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Date: Sun, 19 Jan 97 02:27:27 -0800
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渓水寮 聖研 『説教の舞台裏』

ここ1〜2年の現象ですが、NS仙台地区のメンバーから教会に通い始める人が 出始めています。私は、洗礼を受けてクリスチャンとなることが必ずしも「伝道」 の「成果」だとは考えていませんが、それでも教会に関わる青年が増えているのは 嬉しい事だと思っています。

今回の聖研は、私が牧する日本基督教団 浪岡伝道所で実際に語られた礼拝説教 が作られるまでのプロセスをたどる事を通じて「説教の聴き方」を考えようという 目的でなされたものです。以下に、当日の参加者に配布した資料を若干手直しして 掲載いたします。感想・批判など、お寄せ下されば幸いです。

説教とは、礼拝において語られる「神の言葉」である。

→いかにして人間(説教者)の言葉が「神の言葉」として受容されるか?

つまり説教とは、「キリストを指し示す証言」のリレー行為である。それが「福 音の伝達」である限りにおいて、またそれを受け止める聴衆が「神の言葉=福音」 を祈り求める限りにおいて、説教は「神の言葉」となりうる。

「証言者(・直接証言者・聖書記者・説教者など)は人間である」という限界 を帯びつつ、「神の言葉を指し示している」という一点において、「現代に語 られる神の言葉」として了解されるべき行為。語る者・聞く者が共に、礼拝と いう時空間において「この言葉が、神からのものであるように」との祈りが必 要。それだけに、証言・説教=神の言葉と無条件・無批判に短絡することは許 されず、常に批判的検証を要する。
「福音の伝達」…当然、「何が福音であるか」の検証が不可欠。教義学的には 「復活」「救い」「神の国」などのキーワードで説明されるが、「それが、な ぜ自分にとって『福音』なのか」という実存的(具体的)な問いを経なければ キーワードはキーワードでしかない。
ただし、実践神学においては、福音の伝達は「説教」と「牧会」であると規定 される。牧会とは、礼拝を離れた場での「福音の伝達」であり、それは時には カウンセリング的な様態を呈することもあるが、同時に非福音的なものに対し てはそれをあらゆる形で拒絶するという厳しさを伴う事が殆どではないか、と 竹迫は考えている。

説教作成の実際

テキスト選定 ヨハネによる福音書 7:32−36

浪岡伝道所では、同福音書の連続講解による説教を行っている。基本的に連続 講解中は、アドヴェントであろうとクリスマスであろうと別のテキストを選ぶ 事は敢えてせず、順序にしたがって与えられたテキストからメッセージを汲み 取る事にしている。

釈義 参考文献 『説教者のための聖書講解 79 NO.29』

前後関係(文脈)の確認

イエスは、ユダヤ教指導者による排撃の陰謀を避けるためにガリラヤへ一時 避難するが、ユダヤ3大祭典の1つである「仮庵祭」に沸き返るエルサレムで 公然と宣教活動を開始する。イエスの活動を目撃した群衆の中では、イエスを 敵視して陰謀に荷担する者・奇跡を目撃してイエスをメシアとして承認する者 ・態度決定を保留しつつ、しかしイエスにまつわる騒動を憂慮して問題視する 者、の3グループの分裂が起こっている。今回のテキストは、イエスをメシア として承認するグループの存在を重視したユダヤ教指導者が、イエス逮捕のた めに警備員を派遣するところから始まっている。

物語背景の確認 (以下、聖書からの引用は協同訳の記述による)

「祭司長たちとファリサイ派の人々は…遣わした」
…大多数のギリシャ語写本にはこのように書かれているが、有力写本には「祭 司長たちとファリサイ派の人々」という主語記述が含まれないものが存在する ので、これは後代の加筆によるものと考えられる。よりオリジナルに近いもの を再現するならば、「遣わした」と訳される動詞が3人称複数形であるから、 「そこで彼らは…遣わした」とするべきだが(ギリシャ語文法では、動詞は変 化の仕方によって主語を内包する構造になっているから)、その場合、文脈上 はファリサイ派の人々のみが警備員派遣に関与したという文章になる。しかし 史実上は、神殿警備員を派遣する権限を持っていたのは、平民であるファリサイ 派の人々と平素から対立関係にあった祭司長たち=サドカイ派の人々である。 即ちこの加筆は、その事情を汲んでわざわざ追加されたもの、と推察できる。

「下役」
…元来は、日本における初詣警備の警察官のような機能を担っていたものであ ろう。しかし当時のイスラエルはローマ直轄の植民地であり、ローマ皇帝崇拝 を拒絶してヤハウェ崇拝を貫いていたユダヤ人と、反乱を恐れてそれを事実上 黙認していたローマ帝国総督府との緊張関係を考慮すれば、治安維持機能をも 期待されていた事は間違いない。神殿内で起こる騒ぎは、ユダヤ人全体の命運 をも決しかねないからである。つまりユダヤ教当局者たちは、イエス問題を治 安維持の観点でとらえていた事が理解される。

