聖 書 研 究

【はじめに】

聖書研究に入る前に、もう少し、お互いを知る作業をします。テーマは「人と接する時にこわいと感じるもの」です。紙を4つに折って、フィールドを作り、その1つに本当に「こわい」と感じていることを、残りの3つに「こわい」けれども、自分にはクリアできるものを書いて下さい。
(5−6名のグループに分かれ、お互いにどれが「こわい」ものかを当て合い、その理由をシェアする。)

多くの人々にとって「こわい」と感じることは、人とのコミュニケーションが取れなくなってしまうことだと思います。もちろん、それは自分自身の意識の上に乗せることで、克服する糸口を見つけることが出来ることかも知れません。

今日は、私にとって「こわい」ものを話したいと思います。この話をすることは、せっかくここへ来て、それぞれの持っている「枠」を壊そうとしている時に、再び「枠」を確認して、垣根を立て直すことになるかも知れません。しかし、それぞれが異なった背景を持っている状況の中で、その「違い」を確認することは、大切な作業です。「同じ」という「枠」、一般的にいう「常識」が、多くの人々を縛り付けている状況があるからです。

【「性」について】

1、性を考えるキーワード

「性」という文字は、「志を持って生きる」という意味を持っていると言っている人がいました。「性」というと、陰湿な、暗いところへ押し込められる、もしくは、タブー視されるイメージがありますが、それは「生きる」ということと密接に関わることなのです。この「性」(sexuality)について考える時に、いくつかのキーワードが存在します。

@生物学的性別(sex)…私たちが生まれた時に、「女性」・「男性」のどちらかに振り分けられるもの。

A社会学的性別(gender)…社会の中で負わされている役割としての性別。いわゆる「女らしさ」・「男らしさ」。「男性」は「強い、守るもの、リーダーシップを持つ、積極的、能動的」という役割として見られるのと対照的に、「女性」は「弱い、守られるもの、従順、消極的、受動的」として見られることがまだまだ多い。

私たちは、普段、この2つのキーワードしか思い付くことがないと思います。しかし、これに加えて、あと2つのキーワードを加えたいと思います。

B性別アイデンティティー(性自認)…自分が「女性」・「男性」のどちらに属しているかという自己認識。

C性的指向(sexual orientation)…性的欲望が向く方向。異性・同性・その他(性的指向が相手の性別によって規定されない、性的欲望を持たない、など)。これを座標にしてみると、以下のようになります。

同性←………………→異性

両極端が「同性」と「異性」にのみ向かっている人々で、その間には、無限の様々なバリエーションが存在しています。ちなみに同性に向かっている人々は、様々な研究の結果、人口の3−10%であると言われています。つまり、日本でいうと、キリスト教の人口よりも多いということになります。

この組み合わせを考えてみると、たくさんの「性」のあり方を考えることが出来ます。

もっと細かく見てみると、生物学的に「女性」・「男性」という性別に振り分けられない、半陰陽(もしくはインターセックス…用語集参照)の人々もいるし、社会的に負わされている「女らしさ」や「男らしさ」に当てはまらない人々、それを生き苦しいから壊そうとしている人々もいます。また、生物学的性別と性自認が一致していない人々、つまり、自分の持っている体と、心で認識している性別が異なる人々(トランスセクシュアル…用語集参照)もいます。また、性的指向については、座標で示したように、本当に様々な人々がいるのです。しかし、実際には、生物学的性別が「女」か「男」かに別れていて、その性別と性自認が一致している人々、そして性的指向が異性に向いている人々が「当たり前」だと思われているので、そのような「枠」の中に、黙っているとはめられてしまうし、人と出会う時に相手を当てはめてしまうことがあります。そして、その「枠」が生き苦しさを作り出してしまうのです。

2、私自身のこと

私のことを話すと、生物学的には女性として生まれてきたし、性自認も女性です。ミッションスクールに通っていたので、「良妻賢母」を育てる教育を受けました。そして、性的指向は女性に向いています。たまたま好きになったのが女性であったし、これから先も女性と人生を築いていきたいと思っています。そんなところから、レッテルを引き受けるとしたら、女性同性愛者、レズビアンとして、カムアウトして生きているということになります。もちろん全てにオープンにしているわけではありませんが。

たまたま好きになったのが女性、と言ってしまうのは簡単なことです。しかし、長い間そんな自分を受け入れることが出来ませんでした。自分の気持ちの蓋をし続けていたのです。

なぜ、蓋をしていたのでしょうか?

