<岡山大学YMCA聖書研究報告>

「二つで一つ・・非日常から日常へ」(ルカによる福音書第10章25-42節)

鳥取大学YMCAシニア 板野靖雄 

1.新入寮生参加

 春休みもなくノンストップで岡大Yの聖研は続けられた。本日は月に1回の我が家での聖研だった。そして操山寮の新入寮生の3人(成尾、吉田、中川の3君)を迎えての会となった。彼らにとっては、初めての聖研ということで、オリエンテーション的な意味を考えてルカ福音書11章「あるサマリア人のたとえ」「マリヤとマルタ」の箇所を選んだ。「彼らは少しでも発言できるだろうか」などという心配は全くの杞憂に終わった。それどころか彼らの発言が引き金となってより深い理解へと到達した。これは何なのだろうか。それはおそらく「わかる」ということの構造によるのだと思う。すなわち「わかる」ということは理論を積み上げたのちに到達するというものではない。そうではなく、ある瞬間にひとつの段階から次の段階へと飛躍する形で「わかる」ということが起こるのだ。そして新しい参加者の小さな疑問や新たな発想がまさにその飛躍の起爆剤になるのだ。そして今回も心が震えるような言葉に出会い、「何度も本当に興奮した(松本)」。さあみていこう。

2..「一つだけ」の中の「良い方」?

 輪読を終え、10分間の沈思の後、各自が思うところを述べていった。初参加の吉田君がこんな発言をした。「41-42節でイエスの答えに『無くてならないものは多くはない。いや、一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ』とある。『一つ』と言いながら『良い方』とは何なのだろうか」と。英訳でみると「一つ」は「one thing」で「良い方」は「good part(portion)」である。つまり「良い方」とは良い部分、良い側、良い側面のことである。なるほどこれでは「一つ(one thing)だけ」が崩れてしまうではないか。「一つ」の中に部分や側面があれば、それは多面的であって「一つ」とは言わない。さあこの質問を受けてどう答えるか。いや答える前に多くの人は「いったいそれがどうした」と思うだろう。ところがこの問いが今回の聖研の議論の底流となり、やがて驚くべき結論へと到達するのだ。

3.マルタとマリヤ

 イエスたち「一同は旅」の途中の「ある村」でマルタとマリヤの家に立ち寄る。「イエスを家に迎え入れた」のは「マルタという名の女(38)」。どうやらマルタがこの家の女主人のようだ。妹のマリヤはイエスの「足元にすわって(39)」、イエスの話に「聞き入っていた(39)」。一方マルタは「忙しく(40)」イエス一同を「接待(40)」していたという。そしてマルタは「イエスのところにきて言う『妹が私だけに接待をさせているのを見て何ともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃって下さい(40)』と。

 「これは聖研に板野さんが参加して、昇子さんが家で子供の面倒をみている板野家の姿ですね。」いやー、言ってくれるね河野君!。

 マルタはなぜ直接マリヤに苦情を言わないのか。なぜイエスに言うのか。実はマルタはマリヤのようにイエスに出会いたいのだ。マリヤがイエスの元にいることで「心をとりみだす(40)」。そこには「いらだち、嫉妬(昇子)」がある。そしてマルタはイエスに「自分を見て欲しい(大澤)」のだ。自分の接待を認めて欲しいのだ。だから「何とかお思いになりませんか。おっしゃってください」と議論をふっかけるのだ。

4.イエスの答え・・二つで一つ・・

 そのマルタに向かってイエスは呼びかける「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。(42)」と。それは「叱責ではない。優しい言葉だ(昇子)」。そしてそれはマルタの心がどこにあるのかに思いを寄せた言葉だ。それは「マルタへの非難ではない。ただ事実を言っている(松本奈美)」のだ。この対話の中でイエスはマルタ自身の在りように深く迫っていく。この場面では「マリヤよりマルタの方がうれしかったのではないか(大澤)」。

 イエスは続けて言う「マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは彼女から取り去ってはならないものである(42)」と。これも「事実を言っており、マリヤを誉めていない(松本奈美)」。筆者マルコのイエスに対する理解がイエスの言葉を「御言葉(39)」と言わせる。だがイエスは自分の言葉を聞くことを全てにまさって良いことと言ったのだろうか。そうではあるまい。読みとれることは「イエスにとってはマリヤもマルタも同じ扱いであり、そしてイエスは二人共へ等距離にあり、平等であった(松本奈美)」ということだ。

 イエスの答えはこう続くと思う。「マルタよ。あなたも良い方を選んだのだ。心を乱さなくてもよいのだ。マリヤはわたしの言葉を聞く方をとった。あなたはわたしと弟子たちを具体的に支え、助けてくれた。そのどちらが優るということではない。そのどちらもが無くてはならぬ大切なのだ。その二つで一つなのだ。」なんと「ただ一つ」のものには二つの側面があったのだ!両面があったのだ! なんと「良い方」が両側にあったのだ! これが吉田君の問いが解けた瞬間だった。

5.「神を愛す」と「隣り人を愛す」

 ところが話はこれで終わらず、さらに深く展開していく。その発端は、これまた初参加の中川君の言葉だ。「マリヤは『神を愛した(27)』人、マルタは『隣り人を愛した』人として描かれているのではないか」。生まれて初めて聖研に出て何でこんな言葉が出てくるのか!

 そもそも今回の箇所は律法学者のイエスへの試みで始まっていた。「何をしたら永遠のいのちが受けられましょうか(25)」と。律法学者はいのちを得るためのただ「一つ」の「何か」を問ったのだ。ところが逆にイエスに問いかけられてこの男が答えるのは「『心を尽くし、精神を尽くし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』(27)」ということだ。ただ「一つ」を問ったのに「神を愛する」と「隣り人を愛する」の二つを答え、それをイエスに「正しい(28)」と言われるのだ。ここでも二つが分けられない一つとしてあるのだ。

 「神を愛した」人がマリヤ、「隣り人を愛した」人がマルタであるなら、「いのち」に至る道はその両者の結びつきにある。それはまさに先に展開したマリヤとマルタが「良い方」の両面であることに一致する。

 「御言葉を聞く(39)」ことが最優先されるのではない。問題は聞いた御言葉が、どのように「隣り人」につながっていくのかにあるのだ。

6.非日常を日常に還元する

 それは我々にどうつながっていくか。「学Yでインドに行く、光明園に行く、それらは言ってみれば非日常の体験だ。それを如何に自分たちの日常に還元していくかが問われている(河野)」「非日常を日常に還元する」、河野君!、君はなんて言葉を見つけてくるのだ。河野君、君だってまだ聖研の参加は10回目ではないか。

 マリヤにとって「御言葉を聞く」、それは「非日常の体験」である。それが全てであったり、そこに留まってはいけない。マリヤにはその御言葉を「日常に還元すること」が求められている。隣人に関わることが求められている。

 マルタにとって「接待すること」、それは「日常」の隣り人への関わりである。「日常」が全てとなることも「心をわずらわせることになる」。マルタには「日常」のただ中に「非日常(御言葉)」を見い出していくことが問われている。「非日常(御言葉)」を「取り去ってはならない(42)」のだ。

 「あるサマリア人のたとえ」はイエスの「あなたも行って同じようにしなさい(37)」という言葉で終わっている。それは「たとえをあなたの日常とつなげよ(合田)」という意味であろう。

(いたの やすお)

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