「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に 教える」
…強制連行・移住その他の事情により、パレスチナ地方を離れ地中海世界で生 活するユダヤ人が多数おり、彼らは「離散の民」と呼ばれた。同じ神を信じ同 じ生活様式を志向する彼らは、しかし外地(汚れた地とみなされた)出身の者 として、エルサレムのユダヤ人からはある種の差別待遇を受けていたようであ る(そこで「離散の民」の中では、「よりユダヤ人らしく」という指向性が生 まれ、かえって律法主義化が促進される傾向もあった。ここらへん、皇民化教 育を受けた沖縄人・アイヌ人・在日朝鮮韓国人とだぶって見えて興味深い。

さて、ヨハネ福音書はユダヤ人による著作であるが(著者実像に関してはほ とんど不明)、表記はギリシャ語によっている。つまり、著者の想定する読者 はアラム語を母語とするエルサレムのユダヤ人よりも「離散の民」もしくは まるっきりの「異邦人」であった可能性が高くなる。ヨハネ福音書記者が属し ていた教団の歴史・またキリスト教発展の経緯などを伺わせる要素ではある。 またそこに、各エピソードの主題を読み解くヒントを見いだす事も可能。

黙想(MEDITATION)=実存から使信を問い、主題を選定する

記者の関心

派遣された警備員たちはイエス逮捕を使命としていたが、しかしイエスがその後 も公然と宣教を続ける記述を考慮すれば、それは実現されなかったわけである。そ の経緯について福音書は何も触れていないから、この場面における「逮捕の危機」 は、この時点では記者の主題ではありえない(これ以前の聖書箇所で説明されてい るように、「イエスの時=十字架・復活など」がまだ来ていないから、と受け取る のが妥当)。むしろイエスの発言が34,36に繰り返されている点からして、

「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから自分をお遣わしになっ た方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを探しても、見つけることがない。わた しのいる所に、あなたたちは来ることができない」
が主題として扱われるべきであろう。

直前のテキストにおいてはイエスの出自が問題とされており、今回のテキストに おいては近い未来にイエスが去り、その行き先は「警備員たち(あるいは読者まで 適用可能か?)」には到達出来ない場であると宣言されている。このイエスの宣言 が中心的主題であるとして、それが我々にどういった関係を持つ事柄なのか。


以下、松永希久夫による考察を参考文献から引用。

『この所で時間的な終末論と空間的終末論とが交差し、その焦点にキリスト論的な イエス像が鮮明に移し出されている。』
『…元来、時間的な理解であった終末論を空間化するという事である。「帰る」 「捜す」「見つける」「来る」といったような言葉遣いは、場所と関係している。 つまり空間的な概念なのである。/…イエスが「どこから来て、どこへ行くのか」 を知るとか知らないとかいう事が、重要な神学的なモチーフを形成している。』
『つまりここでは、「イエスは誰であるか?」というキリスト論的な問いが、 「イエスはどこから来てどこへ行かれるのか」という形で問われている。』
『換言すれば、…終末論の現在性と未来性との時間的緊張関係が、上なる神の領 域と「この世」との空間的緊張関係に転換されていると言えよう。…つまり、 …「イエスの時」の切迫による時間的緊張が信仰の決断を促すと同時に、いや、そ れよりも強く、上から「この世」へとイエスが派遣されたという事件の緊迫性が信 仰の決断を迫る。つまり、父がみ子を派遣したというキリスト論に終末論が内包さ れる傾向にあるとも言える。』

説教者の関心

松永の「時間的理解としての終末論が空間的理解に転換されている」という指摘 は重要である。福音書は、もちろん第一義的にはイエスの宣教活動を伝える記録・ 伝記的機能を持たされているが、それ以上に、我々の実存的な信仰的決断を迫る方 法論としての意義が大きいからである(そうでなければ、伝承を編集したりエピソ ードを創作したりして物語形式に整理する必然性は、殆どない)。

我々は「自分が何者であるか」「他者は何者であるか」を理解する指標を得るた めに、「どこから来て・どこへ行くのか」と問いを立てる。わたしとあなたとの出 会いが決定的であればあるほど、我々はその「必然性」を問わずにいられない。そ してその問いは、出自や時間的経過などの現象的な説明で満足されず、「前世」や 「神の摂理」にまで発展して説明される事を求めざるを得ないのである(「おお ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」という問いは、決して「ロミオがいかに して誕生したか」「ロミオはいかにして成長し、現在のロミオになったか」を尋ね るものではない)。

ただし、ここで「カルト・サバイバー」としての竹迫は、必ず立ち止まる(えー 解説しますが、竹迫は統一協会の脱会者です)。この「どこから来て、どこへ行く のか」という問いの立て方をもって迫り、「時間が切迫している」と追い立て、 「これがその答えだ!」と用意したゴールに追い込んで行く「勧誘」を、カルトに おいて経験しているからである。