小学校の高学年や中学生になると、異性を意識し始める、と言われます。それは極めて「自然」なこととして考えられているため、私の場合は、同性である女性を好きになる、恋愛の対象としてみる、という選択肢はありませんでした。中学生の後半か高校生になって、「同性愛者」という言葉を聞いていた覚えがあるけれども、そこには「ポルノ」のイメージしかありませんでした。異性愛者の男性たちが「男にもてないかわいそうな女たち」という設定で作ったもの、また一度に複数の女性が見られるということで「鑑賞用」に作ったものです。そのイメージは、あまり悲惨だったので、自分と重ねあわせるなんてあり得ませんでした。

その間、男性の「恋人」もいたけれど、周りの人々が楽しそうに話す「恋愛」を自分にとっては大切なものとして考えることはありませんでしたし、自分は「恋愛」には向かない人間なのだと思っていました。しかし、時間を経て、大学・大学院に入って、好きな人が出来ました。身近にいた人です。たまたま彼女も、私に好意を抱いてくれていたので、彼女との関係の中で、自分のセクシュアリティについて、考え始めたのです。しかし「常識」からは外れたことだという認識があったために、自分たちの関係を私の中で肯定することが、最初は出来ませんでした。しかし「常識」とは一体何でしょうか?誰かと人間関係を作って行くのに、それを阻害するものがあって良いのでしょうか?同性愛者のコミュニティに連絡を取り、仲間と出会い、同じような心の葛藤を聞くことによって、ようやくポジティブに受け止め始めることが出来ました。

3、「当たり前」という「枠」を作り出すもの

こういう状況を振り返ってみて、やはり、自分を肯定できなかったのは、周りにモデルがなかったということ、否定的なイメージしか植え付けられていなかったことにあると思います。否定するしかない、考えることがこわいという「枠」を作ってきたのは、そのような外から与えられるイメージと、自分の中にあるもののギャップがあったからです。では、どういう形で「常識」がとらえられ、それに対して、どういうモデルがあれば良かったのだろうか、ということについて話したいと思います。

@性教育

私たちは、小学校高学年になると学校で性教育の授業を受けます。私の時代には、薄暗い体育館に集められて、スライドを見せられ、子供はどうやって生まれてくるのか、という話を聞いたのを覚えています。1つは、体育館の薄暗さから、また「課外授業」という特殊な空間から、性については、暗い、日常生活の中ではあまり触れてはならないイメージが作られます。また、その内容についてですが、女の子として教えられたのは「子供を産む」ということです。初潮を迎えると「女らしい体つきと感情」が備わり、「いずれ愛する人と結婚し、子供を産む」から、体は大切にしなければならないと教えられるのです。そこには「産む」という機能のみを伝える目的があり、どうやって育てるかということも教えられないし、まして、結婚しない人々、身体的に子供を産むことが出来ない人々、また中絶する人々の存在については、何も伝えられません。つまり「産む」ということ以外に選択肢がないのです。

アメリカでの性教育の試み(全米性教育情報協議会総合的性教育ガイドライン/1994.4)があります。もちろん、アメリカ全土で、行われているわけではないですが、様々な生き方があるということ、性(セクシュアリティ)は生(生きること)と結びついているのだということ、がそこでモデルとして提示されています。少し例を挙げれば、小学校低学年・高学年・中学生・高校生の4段階に分けられていて、すでに小学校低学年の時期に、「社会には、同性愛者と異性愛者がいる」、「異性愛者は、同性愛者に比べて、人数が多い」ということが教えられるようになっています。これは、生き方の多様性を示すものではないでしょうか。

Aドラマや小説

私たちが生活の中で接する文化は、やはり異性愛を中心として見ています。マスメディアが取り上げる「同性愛者」は、「女装した男性」や「男装した女性」として、バーなどで商売をしている「特殊」な空間の人々としてとらえられています。私自身は、彼女/彼らは、生物学的性別と性自認が一致していないので、「同性愛者」という「枠」に当てはめるのはおかしいのではないかと思っているのですが。また、特にこの3−4年、トレンディドラマでも、いわゆる「純愛もの」が流行になっている中で、たまに同性愛者が登場するものがあります。彼ら(男性しか見たことはないが)は、最終的に、殺されていきます。そこには2つのパターンがあります。1つは、同性愛者として生きようとするけれども、恋愛が実るわけではなく「不幸」というレッテルが貼られるパターン。そしてもう1つは、異性と恋愛し、結婚することによって、「幸せ」を獲得するというパターン。結局、同性愛者として、ありのままの姿では、自己実現できない存在として取り上げられているのです。

