日本で生活している、そ れなのに外国籍であるというだけで様々な制約や差別を受けている。彼女はこれま で、朝鮮国籍である事で馬鹿にされたり不便を強いられたりして来たから、「朝鮮 人である」という事を恥ずかしく思った時もあるが、現在は朝鮮民族であることに 誇りを持っているから、日本国籍を取るつもりはない。しかし現在中学生の息子た ちには、学校に通わせるのに不都合になりそうなので日本名を使わせている。実際 民族紛争が多発している世界を見ても、朝鮮民族であることに誇りを持つのが、何 か悪い事のように感じてしまう自分が悲しい。「自分は何人(なにじん)なんだろ うか」「これから何人(なにじん)として生きて行ったら良いのだろうか」と迷う 事がある……。

彼女が日本に生まれて住んでいるのは、彼女の選んだ結果ではない。彼女が朝鮮 人として制約や差別を受けるのは、彼女の責任ではない(むしろこの問題は、日本 という国の在り方を問う中で、我々日本人が負うべき課題である)。それでも、彼 女は問わずにはいられないのである。「なぜ自分は朝鮮人なのか」「なぜ自分は日 本に生まれたのか」「これから自分はどう生きたらいいか」。

障害を負った人々、災害に見舞われた人々、犯罪に巻き込まれた人々、いわれの ない差別を受ける人々、皆が同じ問いを抱えて生きている。昨年インドネシアから 浪岡にお招きした元「従軍慰安婦」のマルディエムさんも言っていた、「なぜ私が こういう体験をしなければならなかったか。私にもわからないのです」。誰がそれ に責任を持って答える事ができるだろうか。まさしく我々は、自分がどこから来て どこへ行くのか知らないまま、生きなければならない・死ななければならない。た だ我々は、「自分は、ここから来て、あそこへ行くのだ」と、自分で選んで自分で 信じる以外に、この問いに答える方法を持っていない。キリスト者の生き方も、そ れ以上のものではない。「我々はヤハウェの神によって造られた。我々はキリスト に救われてヤハウェのもとへ帰る」と、証拠に基づいて「知っている」のでなく、 確証も何もないまま「信じている」に過ぎないのである。これが『信仰』である。 問題なのは、その『信仰』を自分の意思で選ぶか・選ばないか、である。

キリスト者は「キリストを信じれば幸せになれるから・幸せになったから、キリ ストを信じている」のではない。キリストを捜しても、我々はキリストをみつける 事がない。キリストのいる所に行こうとしても、我々は行く事ができない。この 「キリスト」を、「愛」とか「幸せ」とか「希望」とかに置き換えると、良くわか る。我々はそれを捜しても手に入れられないのである。

我々は、目の前にある「これ」こそが「愛」とか「幸せ」とか「希望」とかであ ると「信じる」他はない。信じなかったらそれは「愛」でも「幸せ」でも「希望」 でもなくなるのである。「キリスト」も「救い」も同じである。2000年前のナ ザレに現れたイエスこそが救い主=キリストだ、と信じなかったら、イエスはキリ ストでも何でもなく、大昔に死刑にされたただの1人の男であるにすぎない。「イ エスこそキリストであり、我々の救いはそこにある」と信じるならば、イエスは神 から遣わされた、「愛」とか「幸せ」とか「希望」とかを確実に約束する救い主と なる。

全世界で、多くの人々が、それぞれの理想のために命を懸けて闘っている。先日 私は、ノーベル平和賞を受賞したラモス=ホルタ氏の講演を聞いてきた。ラモス氏 は、20年以上もインドネシア軍に支配されている東チモールの独立解放のために 働いてきた。20年以上も! 私は統一協会問題に取り組んで10年になるが、も うそれだけで疲れ切ってしまった。どうして20年以上も・外国に追放された身で ・巨大な軍事力を持つ敵に立ち向かって、頑張れるのか理解できなかった。ラモス 氏は講演の最後にこう言った、「私は独りではない。暗殺されるまで闘い抜いたマ ルチン=ルーサー=キング牧師や、30年も監獄に入れられながら遂に南アフリカ 共和国の民主化を成し遂げたネルソン=マンデラ首相や、今なお軍によって監視さ れ続けているミャンマーのスー=チーさんや、その他多くの名も知らない人々と連 帯していると信じるから」。

希望とは、こういう事ではないか。どんなに絶望的と思える闘いの中にあっても たった独りではないと信じる事! 必ず勝利の日がやってくると信じる事! ただ 信じるだけでは何も起こらないし何も変わらない、と我々は考えてしまう。しかし ただ信じる事が、これ程の力を生み出すのである。

現実に手に取って自分のものとする事ができるものがあれば、我々はそれをこそ 「確かなもの」と考える。しかし、我々がこの手に取ることができるもの・我々が 自分のものとする事ができるものは、いつかは確実に失われるものでもある。闘い の最中、自分の拠り所とするものが突然失われたら、我々の希望は根元から壊れて しまうし、闘いには敗れる他なくなるだろう。「この世に根拠を持たない希望」を 信じること以上に、我々を強くするものはない。

イエスが語ろうとしたのは、まさしくその事であった。「この世にいるあなたが たは、捜しても見つける事がない。わたしのいる所に来る事ができない。なぜなら わたしはこの世から生まれたのでなく、神から遣わされたからだ!」。

この世にないものとして、イエスは現れた。我々にとって救い主=イエスは、い ま目の前にはいない存在である。だからこそ我々は、イエスによって与えられる希 望を他の何よりも確かなものとして受け止める事ができるのである。我々は、独り ではない。イエスが共におられる。希望が見えない時にこそ、その「希望」は最も 接近している。我々と共にあるのである。


竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>