現在、竹迫によるカルト批判は、この「マインドコントロール」と呼ばれる方法 論に限定集中している。竹迫は、聴衆に対してそのアプローチを取ることを拒絶す る。本テキストにおいて提示されている問いを受け止めつつ、しかしカルトにおい て体験した方法論を採らずに、それを「福音」として聴衆に伝達しなければ、本テ キストによる説教を「竹迫が」語る意義は100%失われる。つまり、この問いに 対して安易な解答を用意する道は、竹迫には許されない。仮に竹迫が「イエスこそ 救い主」という信仰を堅持していたとしても(おっと危ない。竹迫は堅持している のです)、それを「牧師」「説教者」としての職業的要請を理由に聴衆への解答と して提示するならば、テキストの「問い」に竹迫自身が実存的に答えていないこと になるからである。そこで、本テキストによる竹迫の説教は、「カルト・サバイバ ー」としての実存的な問いを踏まえつつ、テキストに現れる問いを「問い」として だけ提出する立場を出てはならない事になる。解答は「問い」を向けられた聴衆自 身が出すべきであり、竹迫は現代の聴衆に現代の形をとって「問い」を再提出する 事に専心したい。願わくは、それがキリストにおいて現された神の救いの意思への 応答を引き出すものとされれば良いのだが!(←祈り)

聴衆の関心

竹迫が本テキストによる説教を語る相手は、直接には1997年1月12日の浪岡伝道 所礼拝に集まる人々である(当日の聴衆は2名でした)。また、出席していなくて も浪岡伝道所会員の全てを想定しなくてはならず、ファクス・電子メールによって 説教を届ける数名の人々の事も忘れてはならない。同時に、浪岡の地に生きるすべ ての人々・聴衆の生活領域に存在する全ての人々・さらに同じ生活時空間を共有す る日本全土の人々、全世界の人々をも想定しなければ、それは「神の言葉」とはな りえないであろう。直接顔を合わせる人々、そこから間接的に広がって行く人々の 繋がりの全てが、「説教」の「聴衆」である。

これらの人々の関心は、必ずしも「イエスはメシアか」に向けられてはいない場 合が多い。しかし「これらの人々にキリストの救いは有効であるばかりか不可欠で ある」と信じる竹迫は、これらの人々が置かれている状況を手掛かりに問いを提出 するべきと考えている。そこで「全ての人々は、同じ神によって命を与えられた兄 弟姉妹である」という創世記的前提にのっとり、とりたてて現在に問題意識を持っ ていない人々も、様々な苦悩を現在形で負っている人の存在と無関係ではない、と いう思想的前提に立つ。様々なフィールドワーク(最近では、教会員たちの抱える 諸問題・ラモス=ホルタ氏の講演・カルトウォッチ・「いのちの電話」との関わり ・学生YMCAとの交流・高校生たちへの関わり・自分自身の負う「脱マインドコント ロール症候群」の問題、その他多数)から得られた情報と、それに基づく考察など を通じて、現代に語られる「神からの問い」としての説教を製作するのである。 …竹迫は、説教者は自己のアイデンティティ・自己の属する共同体のアイデンティ ティと無関係に語られる教説を、「説教」とは考えられないのである。問われるの は、「この共同体は、神の前にいかなるアイデンティティを保つのか」であり、 「その共同体に、自分はいかなるアイデンティティを保つのか」である。

説教作成

コーヒー・タバコの抑制なき摂取(「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行 動していないので、罪に定められます」ローマ14:23)、気晴らしの音楽(「新し い歌を主に向かって歌え」詩96:1)、時には現実逃避のバーチャロン(「アッバ、 父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけて下さい」 マルコ14:36)、やがて徹夜(「『わたしにはすべてのことが許されている』。し かし、すべてのことが益になるわけではない」Iコリント6:12)。およそ宗教的雰 囲気とはかけ離れた世俗的環境において、竹迫の説教原稿は作成される(「父よ、 彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」ルカ23:34)。

語る(!)

その場に集う面子によって、当然アドリブがあり得る。何より「福音の伝達」こ そが説教の使命であるから、伝達が起こらなければその行為はほぼ無意味となる (説教者からの神に対する献げものにはなる……かもしれない)。「聖書を読ん だ事がない」という聴衆が1人でもいれば、当然基礎知識的な話が多くなる。仮に 「他者を抑圧したまま、神の救いを得る事はできない」という説教原稿を作成した として、しかし目前に抑圧を受けている当事者が1人でもいたら、原稿を一切無視 して「あなたにこそ、神の救いは約束されいる!」と語らなければ、そもそも「救 いの証言としての説教」という大前提が崩れてしまう。

だから、説教者にも聴衆にも、祈りが不可欠なのです。


竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>