またもう1つ例を挙げると、HIV/AIDSの問題があります。エイズが発覚した時、それは男性同性愛者の病気であると宣伝されました。日本の厚生省は、日本人のエイズ感染者第一号を、「アメリカ在住の男性同性愛者」であると発表しました。実は血友病の人であったわけですが、この発表は、その事実(血液製剤にHIVウイルスが入っていたこと)を隠すために生み出された2重の差別です。1つは同性愛者、つまり多くの人々には関係のないことであるという点、そしてアメリカ在住、つまり同性愛はアメリカのものであるという点です。もちろんこの発表は、日本の同性愛者を不安に陥れました。そこから大々的に日本のゲイたち、そしてそれに連帯してレズビアンたちが運動を起こすきっかけともなりました。

とにかく最近では、同性愛者たちが、自分たちの存在を肯定し、生きようとしています。「見えない」存在として生きている状況、つまり「差別」以前に「黙殺」されているというマイナス・イメージから、既成の概念にとらわれず自由な世界に生きている、「クイア」たちというプラス・イメージを作り出そうとしています。この「クイア」という言葉は、もともとアメリカで同性愛者を嘲笑する言葉として使われていました。日本語に訳すと「ヘンタイ」という意味合いです。しかし、アメリカの同性愛者は、その意味合いを逆手に取り、この言葉を自分たちを表す言葉として引き受けたという経緯があります。その過程の中で、同性愛者のみならず、様々なセクシュアル・マイノリティを表す言葉として、使われ始め、今では「異性愛も性のあり方の1つに過ぎない」ととらえる異性愛者の人々をも含む言葉になってきています。

その「クイア」の活動をいくつかご紹介します。今日(8月17日)、この時間には東京で、第4回東京レズビアン・ゲイ・パレードが行われています。人権を人々に認めさせるために「私たちはここにいる」ということをアピールするために始まったデモですが、これは1つのお祭りとして、楽しむ企画となりました。私も2年前のパレードで初めて自分の顔をさらして参加し、テレビや雑誌の取材やドキュメンタリー映画に少し登場しました。また、秋には女性同性愛者のパレードである、第1回ダイク・マーチ(10月10日)が開催されます。また文化的な側面としては、映画祭が東京から始まり、大阪・京都でも毎年開催されています。欧米で作られた映画やドキュメンタリーを中心として、日本で作られたもののコンテストなど、素材は広がっていく傾向にあるようです。

ここ2〜3年の間には、多くの本が出版され、同性愛者の苦悩や、生活のみならず、研究・学問という分野も作られています。こうして、情報を広げていくことによって、「当たり前」とされていることを問い直す作業が行われています。

これらの事柄、つまり誰と関係を作って行くのか、どういう生き方をして行くかは、「極めてプライベートなこと」に過ぎません。しかし、私たちは社会の中で生きている以上、その価値観を背負っています。つまり私自身が蓋をしてきたことを考える時、その社会というものに目を向けざるを得ないということが言えると思います。

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【聖書研究】

聖書を読みたいと思います。この箇所は、2つの意味で興味深いものです。

1、 女性の権利(マタイ19:3−9)

イエスは、社会の中で嫌われている人々、人格として認められていなかった人々と食事をしたり、わざわざ出会ったりしていました。そんなイエスの行動を見ていて、普段から気にくわない人々がいたわけです。彼らは罠を仕掛けようとして、イエスに問い掛けました。それに対するイエスの返答は、「結婚」というものを後生大事にしていて、それを壊すということ、つまり「離婚」に対して、頑なに反対しているように見えます。その背景を少し探ってみましょう。モーセのことが出てきますが、これは旧約聖書の申命記24章1節に出てくる言葉を指しています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」という言葉です。当時、ラビ(ユダヤ教の指導者)たちの多くは、旧約聖書にある申命記24章1節の「恥ずべき事」を拡大解釈していたようです。妻の小さな落ち度によって、夫が一方的に離婚状を突きつけることが多かったのです。現代で言えば、料理がまずいということも理由の1つになるかも知れません。そのような状況から、このイエスの言葉が発せられているのです。この言葉は、 簡単に離縁状を叩き付ける男性たちに対して、夫の「財産」として、家畜などと同等に扱われた多くの女性たちの権利を守るものと考えることも出来ると思います。

2、 セクシュアル・マイノリティの存在(マタイ19:10−12)

後半の部分ですが、私がこの聖書の箇所を読み直そうとした切っ掛けは、ある友人との出会いにありました。「マタイ、というところに、僕のことがのっているらしいけれど、何て書いてあるの?」と問われ、答えられなかったのです。彼は半陰陽(用語集参照)でした。生まれた時に、外性器で「男の子」と判断されました。そして男として育ち、男らしくしようとして、バイクに乗ったり、スポーツをしたり、努力をしてきたという。しかし、20代後半になって、色々考え、今も30代後半になって、悩み続けています。話を聞いた後、聖書の箇所について、家に帰って探したが、見つからないし、様々な注解書を読んでみてもありませんでした。

そして、友人に尋ねているうちに見つかったのです。何と日本語の聖書には、訳されていないので、見つからなかったという現実でした。これは、京都で集まっている「セクシュアリティと信仰を考えるキリスト者の会(仮称)」での作業ですが、ご紹介したいと思います。12節にはこういう言葉が出てきます…「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」。ここには日本語訳の2つの問題点があります。まず1つは「結婚できない」と訳されている言葉です。これはもともとのギリシャ語では「去勢された」という意味を持つ言葉です。つまり「男性器が機能しない」という意味を持っているのであって、「結婚」とは関係のない言葉です。もう1つは最後の「天の国のために」という部分が、逆接として結ばれていますが、並列の意味を持っている言葉でもあるという点です。様々な理由によって男性器が機能しない人々がいるけれど、その全ては並列であるということです。つまり12節を訳し直してみるとこういうことになります…「生まれつき去勢された者もいるし、人から去勢された者もいる。そして天の国のために去勢 されている者もいる。」そして、これらの状況を並べた後に「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」という言葉が登場します。これは大きなポイントです。当時は、家を継ぐための男の子を残すことが、イスラエルの民の繁栄に繋がり、宗教的に「祝福」される対象でした。去勢された人々は、ユダヤ社会では拒否され、来るべき神の国には入れないとされていたのです(旧約聖書の申命記23:2、レビ22:24)。しかし、ここでイエスは、消極的ではあれ、そんな人々を受け入れようとしているし、周りの人々にもそう呼びかけているのです。これは当時の社会に対しての大きなチャレンジであったことでしょう。

このような記事から、当時、社会の中で「当たり前」とされている性のあり方を持っていない人々が、イエスの集団の中にいたことも考えられます。もしかして、その人たちの目の前で語られた言葉だったかも知れません。だとしたら、社会の中で否定されていた人々は、ここで自分を肯定するきっかけを与えられたと考えることも出来るでしょう。

【まとめ】

セクシュアル・マイノリティのことを考えるのは、当事者の解放だけのためでしょうか。私はそうではないと思うのです。様々な生き方が世の中にあるということを、より多くの人々が知ることによって、選択肢が増えます。選択肢を増やすということは、私たちを縛り付ける「枠」を少しずつ壊していくという意味を持っていると思います。

「Coming Out」という言葉があります。クイアであることを公表する、告白するという意味から、今は様々な場で、自分のことを表現する、という意味でも使われています。この言葉は、もともと「Coming Out from the closet」という言葉です。つまり「押し入れから出てくること」。暗い、じめじめした、空気のよどんだ押し入れの中から出てくることです。自分の姿もよく見えない場所で、自分の姿を他の人々からも隠すのではなく、明るみに自分を出してやることです。私たちは、必要のないいくつもの枠を作って生きているけれど、その枠から出ることで、太陽の光を全身に受け、時には、深呼吸をしながら生きていくことによって、もっとのびのびと生きていくことが出来る、周りの人々との関係を作っていくことが出来ると思います。

もちろん、自分を明るみに出すことは、楽なことではありません。傷つく覚悟もしなければならない時もあります。しかし、自分をちゃんと表現することが出来ないままに作る人間関係と、傷つくことを覚悟で作っていく人間関係と私たちは、どちらかを選ぶ必要があると思います。皆さんは、どちらの生き方を選ぶのでしょうか。私もここに参加したことによって、皆さんとの対話を続けて行きたいと思います。

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